散華-参- あの夜、黒鋼が白鷺城から盗み出そうとしたのは、直方体の木箱だった。 中身は分からない。ただ、箱の形から、掛け軸か刀か、その辺のものだろうという見当はついた。 そういったものなら箱に銘が書いてありそうなものだが、それは箱の表面に貼られた白い紙で隠れてしまっていた。 厳重すぎる封。紙には、見たこともない記号のようなものが書かれていた。 気になって、一枚だけ剥がした。 その時、 『曲者!!』 前日と同じ、くの一の声だった。 毒を受けることを恐れて、すぐにその場を離れた。 その後、何度か白鷺城に偵察に向かったが、城全体の警備が驚くほど甘くなっている。しかしあの部屋の警備だけは固められていた。あの箱の中身は、それほどのものという事か。 (和泉屋が欲しがるってことは、やっぱり刀か・・・?) 「黒むー、ほら、黒むーの番だよー。」 「・・・・・・。」 「1、2、3。沼にはまって一回休みー。」 「・・・あのなぁっ!!」 「はい、お静かにー。」 黒鋼の怒声を軽く流し、今度はファイが賽を振った。白い立方体は、ころころと転がって、赤い点が刻まれた面を上にして止まる。 「1、あがりー。黒たん、弱いねー。」 「・・・・・・・・・あのなぁ・・・」 無邪気に笑うファイに疲れた溜息をこぼしながら、黒鋼は額を手で押さえた。 「俺は、ここに双六しに来てるんじゃねえ。」 「じゃあ、何しに来てるのー?」 「・・・・・・。」 それはまあ確かにそうなのだが。 遊郭に来て、酒も飲まない、女も抱かない(目の前に居る花魁は男だが)。する事といえば、双六に花札に世間話に身の上話。金を払わなければ、すこぶる暇なところだ。 そう思っている割には、自分でも嘲笑ってしまうほど、足繁く通っている気がする。実際はまだ数回だが、3日以上あけた事がない。その度にファイは、窓を開けて待っている。 『お前、仕事はいいのか?』 一度だけそう訊くと、今日はお座敷だけという建前の後に、 『こんなの、いつまでも続くわけじゃないし。』 という本音を漏らされた。 そうこれは、黒鋼が借りを返すまで。具体的にいつまでとは決めていないが、ファイはもう終わりを見ている。黒鋼の方は、もう少し通うつもりでいたりする。簪を、まだ用意できていないのだ。 「また白鷺城のこと考えてたでしょー。」 「・・・ああ。」 先日隠し通したはずの依頼内容は、翌日の瓦版であっさり予想されてしまった。それでも、依頼主とあの箱のことは話していないが。 「あんまりそればっかり考えるから、いい考えが浮かばないんだよー。新月までまだ間もあるし、他の依頼でも受けたら?」 「もう受けた。暗殺依頼だ。」 「うわあ、穏やかじゃないねー。」 そう口にしながらも、ファイの表情は変わらない。 忍とは、決して綺麗なものではない。依頼主のために、他人のものを奪う仕事だ。それは、物だったり、情報だったり、時には命だったり。 けれど、仕事なのだからしょうがないと、ファイは黒鋼以上に割り切った。触れて欲しくないところを知っている。きっとだからだろう、ここに来ると、ほっとする。 (なんてことは、ねえけどな。) 思い込むことは自由だ。 「ねー、黒みゅー。占いしようか。」 「占い?」 双六の次は占いとは。本当に此処にはすることがない。しかし,他にしたいこともないので、仕方なく付き合う事にする。 「どうするんだ。」 「賽を振って、出た目がこれからぶつかる不幸の数。」 「・・・・・・幸運の数じゃねえのか。」 「1から6までしか出ないんだよー?不幸の数が丁度いいよー。」 なるほど、一応考えてあるらしい。微妙に前向きな占いだ。 「じゃあ、まず黒りんがオレのを占ってー。」 そう言って、ファイは黒鋼の手に賽を乗せた。自分で自分を占うのではないようだ。 たかが賽の目で運命が決まるなどと思っていない黒鋼は、何も考えずに手から賽を落とす。 広げた双六の上に落ちた賽は、三を上にして止まった。 「うーん。少ない方かなあ。」 「適度だろ。その歳で三なら。」 「そういう黒みゅーはどうでしょう。」 ファイの手が、拾い上げた賽を転がす。上を向いたのは、赤い点が刻まれた面。 「一か。強運だな、俺は。」 「あはは、そうだねー。でも・・・」 「なんだよ。」 