散華−弐−



子供たちの声が、真昼の通りに響いている。
「ゆーびきーりげーんまーん うーそつーいたーら・・・」

(指切りか・・・)
黒鋼は自分の手を見た。思えば、別れ際の花魁のあの行動は、指きりに似ていたように思う。

もう来ないと言ったはずだが。

それなのに何故、彼の事ばかり考えているのか。

(あー、ちくしょう。)

気分を変えようと、久しぶりに日の高いうちに外に出たのに、相変わらず彼のことが頭から離れない自分に少々うんざりしながら、黒鋼は見つめていた手を下ろした。顔を上げると、丁度目的地が目に映る。和泉屋と書かれた大きな看板を掲げるその店は、この辺り一帯では並ぶもののない大手武器問屋。
しかし今日は武器に用はない。

店に入ると、黒鋼は店の主人に面会を求めた。すぐに奥の座敷へ通され、しばらく待っていると、白髪交じりの初老の男が姿を現した。

「こんな時間に来るとは、珍しいな。昨夜は色々と大変だったようだが?」
「お蔭様でな。」

白鷺上に賊が押し入ったという情報は、すでに瓦版で広まっている。
けれど、その賊が黒鋼だと知る者は、おそらくこの男一人。

「依頼の品だ。」

黒鋼は、懐から折り畳んだ紙を取り出した。それは昨夜、この男からの依頼で白鷺城から盗み出した場内の見取り図。そんなもの、何に使うのかとは思ったが、詮索は無用。忍は、依頼されたことを、ただこなすだけで良い。

「確かに。」

見取り図を広げて確認すると、和泉屋は代わりにこぶしほどに膨れた袋を黒鋼に差し出した。中で金属の音がした。昨夜の報酬だ。受け取ると、掌にずしりと重みが伝わる。

「約束よりも多いだろ。」

紐も解かずに指摘すると、和泉屋は場内見取り図に視線を落としたまま口元をゆがめた。

「次の仕事に依頼料も入っている。」
「早速かよ・・・。」

黒鋼と和泉屋は相性が悪いらしく、依頼を受けてすんなり成功した例は少ない。仕事の内容に問題があるのだろう。どちらかといえば戦闘系の黒鋼は、盗みはあまり得意ではない。しかし和泉屋の依頼はもっぱら盗みが中心だ。

「で、今度は何だ。」
「欲しいものがある。」

やはり、今度も盗みの依頼だ。黒鋼はうんざりとした表情を隠しもしない。和泉屋は、気が付いていない振りをして畳の上に白鷺城見取り図を広げて置いた。そして紙の上の一室をさす。

「この部屋にあるものだ。できるだけ早く、できれば今夜中にでも。」
「・・・ちょっと待て。」

一瞬自分の耳を疑った黒鋼は、疑うべきはこの男の常識だと思い直した。昨夜、忍び込んだばかりの城に、また盗みに入れと言うのか。今夜はおそらく、昨夜より警備が強化されているはず。しかも、示された部屋は、城の一番奥まった場所に位置している。

「今夜は無理だ。せめて新月まで」
「見取り図が盗まれた事は向こうも気付いている。それなら次の狙いがこの部屋だという見当くらいついているだろう。いつ行っても同じだ。むしろ昨日の今日の方が、向こうも油断しているやも知れん。」
「・・・・・・・・。」

一理ある気がした。商売人の口の上手さに、流されているだけかもしれないが。

「何があるんだ。宝物庫でもでもねえだろ。」
「行けば分かる。」

和泉屋の笑みは底が知れず、不気味な印象さえ受けた。



それほどのものなのかと、興味が沸かなかったといえば嘘になる。
その証拠がこの状況だろう。



「てめえの呪いか!!」
「えー、何のことー?」

昨夜と同じ遊郭の、昨夜と同じ店の、昨夜と同じ一室。違いと言えば、昨夜と同じ二人の他に、もう一人新造が加わっている事くらい。その新造は、突然窓から飛び込んできた黒鋼に驚いて声を上げそうになったところを、後ろからファイに口を塞がれて、ただ目を白黒させている。

「黒むー、また失敗したのー?」
「またじゃねえ!誰が黒むーだ!!」
「大声出すと見つかるよー?」

嬉しそうなファイに忠告されて、やっと黒鋼は口をつぐむ。それに、もう来ないと言っておきながら、その日の晩に、こうしてまた、この部屋に逃げ込んだのも事実だ。情けない事この上ない。依頼された品も、今夜は手に入らなかった。

