散華−六− 『貴方を信じています、和泉屋様。』 花魁は、まだ名乗るべきではない名で自分を呼んだ。 悩んだつもりだ。自分なりに。 人として。 男として。 跡継ぎとして。 そしてたどり着いた答えは、決して彼が望んだように、愛のためだけに生きるという意味ではないけれど。 差し出された二つの道。 一つを選んでも誰も悲しむことはないが、もう一つは神威を悲しませる。 人としては間違っているのかもしれないが、咎めを受けることだけが罪滅ぼしではない。 封真は、父の私室を訪れた。 「父さん、話があるんだ。」 和泉屋は、最近外国から仕入れた武器を、丹念に磨いている最中だった。 「珍しいな、お前から話など。急ぎの用か?」 「・・・・・・ゆっくり話したい。大事な話なんだ。」 「この後は予定がある。」 そう言って、和泉屋は磨いていた武器を置いた。 まだこの国には普及していない武器だ。 不気味に黒く光るそれは、確か『ぴすとる』という名だったか。 「お前、明日も遊郭か?」 「・・・ああ。」 「ではわしも行こう。酒でも飲みながら聞いてやる。」 「・・・・・・何か、いいことでも?」 「大きな仕事が入る。前祝もかねて、金の髪の花魁に酌をさせたい。」 金の髪の花魁。丁度良い。説得するのはあくまでも自分だが、ファイの口ぞえが得られるならこれほど心強いものはない。 大きな仕事というのは、おそらく白鷺城のくの一が言っていた、秘物に関することなのだろうけれど。 「分かった。じゃぁ、明日。」 どうして別れを告げてこなかったのだろう。 今にも消え入りそうな月を見上げて、黒鋼は自問する。 簪を渡したら、もうあそこには行かないつもりだった。 忍は偲び。情に流されるようなことがあってはならない。 だからこれ以上、想いが強くなる前に。 「・・・・・・ちくしょう。」 本当は言おうとしたはずだ。格子の向こうの彼に、もう来ない、と。 けれどふと、あの窓がもう、自分のために開いている事はなくなるのかと。 そう思うと、どうしても。 「未練がましすぎだろ・・・・・・」 長く吐き出した溜息を、聞いているのは空の月のみ。今にも消え入りそう細い月は、赤い着物を纏った金の髪の花魁を思い出させた。 今思えば何度、あの儚げな存在を抱き寄せたい衝動を抑えたのだろう。 彼が着る赤は、まるで抱いてみろとでも言わんばかりに欲情を掻き立てる。。そしてそれが彼を花魁たらしめている気さえして、無性に腹立たしかった。 「未練か・・・」 なんて自分に似合わない言葉。 自嘲の笑みを浮かべると、いつか噛まれた小指が疼いた。 「どうせもうすぐ死ぬらしいしな。」 どうあがいても、その先は、想いが深まることなどないのだから。赤に誘われてみるのも良いかもしれない。 風が頬を撫でていく。この辺りでは、あの白い花弁は舞わないらしい。 「最後に、あの花の名でも聞きに行くか。」 「新月まで、もう少しですわね・・・・・・」 夜空を見上げて知世は呟く。細い細い月は、何を暗示しているのだろうか。 龍の咆哮が聞こえる。飢えが最高潮になるまであと少し。そうなると、一人や二人の腐肉では、押さえ切れなくなる。 「姫様、腐肉を喰らうというのは、どういう意味なのですか?」 後ろに居た蘇摩が尋ねる。 知世が振り向くと、髪の飾りが小さく鳴った。 「肉というのは、魂のことを言いますの。生きている人間の肉が腐っていることなど、滅多にないでしょう?あの龍は、肉体から離れた魂を吸収して飢えを満たします。ですから、忍が龍に飲まれたときは、その場で殺すだけで結構ですわ。龍の飢えは満たされます。」 そしてだからこそ、龍が一度暴走すれば、それを握るものだけでなく周りのものさえ、腐肉を求める龍の魔力に呑まれて、争いが起こり時には国が滅びる。 止めねばならないのだ。一人の命を犠牲にしても。 「何も知らない忍には気の毒ですが。」 「・・・・・・しかし、彼は、渡してくれるでしょうか。」 蘇摩がポツリと呟く。 ある程度は信頼していると言った。ただ信じきれないのは、彼が花魁だからではなくて、忍が死ぬかもしれないと知っていて、それでも刀を渡すだろうかということ。 「あの刀がどんなものかは全て話しました。護るべきものを見誤るほど、彼は愚かではないでしょう。」 ファイが護りたいと言ったのは、神威という名の花魁だけだ。 理由を聞くと、兄弟のような存在だから、幸せになって欲しいのだと言っていた。 