散華−終−



そこは一寸先も見えない暗闇の中。手を伸ばしてみても触れるものはない。
足を踏み出すと浮遊感。そういえば立っている感覚さえはっきりしない。
(あの世ってこんな所なんだー。あ、龍の腹の中かなー。)
『まだ喰ってはいないぞ。』
声が響く。
同時に眼前に出現した光は、細長くうねりやがて、輪郭ははっきりしないまでも龍の形をとる。

(銀龍だよねー?)
『ああ。』
(ここは・・・・・・精神世界みたいなものー?)
『そうだ。』
(・・・・・・・・・黒鋼は?)
『生きている。そのためにお前が、弾を受けたのだろう?』
(そっか・・・・・・よかったー・・・)

やっとファイはふにゃりと表情を崩した。といっても、今は自分も精神体の様なものらしいので、何処まで表情があるかは分からないが。

(でもきっと、黒鋼の肉は君の口には合わなかったよ。腐ってないからさー。)
『ああ。不味そうな奴だったな。』

龍の飢えを満たすのは腐肉、汚れて腐った魂だけ。
黒鋼が死んでも、龍の飢えは満たされまい。『窓辺の恋は悲劇に終わる』、そんな迷信めいた言葉を、恐れるような彼だから。
もっと腐った魂の持ち主を知っている。人の言葉の裏を知り、それ故に信じることを忘れ、自分が望む者のためなら、世界の正義さえ踏みつけるような。

(きっとオレの方が美味いよー。)

だから自分が死ねば良いと。
最後に黒鋼に貰った跡を、永遠に消えない証にして。

不意に、龍の姿が揺らいだ。
『時間だ。』
(そろそろ食べるー?)

何でもないことのようにファイは尋ねる。
何でもないのだ。赤い賽の目を見たときから、死ぬ覚悟は出来ていたし、死を不幸だとは思わない。
それに、死後の世界での幸福など望みもしない。死んだ後は地獄へ堕ちようが、龍に喰われようが同じこと。
ただ、現世に彼を残してきた、それだけが悲しみ。

(何処から食べるー?頭から?足から?)
『・・・・・人とは、不思議な生き物だな。』
(んー?)

龍の言葉にファイが首を傾げると、龍の姿だけでなく世界全体が揺らいだ。

『飢えは満ちた。いかにも不味そうなあの男は、私を握る者としては不満はない。』
(え・・・満ちたって・・・・・・?)
『それから、お前は自分で思っているほど、私には美味そうには見えないぞ。』
(ちょっ・・・銀龍っ!?)

世界が歪む。龍が消える。
酩酊感にも似たその感覚の中で。




ファイは確かに自分を呼ぶ声を聞いた。







・・・・・・・・・かたん

窓が開く音に薄く目を開くと、陽の光の中、黒い影が立っていた。
「いらっしゃーい。」
「起きてたのか。」
「今起きたのー。窓の音でー。」
「・・・・・・悪かったな。」
黒鋼は決まり悪そうにファイの隣に腰を下ろす。腰に下げていた銀龍は、鞘ごと抜いて横に置いた。


あれからもう二週間。

あの直後に部屋を訪れた蘇摩の応急処置と、たまたま店に客で来ていた医師の手当てにより、一度は呼吸も止まったものの、ファイは一命を取り留めた。腹に傷は残ったが、一ヶ月もすれば動けるようになるらしい。

黒鋼は、剣の腕前を買われ、白鷺城に警備として雇われた。刺客が多くてなかなか気に入っているらしい。
夜は仕事なので、ファイの元を訪れるのは朝方だ。もう危険な仕事はしていないので、姿を見られても問題ないと本人は言う。それに、遊郭はこの時間が眠りの時間だ。

あの事件で亡くなったのは、黒鋼に斬られた和泉屋だけ。彼の腐肉は、さぞかし龍の口に合ったことだろう。店は封真が継いだ。
事件は知世の力で内密に片付けられ、和泉屋の死は単なる事故死とされている。

