散華-壱-





漆黒が、闇の中を駆けていく。
そしてそれを追尾する影が二つ。

(ちっ・・・)

己の失態を呪い、心の中で舌打ちして、先を行く彼は屋根から屋根へと、大きく跳躍した。

音も立たない着地の瞬間、黒光りする物体が、背後から肩を掠めて、闇の中へ吸い込まれる。残ったのは、鋭い痛みと、背を伝う液体の感触。

(手裏剣か・・・)

傷口を押さえる事もなく、再び跳躍。追っ手を振り返る余裕はない。
手裏剣のような小さな武器では、よっぽど当たり所が悪くない限り、大の男に致命傷を負わせる事は不可能。このスピードで走りながら、的確に急所を狙うのは至難の業だ。
スピードは、こちらの方が僅かに上。

(振り切れる。)

そう思ったとき、視界が霞んだ。

(何っ・・・)

そしてやっと、先刻の手裏剣に、毒が塗られていた事に気づく。

(畜生・・・なんなんだ今夜は・・・。)

毒が回り切る前に身を潜めなければ。
霞む目で見回すと、夜闇で影と化した景色の中に、光の街が浮かんでいた。




肌を撫ぜた夜の空気に、花魁は閉じていた目を薄く開いた。
夜空に、月が白く浮かんでいた。

(窓・・・開いたままだ・・・。)

首筋に顔を埋めてくる客は、そこまで気が回らないらしい。
それともこれが好みか。

肌寒さに眉をひそめるが、それもすぐに消えるだろう。肌と肌で触れ合えば、体は自然と温まる。
だがそれは、愛情や快楽とは無縁の現象だ。

「ぁ・・・・・・」

鎖骨に歯を立てられ、意図的に甘い声を漏らす。半年ほど前から馴染みになったこの客は、この声が気に入りらしい。案の定、満足の笑みがこぼれたのが、肌にかかる吐息で分かった。

この声が、快感の証明だとでも思っているのだろうか。
花魁は、小さくため息を漏らした。勿論、甘い響きを含ませて。

そして再び月を見る。
今宵は見事な満月だ。

(後で月見酒でも飲もうかなー。)

しかし酒の相手が客では、情趣も半減するというもの。
気心知れた相手と酌み交わしてこそ、酒のうまみも楽しめる。

(じゃぁ今夜は無理か。)

少し惜しいが仕方ない。月は一月経てばまた満ちる。
接客中にこんな事を考えるのは、不謹慎かもしれないが。


(さあ、お仕事お仕事。)

ゆっくりと瞬いて、客の相手に専念しようと視線を戻す。
けれど、視界から外れる寸前、月に影がよぎった気がした。

(え・・?)

視線はまた窓外を彷徨う。
向かいの屋根に、何か居た。
何時そこに降り立ったのか、全くの無音のうちにそこに現れ、身動き一つせず、暗闇に溶け込んで外形さえはっきりしないそれは、表現するなら漆黒。

(何だろう・・)

「どうかしたのか?」
客が、僅かに体を離す。全く反応を返さなくなった花魁を、訝しく思ったらしい。
ああ、いけない。そう思いながらも、花魁の意思は外に向いたまま。
このまま見逃してしまうには惜しい気がした。
月は一月経てばまた満ちるが、それは、次があるかは分からない。

「旦那・・・」

幸い、この馴染み客は温和な性格の人だ。ここまで来て追い返すのは気が引けないでもないが、気を悪くされる事もあるまい。

「少し気分が・・・。今夜は、御引取り願えませんか・・・?」
「そういえば、少し顔色が優れぬな・・。」

客が、そっと頬に触れる。本気で心配しているのか。『花魁の言葉に誠なし』というのが世間の常識だと聞くのに、こうもあっさり信用するとは。
もとより色白な花魁の肌は、月明かりの下で青白く映ったのかもしれない。