和泉屋の跡継ぎなら、そうすることができるから、と。 思い出して、知世はふと、悲しげに顔を歪める。 「どうなさいました?」 「いえ・・・花魁は、人に愛を囁かれるでしょう?彼の持つ力は、それと同時に、その人の本心を彼に伝えます。二つの声が一緒に聞こえるというのは、どのような気分だろうと思いましたの・・・・・・」 「お気遣いどうも、お姫様ー。」 遠くで自分を思う心を感じ取って、花魁は笑みをこぼした。この力に、距離など関係ない。こちらの声が届くわけではないが。 「でも、結構便利なんですよー、この力は。」 『夢を見ずにすむから』 甘く余韻を残す声で呟くと、不意に誰かに呼ばれた気がした。 部屋の隅に目を向けると、刀を納めた箱が淡く光っている。 「どうしたのー?お腹すいたー?」 肯定を示すように光が増す。 「もうちょっと待ってねー。新月の前の晩には、お腹いっぱい食べれると思うから。」 そこまで口にして、ふとファイは表情から笑みを消す。 懐から取り出したのは南天の簪。 唇が紡ぐのは、本人の前では呼ばなかった名。 「黒鋼・・・・・・」 本名を呼ぶことは、ここではまた会いたいと言う意思表示になる。だから本名を呼ばないことは、のめり込んで行く自分を止めるための制御装置のようなもの。 それでも簪が欲しいといったのは、いつか訪れる別れの後、何か形に残るものをと。 「でも、形に残るものは持っていけないんだよねー・・・。やっぱり、消えない跡が欲しいな・・・。」 無意識に触れる首筋には、彼がつけた跡はもう殆ど残っていない。 「黒鋼・・・・・・・・・」 忍は何も知らない。 盗めと言われたものの正体。 赤い賽の目が示した本当の意味。 そして、常に笑顔を絶やさぬ花魁が、どんな顔で泣くのかも。 最後の夜がやってくる。 その夜、和泉屋は親子で店を訪れた。封真は『話』をするために。和泉屋は、その『話』を聞くためと、明日の夜手に入れるはずの、力への前祝のつもりで。 「封真、いらっしゃい。」 「・・・ああ。」 「?・・・どうかした?」 浮かない顔の封真を神威が心配そうに覗き込む。封真はさっと笑顔を作った。 「何でもない。・・・今日はちょっと、父さんと大事な話があるんだ。終わったら呼ぶから、それまで席を外しててくれないか?」 「うん、いいけど・・・?あ、姐さんは、もう別のお座敷が入ってて・・・」 「分かった。父さんにそう伝えとく。」 そう答えた封真の後ろで、和泉屋はもう座敷に入っていく。 「じゃぁ、また後で。・・・・・・神威、」 「ん?」 「・・・愛してる。」 「・・・・・・うん・・・」 ぱたんと、内側から襖が閉まる。 一人廊下に取り残されて、神威はそっと頬を押さえた。 「・・・・・・慣れないなあ・・・」 囁かれる愛の言葉に、いちいち反応していてはいけないと、新造時代からファイに何度も教えられてきたのに。封真は歯の浮くような台詞を、真面目な顔で口にするから。 毎回赤面していては、立派な花魁にはなれないと、分かってはいるのだが。 「立派な花魁か・・・・・・」 『そんなもの、ならなくて良い。俺がお前を買い取る。それまでは、誰にも触れさせない。俺がお前を買いとって、本当に俺だけのものに出来たときに、俺が始めてお前を抱くんだ。』 いつか封真に囁かれた台詞が蘇る。 「誓い立てなんかしなくても・・・信じてるんだけどな・・・・・・」 何気なく口にしてから、その台詞はまるで抱いてくれと言っているようだと気付いて、また一人で顔を赤くしてから、神威は部屋に戻ろうと歩き出した。 話はすぐに終わる風でもなかったし、ここで待っていてもしょうがない。久しぶりに、暇を持て余してしまった。 (姐さんは、この前の人が来るって言ってたし) 座敷というのは大嘘で、ファイは今宵、ただ一人だけを待っている。 (何かあるのかな。今日は・・・いつもより綺麗だったけど・・・・・・) 「何でそんな顔するのー?」 「・・・・・・驚いただけだ。」 「赤は似合わないって言ったのは黒むーでしょー。」 「ああ・・・・・・その方が良い。」 「あれ、素直だー。」 へらへらと笑うファイが身に纏うのは、いつもの派手な赤い着物ではなく、せせらぎか涼風を思わせる淡い水色の着物。暗い部屋の中、殆ど白に見えるそれは、ファイの白さを掻き消すことなく、よりいっそう際立たせる。 綺麗だと思った。 「明日、新月だねー。」 「ああ・・・・・・」 「肩の傷はもう治ったー?」 「随分前にな。」 