「てめえの妙な呪いのせいだ。」
「だから呪いって何のことー?」
「小指だ。別れ際に噛んだだろうが。」

また、ここに逃げ込んでしまったのは、あの甘い痺れに引き寄せられたからかもしれない。きっとあれは、また会えるようにとの、

「おまじないだよ。」
「同じだ。言葉を変えただけじゃねえか。」
「込める思いが違うんだよ。」

そう言うと、ファイは新造の口を塞いでいた手を解いた。そして、困惑した表情の新造に、酒を運んでくるようにと頼む。勿論、黒鋼のことは店の者には言うな、とも。
襖が閉まると、また黒鋼が口を開いた。

「あいつが昨日の新造か。」
「可愛いでしょー。神威ちゃんって言うんだー。」

名など興味のない黒鋼は、ファイの言葉を適当に聞き流しながら、部屋の中を見回した。昨夜は赤い布団が敷いてあったが、今日は三味線が二つ。稽古中だったようだ。何も考えずに飛び込んだが、客が居なくて良かった。

そしてふと、神威を部屋から出すのは、まずかったのではないかと気付く。

「おい、あいつ、信用できるんだろうな?」

いくらファイが言うなと言っても、何も知らない者から見れば、黒鋼はただの怪しい侵入者。それに、たとえ黙っていたとしても、盃が三つあれば、誰か居ると知れるだろう。

「大丈夫だよー。口は堅いし、それにお金を払わない人にお酒は出さないから。」

なかなか手厳しい。そして丁度戻ってきた神威は、ファイの言葉を証明するかのごとく、盆に徳利と盃を二つ載せていた。教育が行き届いているようだ。
神威は畳の上に盆を置くと、上目遣いでファイを見上げる。退室する機会を窺っているようだが、ファイは無常にも空の盃を神威に差し出した。酌をしろ、ということらしい。それはつまり、この部屋にいろということ。

「あの・・・姐さん・・・。」

優美な仕種で盃に酒を注ぎながら、神威は暗に退室を願い出る。この空気の中には居辛いだろう。分からないはずがないのに。

「これもお座敷の練習だよ。」

そう言って、ファイはもう一つの盃を神威に渡し、自ら酒を注いだ。
その上質な香りが、この店の格を示している。側で見ているだけというのは、酒好きには辛い。

「酒はいくら出せば飲めるんだ。」

きっと法外な値段だろうと思いながら訊いてみると、酒で唇を湿らせたファイに、またくすくすと笑われた。

「そうだねー。まずお客様には玄関から入っていただかないと。」
「・・・・・・。」

値段以前の問題だった。

「大体、黒様まだお仕事中でしょー?追われてるんじゃないのー?」

確かに、まだ逃げ切ったわけではない。今日はやけに多かった追っ手が、その辺をうろついている事だろう。それに、和泉屋に失敗の報告に行かねばならない。気が重い。それで彼が諦める事はないだろうから、次の決行は今度こそ新月の晩だ。

「で、今日は何して失敗したのー?」
「昨日も失敗したみてえな言い方をするな。昨日は盗る物は盗ったんだ。」
「で、今日はー?」
「白鷺城の・・・」

そこまで話して急にやめたのは、忍ともあろう者が、仕事内容をべらべらと喋ってどうするのかと気付いたから。守秘義務は暗黙の規則。

「教えねえ。」
「けちー。」
「うるせえ。駄目なもんは駄目だ。」

ファイの質問が純粋な興味によるものである事はわかっているが、それでも情報は漏らすべきではない。信用しないわけではないが、花魁の仕事は飲酒を伴う。酒の席、酔った勢いで話題にされては堪らない。それに、下手をすれば、ファイにまで危険が及ぶ事になる。
あの部屋にあったものが、何なのかは分からないが。
いや、分からないからこそ。