「申し訳ありません・・。代わりの者でよろしければすぐに」
「いや、お前以外はいらぬ。」

歯の浮くような台詞をさらりと吐いて、客は体を起こした。
僅かに乱れた着衣を正すところを見ると、お帰りいただけるらしい。
花魁も、肌蹴た着物を掻き合わせ、布団の上に上体を起こす。

「下までお送りいたします。」
「無理はしなくていい。少し疲れているんだろう。今宵はゆっくり休んで、また次の機会に。」
「・・・ありがとうございます。」

本当に人柄のよい男だ。遊郭通いなどせずとも、相手には困らないだろうに。そんな事を考えながら、けれどそれ以上の感動を受けることはなく、花魁は静かに閉まる襖の向こうに、隠れる背中を見送った。

廊下から声が聞こえる。もうお帰りですか、と、少し驚いたような声は、おそらく花魁の身の回りの世話をしている新造のものだろう。見送りは任せてよさそうだ。

花魁は、煙管に火を入れ、また視線を窓外に移した。
漆黒は、まだそこに居る。うずくまり、息を潜め、気を研ぎ澄ませているのに、こちらには気づかないらしい。

(追われてるのかなー?)

今宵はいい夜だ。月が美しく、風もない。
煙管の先から立ち昇る煙を、花魁はそっと吹き流した。





漆黒は、負傷した肩を押さえ、暗がりに身を潜めた。夜でも明るいこの町は、どうやら遊郭らしい。酒と、女の化粧の匂いがする。
息を潜め、気配を殺す。町の光で眩んだ目では、暗がりはよく見えまい。それでも気を研ぎ澄ませて、追っ手の気配を探す。
毒が回ってきている。どうやら命を取るものではなく、体の自由を奪う類のものらしいが、今見つかれば、満足に戦う事もできない。

(これだから盗みは嫌いなんだ・・)

それに今回の依頼主とはどうも相性が悪いらしく、彼からの依頼を受けると必ずいつも何かある。とは言え、仕事の選り好みなどできる身分ではないのだ。

(ちくしょう・・・・)

頭が毒で朦朧とする。眠るわけにもいかず唇を噛んだ。口内に、鉄の味が広がる。

(そもそもこんな月夜に、盗みに入るのが間違いか・・・。)

空を見上げると、白い満月が浮かんでいた。月光は、弱弱しいながらも、闇の中の漆黒を照らし出す。こんな夜に仕事をするべきではないのだ。期限さえなければ、新月の夜まで待ったものを。

月の下を、白煙が細く流れていく。どこかで、遊女か大名が、煙管でも銜えているのだろう。
(好い気なもんだ。)
心中で悪態をついて、ふと、今宵は風がないことに気づく。煙が流れるはずがない。
ばっと、煙の始を振り返る。

「こんばんはー。」
青い瞳が微笑んだ。

赤い瞳は、驚きに見開かれる。それは、その瞳が映したことのない色。
(金の髪・・・)
いやそれより、これ程近くに居る気配に、今まで気づかなかったとは。追っ手に集中しすぎたか。

(本当に今夜は・・・)
どうかしている。そんな事を思い、眉を顰めた漆黒に、青い瞳は艶やかに笑う。

「ねえ、入っておいでよ。」




「姉さん。」

襖の向こうから聞こえた声に、花魁は金の髪を揺らした。薄く襖を開くと、新造が廊下にちょこんと座っている。

「大和屋様がお帰りになられました。薬湯を淹れましょうか?」
「ああ、いいよ。気分は大分良くなったんだー。それより、薬箱、持って来てくれないかな。紙で手を切っちゃってー。」
「はい。」