「オレ達が出会ってから、随分なんて経ってないよー。」 「そうだったか・・・」 いつも通り話しているつもりで、互いに話が盛り上がらないのは、二人とも分かっているからだろう。これが最後だと。 けれどそれを、はっきりと口にしてしまうのは怖かった。 「今日は何するー?双六と花札しかないけどー。」 「あれはもう飽きた。」 「じゃ、他愛もない話に花でも咲かせようかー。」 「・・・・・・花の名を知りたい。」 「・・・あの白い花?」 確認しながら、ファイは柔らかい笑みを浮かべていた。 そう言えば、初めて会った時に見せた艶やかな笑みは、逢瀬を重ねるごとに見る回数が減っていたことに気付く。 花魁としてではなく、一人の人間として接していたという事なのだろうか。 花魁の魔性に魅せられたのではなく、ファイの素顔に惹かれたということなのだろうか。 「教えても良いけど、借りができるよー?」 「何が欲しい。」 これが最後だと知っていながら、それでも見返りを要求するのは、何か求めることがあるのだろう。何でも叶えてやれる気がしたのは、それが自分と同じだと、どこかで分かっていたからかもしれない。 問うと、ファイはそっと自分の首筋に触れた。白く滑らかな肌には、何の跡も残ってはいない。 「消えちゃったんだー、黒むーの跡。」 「・・・そりゃ・・・何日か経てば消えるだろ。」 体に残した跡は消える。肩の傷が癒えたように。 小指に残る感触も、きっといつかは消えるだろう。 「でも、消えない跡が欲しいなーって。」 「・・・どうすれば良い。」 「跡を、消さない方法なら知ってるんだー。だから・・・」 『君の望むままに』 ファイの唇が紡いだ言葉が、何を意味するかぐらい解っていた。それでも躊躇したのは、白を纏っても、彼が花魁である事実は変わらないから。体に跡を残してはいけないと言ったのは、ファイ自身なのに。 「黒りんは、もうオレを花魁としてなんて見てないでしょー?」 そっと顔を引き寄せられる。唇を重ねる行為は、いつか、切れた唇を舐められたときの感触に似て、まるで、甘い夢の中に、静かに誘われる様な。 「・・・・・・黒鋼。」 呟かれたのは、愛の言葉ではなく、初めてまともに呼ばれる自分の名。 それだけだったけれど。 「・・・・・・っ」 それだけで何もかも許された気がして、黒鋼は今度は自分から、ファイの体を抱き寄せた。 ・・・・コン 静まり返った部屋に、盃を置く音が大きく響いた。 「何処からそんな情報を仕入れた。」 「・・・白鷺城の使いからだ。」 封真の答えに、和泉屋の眉が僅かに上がる。そして「しくじったか・・・」と呟いたのは、おそらく黒鋼の事なのだろうが、特別慌てた様子はない。 「どうしてそんなに落ち着いていられるんだ?」 「まだ手にいれる方法はある。忍は奴だけではない。」 それは、彼が息子に初めて見せる、悪の顔。 「あれさえ手に入れば、幼い城主など何の問題にもならん。この国、あるいは世界まで、この手中に収めることができる。」 「秘物は、そんなものではないと」 「使いようだ。封じることしか能のない奴等に、あれの力など解るまい。お前もいらぬ口出しをするな。余計なことさえしなければ、一国の次期党首の座が手に入るぞ。」 封真は思わず絶句した。多少汚い事をしていることは薄々感付いていたが、これほどまでに汚れた人間だったとは。 驚愕と落胆を抑えきれないまま、本題を切り出す。 「父さん、隠居してくれ。」 「・・・・・・何・・・?」 「すぐに経営全般から手を引いて、どこか遠いところで余生を送るなら、咎めは一切なしにすると、知世姫様じきじきのお言葉だ。」 「ふざけるなっ!!」 だんっと床を叩くと、徳利が倒れ、盆の上に酒がこぼれた。 「力が手に入るのだ、あと少しでな!あれさえあれば、知世姫など恐れるに足りん!」 「人のものを奪ってまで手に入れた権力に、何の意味があるんだ。」 「意味だと?権力そのものが意味ではないか。他に何がある?」 「こんなこと、上手くいくはずがない!知世姫のお情けを無駄にするのか?ファイさんだって」 「ファイ・・・?」 不意に、和泉屋の声の調子が変わる。 「何故あいつがこのことを知っている・・・?」 いや、思い当たる節がある。あれは一年ほど前だったが、酔いに任せて刀の事を話した。きっと本気にはするまいと。 次に盗みに入るのは新月の晩だと言っていた黒鋼が、こんな時に捕らえられたということは考えにくい。