「じゃぁいいよー。借りは別の形で返してもらうねー。」
「借り?」

食い下がるかと思ったが、ファイはあっさりと諦め、代わりに出てきた予想外の言葉に黒鋼が首をひねると、満面の笑みを浮かべた。

「かくまってあげたでしょー、二回も。」
「・・・・・・・・・。」

言葉を失くした黒鋼と、上機嫌なファイの側で、神威が一人、おろおろと二人の顔を交互に見ている。盃の酒は減っていない。

「お前・・・金はいらねえって・・・」
「客にならなくてもいいっていう話でしょー。借りは借りだからね。二回分、お願い聞いてもらうよー。」
「・・・・・・何をすればいいんだ。」
「そんな心底いやそうな顔しなくてもいいでしょー。そうだね、すぐには思いつかないから、明後日、また来てくれる?この部屋で待ってるから。」

借り云々は思いつきの話題だったらしい。客に次の約束を取り付ける手口に通ずるものを感じるが。
一体どんなことを要求されるのか、今から不安でしょうがないのは、肝が小さいからではないと信じたい。

「何で明後日なんだ。明日でいいだろ。」
「それがねー、こっちにも都合があって、」

黒鋼はさっさとこの奇縁を断ち切ろうとしたようだが、ファイは苦笑をうかべつつ神威の方を見た。

「明日、この子が花魁になるから。」

神威は、暗い表情で俯いた。
相変わらず減らない酒が、盃の中で僅かに揺れた。







宵の口、普通の商店では店を閉めるのであろうこの時間、遊郭には次々と灯りがともり始める。華々しい花魁道中。引手茶屋は今日も盛況。華やかな表舞台と、そして複雑な裏の顔。

新造時代より重い着物に苦戦しながら、今日は神威の花魁としての初座敷。緊張が顔に出てしまっているが、無理もない。花魁になるという事は、今夜から、体を売るという事。この店に入った時から覚悟は決めていたはずだが、やはりいざとなると、平生を装うのは難しい。

今宵の客は何の因果か、和泉屋の主人と若旦那。勿論、互いに黒鋼とのつながりなど知らないが。
和泉屋は以前からのファイの馴染み客。若旦那は今回がはじめての御登楼だ。遊郭自体始めての事らしく、最初はあまり乗り気ではないように見えたが、神威が御気に召したのか、酒が進んでいる。

やがて月が昇る頃、床の準備が整ったと、店の者が告げに来る。

「お入りなさいませ。」
「じゃあね、神威。行っておいで。」
「は・・・い・・・・・・」
「若旦那、お手柔らかにお願いしますね。」
「はい・・・。」

神威の緊張が伝わったか、若旦那も少々表情が硬い。座敷を出る二人を見送って、ファイは和泉屋の盃にまた酒を注いだ。

「優しそうな息子さんですね。」
「少々甘いがな。世間を知らん。」
「では商売の方はまだ?」
「一部任せてはいる。」

この世界、様々な方面から様々な情報が入ってくる。和泉屋が、奇麗な方法だけで現在の地位にまでのし上がったのではないということも。若旦那は、まだそちらの方面のことは知らないらしい。やがて、手を染める事になるのかも知れないが。神威は、初めての相手としては、恵まれたのではないだろうか。

「しかし初登楼で床入りとは、たいした優遇だな。」

酒が回ってきたのか、少し頬に赤みがさしてきた和泉屋が口にしたのは、遊郭の慣習の事。普通、遊女が客に帯を解くのは、三回目の登楼から。それはこの店でも同じ。

「そこは、和泉屋様の息子さんですから。お得意様を優遇するのも商売のうちでしょう?」
「確かにな。」

小さく笑って盃の酒を一口で飲み干すと、和泉屋は席を立った。今日は泊まらず、息子だけ置いて帰るというのはすでに聞いている。

「お忙しいんですか?」
「ああ、大きな仕事がある。今はまだ、準備段階だがな。次の新月には、全て整うはずだ。」

(大きな・・・?)
大きな仕事。それが何か、花魁風情が追及できることではないが。
ふと、あの忍の顔がよぎった。




「それで、若旦那はどうだった?」
翌朝、後朝の別れを済ませた神威は、ファイの部屋を訪れた。元気そうだ。若旦那とは上手くいったらしい。

「優しい方でした。今夜、また来てくださると。」
「へえ。名前は聞いた?」
「・・・封真。」

屋号ではなく本名を名乗りあうのは、一度きりにはしたくないという意思表示になる。逢瀬の約束は口先だけではないらしい。よほど気に入られたようだ。

「それで・・・あの・・・」
「ん?」
「・・・身請けの・・・約束を・・・。」



客、または遊女の家族が、遊女を店から買い取る事を身請けという。
「良かったじゃねえか。」
ファイから話を聞いた黒鋼は安直にそう言ったが、ファイの表情は冴えない。

確かにいいことだとは思う。身請けされる側は相手を選べないもの。しかし神威も相手の事を気に入っているようだから、上手くまとまればこれ以上の話はないのだが。
「身請けって言うのは難しいんだー。まずお金がかかるし、お相手が若旦那じゃね。独立してるなら話は別だけど、きっと反対が凄いと思うよー。」