短い返事の後、衣擦れの音が廊下を遠ざかっていく。

「傷の手当てなんざ頼んでねえぞ。」

低い声を背に受けて、花魁はそっと襖を閉めた。

「畳に血を落とされると困るんだよねー。」
「じゃぁ何で部屋に入れた。」
「忍者なんて初めて見るからー。間近で見てみたくて、お客様にもお帰り頂いたんだー。」

闇を身に纏ったかのように、服を黒で統一した忍は、また眉間にしわを寄せた。花魁は、小さく笑う。

「心配しなくても、通報なんてしないよー?」

その時、また廊下から声がした。再度襖を開けて、新造から薬箱を受け取る。

「ありがとー。今日はもう休んでいいよー。」
「はい、姉さんも、ゆっくり休んで下さい。」

今度は外から襖が閉まった。


「今のは妹か?」
足音が十分遠ざかるのを待って忍が口を開くと、花魁はまた笑った。
「遊郭ではね、新造は、姉遊女のことを姉さんって呼ぶんだ。血の繋がりはないよー。」
「お前も遊女か?」
「見ての通り、花魁です。」

見ての通りというが、肌蹴た胸には乳房はない。

「男娼は『陰間』じゃねえのか。」
「『陰間』じゃ色気がないからねー。この店では『花魁』。」

そう説明しながら、花魁は忍の肩から流れ、背で固まった血を拭く。

「傷は深くないけど、動けないー?」
「手裏剣に毒が塗られてた。死ぬようなもんじゃねが。」
「うわー。忍者も大変だねー。」

呑気な事を言いながら、花魁は手際よく傷を手当てする。
忍は、不思議な感覚に身を任せていた。こんな風に誰かに傷の手当てをされるのは初めての経験だ。背後に立たれて何も感じないのも。花魁が醸し出す、独特の雰囲気の所為だろうか。

「お前、何でこんな所で働いてるんだ。異国の人間だろ。」

金の髪に青い瞳。それに、この国の人間より白い肌は、白粉を塗ったような不自然さはない。初めて目にする色ではあるが、海を渡った異国に住む人間は、こんな色を持つのだと聞いた事がある。
しかし、それが何故、こんな場所で体を売るのかが分からない。
訊けば、花魁はまたくすくすと笑った。

「オレは此処で生まれたんだー。」
「・・・遊郭でか。」
「うん、此処は異国のお客様も来るから、きっとそういう人が父親なんだろうねー。」
「・・・母親は遊女か?」
「多分ねー。何処の誰かまでは知らないけど。此処はそういう所だからー。」

そんなものかと、理解はしたが、納得するにはもう少し時間がかかりそうだ。きっと花魁と忍では、住む世界が違いすぎる。

「ねえ、白い包帯、巻いても大丈夫?」
「・・・ああ・・・肩なら隠れる・・・。」

白は夜闇に浮かび上がる。流石、花魁。細かい事まで気が回る。
男の花魁など買う者がいるのかと思ったが、これならいても不思議ではないだろう。それに、よく考えれば、女人戒を課せられた僧侶達にとっては嬉しい存在だろうし、そして、先刻、新造が口にした『大和屋』の名。

「大和屋ってのは、貿易商のか?」
「よく知ってるねー。例のお帰り頂いたお客様だよ。」

大和屋といえば、この辺りで一番の貿易商。知らぬ者はいないだろう。そんな有力商人まで客にしているということは、かなり繁盛しているらしい。

(世の中には、色んな奴がいるもんだ。)

「ねえ、眠たいのー?」

包帯を巻き終えた花魁が、顔を覗き込んでくる。重たい瞼を隠しきれなかったらしい。

「毒の所為だ・・。」
「分かってるよ。・・・ちょっと口開けて。」

深く考えずに、忍はその言葉に従った。下唇を、柔らかいものがなぞる。
さっき自分で噛み切った唇の傷を舐められているのだと、気づく程度の思考力はまだ残っていたが、振り払う気にはならなかった。接吻に似たその行為は、なぜかひどく心地よかった。