それに、忍とは、捕らえられた場合、依頼主の情報がばれる前に自害するもの。彼とて例外ではない。 「そういうことか・・・」 「父さん・・・?」 全てを悟った和泉屋は、不気味な笑みを浮かべて立ち上がった。 「南天の花だよ・・・」 「あ?」 寝ていたと思っていたファイが不意に呟いた言葉の意味を、黒鋼はとっさに理解できなかった。それがおかしかったのか、横になったままファイは小さく笑う。 「花の名前が、知りたかったんでしょー?」 「・・・・・・ああ。」 やっと、意味を理解した。 「南天に花なんか咲くのか。」 「うん、夏の初めにねー。もう、終わる頃だよ。」 「冬には赤い実がなるな。」 「黒鋼がくれた簪も南天だって・・・知ってるー?」 「そうなのか。」 「知らなかったんだー。じゃあ、南天に込められる意味も知らないよねー。」 「意味・・・?」 聞き返したとき、どこかで、もめるような声が聞こえた。 「何だ?」 「・・・和泉屋さんが来てるから・・・」 「和泉屋・・・?」 少し驚いた表情を見せる黒鋼に構わず、ファイは着物を直しながら体を起こした。そして、部屋の隅にあった箱を、黒鋼の前に置く。 「おい・・・これ・・・・・・」 見覚えのある箱だった。 「和泉屋さんが、欲しがってる物でしょー。」 「・・どうして知ってる・・・」 「まあ、色々とねー。」 そう言って、ファイは箱の蓋を開けた。中には、青白い光を放つ、一振りの刀。柄の龍の装飾が、どこか不気味だ。 「『銀龍』。人の魂を食う刀だよ。知世姫様から黒鋼に。」 「何で俺に・・・?」 そのとき、部屋の近くで、爆発音のような音が響いた。 「なっ・・・?」 「『ぴすとる』っていう、異国の武器だよー。若旦那が、和泉屋さんを止めようとして撃たれたみたいだね。『わしの野望を邪魔するものは、たとえ息子でも切り捨てる』って感じかなー。腕を、掠っただけみたいだけど。」 「どうして分かるんだ・・・?」 「まあ、色々とね。」 答えたファイの目は、いつもより青が深い気がした。 廊下から聞こえる悲鳴。そして、近づいてくる足音。 「黒鋼、さいころの赤い目はさ、『死』じゃなくて『死別』を意味するんだよ。自分が死ぬことなんて、そんなに不幸でもないでしょー?」 「死別・・・?」 「・・・二人の別れは血で染まる。遺される事が本当の不幸。」 ぱあんと、音を立てて襖が開く。 怒りに顔を染めた和泉屋。手には、見慣れぬ黒い武器。 「黒鋼・・・?」 和泉屋は、部屋の中にいた黒鋼の姿に一瞬目を見開いた。そして、そのほうが辻褄が合うとでも言うかのように口元を緩める。黒鋼がファイに情報を漏らし、ファイがそれを知世に伝えたとでも思ったのだろうか。 「役立たずが・・・」 銃口が、黒鋼に向く。それを視界から隠したのは、白に近い、淡い水色の着物。 だあんと、何かを叩きつけるような音がした。 直後に腕の中に倒れこむ重さは、さっき抱いたものと同じ。 けれど、青い瞳は瞼の裏に隠れ、着物を汚す、赤い染み。 どくん・・・ 気が付けば、黒鋼は銀龍を握っていた。 再び自分に向けられる銃口が、弾を放つよりも早く、手に肉を切り裂く感触が伝わる。 断末魔と、周囲に響く悲鳴。 けれどそれは、黒鋼には聞こえなかった。 どくん・・・ (何だ・・・?) まるで、鼓動のように、刀から伝わる振動。 体が自分のものではないかのような感覚。 刀が、青白く光っている。 意識が、ひきずられる。 「だ・・・めだよ・・・・・・」 不意に、それだけが耳に届いた。 声のした方を振り返る。床の上に横たわるファイの、確かに開いた瞳。 「黒鋼・・・刀を・・・・・・」 その声だけが、絶対的支配であるように、重いからだが動いた。 ファイの横で膝を折ると、手から刀を奪われる。 刀を受け取ったファイは、まるで愛しむようにそれを抱きしめ、 「オレを・・・喰えば良いから・・・・・・」 青い瞳が、黒鋼を映した。 「ほら、もう跡は消えないよ・・・・・・?」 刀が放つ光が増す。目を開けていられなくなるほど。 そして光がやんだとき、ファイだけは、目を開かなかった。 「ファ・・・イ・・・・・・?」 触れる手が、小さく震えていた。 血の気をなくした頬に触れると、白い肌が赤く汚れた。 綺麗だと思った着物は、今はまるで死に装束のように見えて。 光をなくした刀まで、それを悲しんでいるように思えた。 床に広がる血に一枚、白い花弁が浮いていた。 <BACK> <散華−終−へ> |