「・・・・・・鮮血の色だよ。」 ぞくり、と、背筋に悪寒が走った。ばっと顔を上げると、ファイの瞳の青が、いつもより深い気がした。しかし、そう感じたのは一瞬だけで、ファイが顔を上げたときには、その瞳は、いつもどおりの青に戻っていた。 きっと気のせいだ。光の加減でそう見えたんだろう。 そう、思い込む。 けれど、新月の晩は、覚悟が必要かもしれない。そんな気がした。 「気をつけてね、オレの占いは当たるから。」 夜明け前に部屋を出た黒鋼を見送った後、ファイは一人で賽を振る。 静かな部屋に響くのは、相手のいない睦言と、賽が畳に落ちる音。 出る目は全て一か三。 彼は、気づかなかったのだろうか。 博打に使う賽なのだと、昔の客に貰ったこの賽は、どういう仕組みなのか、振れば必ず一か三が出る。 あれはきっと、占いとは呼べない。 それでも当たるというのだから、それは予言に等しい。 「血に染まる別れなんて、最悪だねー。」 畳の上を転がって、壁にこつんと当たった賽は、それでもやはり、一が出た。 「蘇摩、」 「はっ。」 少女の呼びかけに、部屋の中の気配が増える。 「あの者はまだ?」 「・・・申し訳ありません。」 今、少女の前に置かれているあの箱は、ふたを取り払われている。外されたふたは、箱の前に置かれ、黒鋼が見た紙は全て剥がされていた。そして、表面には『銀龍』の文字。 箱の中に横たわるのは、柄に龍の装飾が施された一振りの刀。 「再び狙ってくるのは、新月の晩かと思われます。」 「新月までは、待てません。なんとしてもそれまでに。」 「…御意。」 刀が、淡く光を放つ。 不気味な光だと、くの一は眉根を寄せた。 「・・・何故、その刀は光るのですか・・・?」 少女は静かに目を閉じる。 「永い眠りから覚めた龍は、腐肉に飢えていますから。」 本当に妙な縁だと思う。 殺してくれ、と依頼されたのは、とある高僧。坊主を殺して欲しいなんざ、罰当たりな奴だとは思ったが、実際に手を汚すのは黒鋼だ。向こうに罪の意識はないのだろう。 依頼主の正体は分からない。良くある事だ。けれど、使いの者が大金を包んで持ってきた布から、寺で焚く香の匂いがした。寺院内の勢力争いといったところか。 (くだらねえ。) そんなことはどうでもいい。それよりも今は、 (なんで坊主が遊廓通いなんざしてやがるんだ。) 黒鋼は、ファイの部屋の向かいの屋根の上で、盛大に舌打ちした。 しかし自分で思ったはずだ。男の花魁なら、僧侶達が喜ぶはずだと。 今夜殺す相手が、今宵のファイの相手だったとしても、何の不思議もない。 現に今、黒鋼の視線の先、障子1枚隔てた部屋では、それが現実となっている。 黒鋼が部屋を訪れる時、ファイは必ず窓を開けて待っていた。次の約束などしていないのに、いつ来ても客はいなかった。 だから、客などいない事が当たり前のように思えて。閉じている窓の意味さえ、漏れてくる声を聞くまで気づかずに。 とっさに、逃げるようにして、向かいの窓まで移動した。ここは、声が届かない。 何を動揺しているのか。これがファイの仕事ではないか。花魁だと、聞いたときから分かっていたはず。始めてこの部屋を訪れた時、室内にあったのは三味線でも双六でもなく、赤い布団だった。あの夜は、客がいたといっていたのに。 自分が人を殺すように、仕事だと割り切ってしまえばいいのだ。ファイは、そうしてくれたのだから。 分かっているのに、胃の底からこみ上げるような不快な感情はおさまらず。 きっと今自分は、仕事以外の理由であの男を殺そうとしている。 忍は偲び。感情など、持ち込んではいけないのに。 半分にかけた月が、屋根の上に顔を出す頃、再び窓に耳を寄せる。中から物音は聞こえなかった。 音も立てず、窓を開けて室内に侵入する。通いなれた部屋なのに、別世界のようだ。 それでも予想通りの光景があった。 男に抱かれて眠る花魁。着物は大きくはだけ、結び目が解けた帯が、布団からはみ出している。しっとりと汗ばんだ胸は、呼吸に合わせて上下する。 そういえば、花魁が客と肌を合わせることを帯を解くと言うが、実際に帯を解いて交わるのは、よほど親しい客だけなのだと、ファイ本人から聞いた覚えがある。 