「夜が明ける前に起こしてあげるよ。おやすみ。」

静かな声に導かれるように、忍は眠りに堕ちた。


ぱさっ・・・

眠ってしまった忍を花魁が布団に横にすると、忍の懐から紙が落ちた。いけないと思いつつ、拾い上げて開いてみる。
その紙には、白鷺城内見取り図との文字と、それらしき図面。白鷺城といえば、この辺り一帯を治める知世姫の居城だが。

「盗んできたのかな?」

おそらくそうなのだろう。こんなものが、城の外で出回るはずがない。
此れが彼の仕事。

「お城の中ってこうなってるんだー。」

忍が目覚めないのをいいことに、花魁は見取り図をしげしげと眺める。こんな場所で働く者にとっては、手の届かない世界だ。遊女は、遊郭を出ることを許されない。かと言って、城での生活に憧れるわけでもない。これは純粋な興味だ。

「あ、ここ・・・。」

ふと、紙の上の一室に目が留まった。そこは、唯一部屋の名が書かれておらず、何の為の空間なのかは分からない。しかし、

「何かあるなあ・・・。」

双眸に、湛えた青が深みを増した。




「姫様、」

不意に部屋の中に現れた気配に、少女は背後を振り返った。闇に溶け込むようにそこに膝間づくのは、この城に使えるくの一。

「申し訳ありません、逃げられました。」
「そうですか・・・。」

短い報告に、特に感動を示す事はなく、少女は部屋の奥に視線を戻す。髪の飾りが小さく鳴った。

「盗まれたのは、城内の見取り図だけですわね?」
「はい。」
「・・・この部屋の守りを強化しましょう。きっと彼はまた来ますわ。」
「御意。」

室内から気配が消える。少女は、部屋の置くまで歩み寄り、そこにあった直方体の木箱に触れた。

「貴方を、目覚めさせるわけにはいきませんから・・・。」

少女の言に応えるように、箱が淡く光った気がした。





後朝の別れには少し早い夜明け前、忍は花魁に揺り起こされた。
体内の毒はほぼ流れたらしく、驚くほど体が軽かった。そういえば、ゆっくり眠ったのも久しぶりだ。こんな職業についていると、心休まる暇がない。

「世話になったな。」

一応礼を言って、窓を開ける。月が、町並みの向こうに隠れようとしていた。
すぐに出て行こうとする忍の背に、花魁が声をかける。

「ねえ、次は何時来るのー?」
「・・・もう来ねえよ。」

遊郭通いをする忍など聞いた事がない。今回限りのつもりだった。花魁の方も、客でもない男の為に馴染み客を逃していたのでは商売になるまい。そのはずなのに。

「次の約束も取り付けられないようじゃ、花魁失格なんだー。」
「俺は客じゃねえ。」
「うん、でも・・・これも何かの縁だしー?お金払って来いとは言わないよー。」
「もう来ねえ。」
「つれないなー。」

忍の冷たい言葉に、花魁は軽く苦笑を浮かべる。

「じゃあ、名前だけでも置いていって?」

何故、二度と会わないであろう相手の名を知りたいのか。理解できないまま、それでも自分でも不思議なほどに、

「黒鋼だ。」

名乗る事に抵抗はなかった。

「黒鋼ねー。オレはファイだよ。」
「ファイ・・・。」

聞きなれない名だ。けれど、奇麗な音だと思った。異国の国の言葉なのかもしれないその名は、金の髪の花魁に良く似合う気がした。

「じゃあな。」

窓枠に、足をかける。
不意に、手を引かれた。


かり・・・


小指の付け根に、甘く痺れるような感覚が走る。噛まれたのだと気づいたときには、もう手は解放されていた。

「じゃあね。」

艶やかな笑み。招き入れられた時と同じ笑顔に背を押されるようにして、黒鋼は闇に紛れた。

夜明け前の風の中に、白い花弁が舞っていた。


「きっと、また会えるよ。」

呟きは、煙管から立ち昇る煙と共に、風に流され夜闇に溶けた。






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