しかし何処から漏れたのか、金の髪の花魁は、客でもない忍と恋仲にあるとの噂が流れ、すでに本まで出版されたらしい。あれだけの騒ぎがあったのだから無理もないが、花魁と忍が世間公認の仲というのも。
「まあ、噂はすぐに消えるよー。」
ファイは慣れた様子でそう言うが、それも少し寂しい気がする。

取り合えず、すべては収まるべき所に、一応は収まったようだ。

(収まるべきところかー)
小さく溜息をつくと、具合でも悪いのかと訊かれた。
首を横に振ったのに、額に手を当てられる。信用できないらしい。
こぼれそうになる笑みをこらえて、その手をそっと、口元へと引き寄せる。

かり・・・・・・

甘い痺れに、黒鋼は僅かに目を細めた。
そして、お返しだとばかりに、今度はファイの小指に歯を立てる。
怪我のせいで、以前より細くなった指が折れるのではと案じて、殆ど歯で触れるだけだが。

噛んだ手でそのまま頬に触れられ、黒鋼は求められるままに体を曲げた。
ファイの傷に触らない程度に唇を重ねて、そして首筋にも唇を落とす。あの夜の跡は、永遠に残る証にはならなかったが、初めて跡を残した場所にだけ、今もくっきりと咲く赤がある。訪れるたびに、黒鋼が触れる場所だ。
消えない跡になれば良いと、口に出すのはファイだけだ。

静かな情事を終えて、ファイはまた小さく溜息をこぼした。
「黒鋼ー。」
「何だ。」
「駆け落ちしようかー。」
「・・・・・・あ?」
「花魁と忍の本、大和屋さんが、一冊仕入れてくれてさー。その結末が、忍が花魁を連れて遊郭を出るんだけど、追っ手に見つかって二人で手を繋いだまま川に身を投げるって言う」

花魁の駆け落ちは、殆どが心中と同義だという。

「ありがちだな。」
「そう?オレは好きだけどねー。」
「そういうくだらねえことは、動けるようになってから言え。」
「はーい。」
(動けるようになってから、ね・・・)

本の中の忍は、抱いて逃げてくれたのだが。
白鷺城とここでしか一日を過ごさない黒鋼は、世間の噂に疎いらしい。

「黒鋼ー、」
「今度は何だ。」
「オレ、身請け決まったから。」

案の定、黒鋼の表情が固まった。
黒鋼との中が世間公認になったとしても、ファイが花魁であることに変わりはないのだ。

「・・・誰に・・・買われるんだ・・・・・・」
「大和屋さん。取り合えず、動けるようになったらだってー。」

動けるようになったら、ここからいなくなる。身請けされるということは、一生その人のために生きる事を強要されるようなもの。もう黒鋼とは会えない。

「こんな傷が残ったら、もう体は売れないしね。悪い話じゃないと思うよー。すごく、オレを想ってくれてる。傷も、外国の医者に見せたら、消せるかもしれないってー。」
「傷なんか・・・」

言いかけて、黒鋼は口をつぐんだ。傷云々の問題ではないのだ。金を払われたから、身請けされる。それだけの話。ファイが、どうこうできる問題ではない。ましてや黒鋼には、口を出すことさえ不可能。窓から通ってくるだけの忍など、完全なる部外者だ。

表情を曇らせる黒鋼の手を、ファイが再び口元へ寄せた。

「小指をあげるよ・・・。」
「・・・小指?」
「花魁はそうやって、想いを証明するんだー。」

そういえば以前、そんな話をした気がした。
ここを出る日に取りに来て、と、ファイはいつもと変わらぬ笑みを浮かべた。





身請けの儀が執り行われたのは、その二週間後。
儀とはいっても、まだ傷が完治していないファイを気遣って、大和屋は盛大な式を行うことはしなかった。ただ赤い着物に袖を通して、店の前から駕籠に乗るだけ。