身請け話の多くは、酒の勢いに任せた虚言に終わってしまう。ファイにも、いくつも身請け話は来たが、今のところ実現はしていない。神威が、悲しむような結果にならなければいいが。

「それでも、花魁って言うのは、守ってもらえない約束に縋って生きる生き物だからねー。」

ファイの口からこぼれたのは、悟りにも似た、諦めだった。

「ここから出てえのか?」
「でても行く場所がないから・・・。それとも、黒むーが買い取ってくれる?」
「・・・玄関からは入れねえ。」
「だろうね。」

こうやって、最初から期待しなければ、傷つく事もないのだ。そう言うかのように、ファイはいつもどおり表情を崩した。
もどかしいような、そんな気持ちが、黒鋼の胸にこみ上げる。期待してくれというわけではない。ただ、諦めるための約束など、しても虚しいだけだ。

「俺は、約束は守る。借りは返す。信用しねえなら、指切りでも何でもしてやる。」
「指切りね・・・。花魁の指切りは、ほんとに小指を切り落とす事だよ?」
「・・・・・・噛む事じゃねえのか。」
「あれはおまじないー。」

小指の付け根に、またあの甘い痺れが蘇る。厄介なまじないをかけてくれたものだ。
本当に指を切る事を考えれば、遥かにましではあるが。
しかし指切り話は進んでしまう。

「じゃあ、指きり道具はそこの角を曲がった店で売ってるからー。それとも小刀くらい持ってる?」
「・・・・・・ちょっと待て・・。」
「怖気づいた?」

艶かしい笑み。花魁の顔だ。惑わされれば、小指くらい切り落とせそうな。
思わず言葉をなくした黒鋼を、ファイは小さく笑った。

「心配しなくても、小指を切るのは花魁の方。花魁は、約束を守らせるために、切った小指を渡すんだ。」

そういって、自分の指を唇に寄せる。一瞬、紅を掃いた唇から、白く僅かに覗いた歯が、その指を噛み切るのではないかという錯覚に陥り、黒鋼はとっさにその手を掴んで引き寄せた。
細い手首。簡単に手が回る。

「約束は守る・・・。何が欲しい。」
「・・・・・・一つは、簪(かんざし)」
「簪・・・?」
「安物でいいよ。髪には挿さないから。」

確かに、この長さでは日本髪は結えまい。では簪など何に使うのか。
気にはなったが、知りたいと思うほどではなかった。深入りはしない。いつの間にか身についた、忍の習慣かもしれない。

「二つ目は?」
「・・・気が向いたときだけでいいから、通ってきてくれないかな。神威ちゃんにお客がついちゃったから、寂しいんだ。」
「窓からでいいのか。」
「うん・・・借りを返したと思うまで。黒りんの主観でいいよ。」

身請けしろ、とでも言われるのではないかと思っていたのだが、黒鋼の予想を大きく裏切って、ファイの望みは控えめなものだった。それはただ、望みが叶えられる事より、約束が守られる事だけを望むように。


がり・・・


返事の代わりに、黒鋼はファイの小指に歯を立てた。
それだけで十分だった。
たとえ指など切らずとも。
小指に残る感触が、指の代わりに二人を結ぶ。





黒鋼が出て行った後、開け放した窓から、白い花弁が舞い込んだ。その花弁を、ファイはそっと拾い上げた。
『花魁の言葉に誠なし』とはよく言うが、花魁に限らず、遊郭で語られる言葉に、誠などないに等しい。言葉にした瞬間に、それは嘘になる可能性を秘めるのだ。
だから、信じられるのは、想いを口に出さない者。

「黒鋼・・・。」

夜風が指先から花弁を奪っていく。
ファイは、小指にそっと口付けた。






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