そんな話まで聞かされていて、こんな状況に出くわす事を予測できなかったとは。 細い腰に回された男の腕を、切り落としたい衝動を押さえるため、黒鋼は細く息を吐き出した。そうして気持ちを落ち着けて、懐から取り出した小刀を男の喉元に当てる。これだけぐっすり眠っていれば声が出る心配もないだろうが、それでも一応、布で男の口を塞いだ。 そこで、制止の声がかかる。 「待って。」 「・・・寝てたんじゃねえのか。」 「ここで殺されると困るから。」 そう言って、ファイは青い瞳に黒鋼を映した。体を動かさないのは、隣で眠る男を起こさないためか。 それとも、 (動けねえのか?) 浮かんだ考えに、吐き気に近い感情を覚えた。 「お寺の朝って早いから、この人、まだ暗いうちにここを出るよ。お忍びだから、供もいないし駕籠も呼ばない。帰る途中、いつも、この町を出てちょっと行った所に生えてる『見返り柳』の下で一服するから、その辺を狙えば?」 「・・・協力的だな。」 「店を出た後は客じゃないから。」 愛を売るのは店にいる間だけ。その後は、どうなろうと構わない。 口元に笑みを浮かべたファイを見て、黒鋼は小刀を仕舞った。 そして、今は、部屋を出る。 「ねえ、黒るー。」 窓枠に足をかけると、背中を呼び止められた。首だけ捻って振り返ると、布団の上に頬杖をついて、にこにこと笑っているファイがいた。 いつもの笑顔だ。花魁としてではない、人を惑わせない笑顔。 きっと客相手には見せないだろう。そう思っているのは、自己満足のためではないはず。 「何だよ。」 「この前、異国のお客様が来たんだー。オレと髪の色が一緒だったよ。」 「それがどうした。」 「その人が教えてくれたんだけどね、」 すっと、不意に細められた双眸に、青が深みを増したように見えた。 「窓越しの恋は、悲劇に終わるんだってさ。」 『見返り柳』というから、どんなたいそうな柳なのかと思えば、何のことはない、それは普通の柳で、遊郭を出て帰る客が、そこで一度遊郭を振り返ることから、見返り柳と呼ばれるのだとか。 今宵のファイの客は、遊郭を見返ることはなかった。 仕事を終えて、黒鋼は再びファイの部屋を訪れた。夜明けにはまだ間があった。 窓は開いていた。客が帰った後、ファイが開けたのだろう。けれど、ファイは眠っていた。 黒鋼は、ファイを起こさないよう、静かに枕元に腰を下ろした。 やっと南の空に辿り着こうとしている月が、ファイの首筋を白く照らす。 そこに、客との行為の跡はない。 花魁の体は商売道具。だからどんな客にも、跡は付けさせないのだと、これを言っていたのもファイ自身だったか。 黒鋼は、細く折り畳まれた袱紗を取り出した。中に、堅い感触が包まれている。 それは、ファイとのもう一つの約束。 けれど、 『窓越しの恋は悲劇に終わるんだってさ。』 耳の奥に残る言葉。黒鋼は、手の中のそれを握り締めた。 「俺はここに恋愛しに来てるんじゃねえ。」 そんな当たり前のことを、どうしてすぐに言えなかったのか。 ただ借りを返すためだけに通っていたはず。最初から、ファイは終わりを見ていた。 悲劇で終わる以前に、未来などない縁だったのに。 いつの間にか、ここに来る事に喜びを覚えていた。 双六や花札をくだらないと思いながら、人を惑わさないはずの、ファイの素の笑顔に惑わされて。 窓越しの恋は悲劇に終わる。そんな迷信めいた、何の根拠もないはずの言葉を、それでも実現するのではと、恐怖さえ抱くほどに。 黒鋼は、握り締めたそれを懐に戻した。 代わりに、一つの跡を残す。そんなもの、ファイには何の意味も持たないと知りながら。 ファイの髪から、寺で焚く香の匂いがした。あの男の移り香だと気づいて、無意識に唇をかんだ。 出逢った晩、ファイに舐められた傷は、とうに跡形もない。 あの行為に、特別な意味があったわけではないのに、そういえばあれは、ひどく心地よかったのだ。 指きりの真似事などせずとも、もしかすると最初から、未来を望んでいたのかもしれない。 外に出ると、また花弁が舞っていた。 初めて、何の花なのかが気になった。 忍はまだ何も知らない。 赤い賽の目の事さえ、忘れていたのかもしれない。 影が、じっと彼を見ていた。 <BACK> <散華-四-へ> |