金の髪の花魁の身請けとあって、見物客は多かった。ファイの客だった者、ただ憧れを抱いていた者、興味本位で見に来たもの。
神威と並んで封真の姿もあった。特に言葉は交わさなかったが、目が合うと、封真は深々と頭を下げた。

黒鋼の姿はなかった。

「ファイ、」
「・・・・・・はい。」

大和屋に促されて駕籠に乗り込む。戸を閉めると、すぐに体に揺れを感じた。
人ごみを抜けたであろう頃を見計らって小窓を開ける。殆ど店から出たことのないファイにとっては、すぐ近所でさえ見知らぬ場所だ。けれど一つだけ、知っている場所があった。

(大門・・・・・・)

それはこの街の入り口にそびえ立つ、現世と遊郭の境の門。
窓外に現われた門の姿は、ゆっくりと視界を横切って、後方に消えていった。
遊女は皆、この門を出ることを夢見るというが、実際経験してみると、それは意外とあっけなく、何かが変わったとも思えない。

(何も変わらないもんねー・・・)

ただ求められる愛が、一夜のものから永遠へと変わるだけ。花魁という肩書きはなくなっても、愛を売ることに変わりはない。
ただ、名を呼んでももう、彼が現われることはないのだ。

「黒鋼・・・・・・」
「・・・・・・何だ。」
「・・・・え?」

それでも声は、背後から聞こえた。

「黒鋼!?」
「騒ぐな。前の駕籠にばれるだろ。」
「どうして・・・・・・」
「指をやるって言ったのはお前だろうが。」

駕籠を担いでいるのは黒鋼らしい。何処で入れ替わったのか。
本当に忍だったのかと、少し感心したと言ったら、また怒鳴られるだろうか。

「えっと・・・じゃあ、小刀とか持ってる?」
「・・・もう大門は過ぎた。」
「うん・・・・・・それがどうし」
「お前、もう花魁じゃねえんだろ?」
「・・・・・・。」

それは、切るなという事だろうか。指切りは花魁の愛情表現だから。

「じゃあ、何しに来たの・・・?」
「指を切らねえなら、本人ごと奪うしかねえじゃねえか。」
「・・・駆け落ち?」
「何とでも言え。もう少し行ったら川がある。蘇摩が船を用意してる。」
「抱いて逃げてくれるー?」
「・・・ろくに動けねえなら、しょうがねえだろ。」

窓から柳が見えた。これが、見返り柳だろうか。遊郭帰りの男達が、一度遊郭を振り返る場所。
ファイは見返ることはしなかった。思いを抱いて振り返るべき者は、すぐ後ろに居る。

「黒鋼・・・」
「何だ。」
「愛してるよ。」
「・・・・・・何を今更」
「初めてだよ。」

今までは一度も、愛の言葉は口にしなかった。
遊郭で語られる言葉は、どれほど想いを込めても、嘘になる可能性を秘めると信じていたから。
大門を出ただけで、これほどまでに何もかもが変わるものなのだ。

「そう言えば・・・南天に込められる意味を、まだ話してなかったねー。」
懐に入れた手が簪に触れて、ふとファイは思い出す。あの日、途中になってしまった会話を。

「南天の意味はねー・・・」

後ろで、黒鋼の顔がこわばったのが雰囲気で分かった。きっとすぐに、そんな意味でやったんじゃねえと怒鳴る声が聞こえるだろう。





数日後、花魁と忍の恋愛を、実話を基にして描いた本が出回った。
花魁は忍と共に姿を消し、大和屋の下には、赤い着物だけが残されたという。
『南天』と名づけられたその本を読んで、「姐さんらしい」と神威は言った。
きっと今頃、幸せに暮らしているだろう。

「でも、どうして題が南天なんだ?」
首を傾げる封真に、神威は嬉しそうに答えた。
「すごく素敵な意味があるんだ。」

それは、別れの前夜にファイが教えてくれたもの。



『私の愛は増すばかり』









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