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『36:「愛してる」』
「ファイ!」
そういえば殆ど呼んだ事もない名を叫んで、黒鋼は王の部屋の扉を開けた。はっと蒼い瞳がこちらを向く。
王は、黒鋼の存在には気付かない。
丁度いい。何を言ってもファイにしか届かない。そして夢から覚めれば、この世界でのことは自分の記憶にも残らない。
上等だ。どうせファイの記憶にしか残らないなら、死ぬほど恥ずかしい台詞も吐いてやる。
黒鋼は腹をくくってファイの前に立った。
「いいか、よく聞け!それから起きたら俺は忘れるから二度と口にするな!」
告白の前置きにしてはなんと色気のない。しかし黒鋼は構わず、きょとんとしているファイにこう告げた。
「愛してる」
もう死にたい。しかしここまで来たらもう何処まででも同じだ。
「愛してる!だから戻って来い!俺がお前の居場所になる。ずっと側にいてやるから!!」
きっとこんな台詞、たとえ宇宙が滅びようとも、もう二度と口にすることはない。そして早急に忘れたいから早く思い出せとファイを見つめた。
蒼い瞳から一筋、雫が頬を流れた。
『37:ガラスの瞳』
これで全て上手くいくはず。
それなのに、どうしてあの蝶の言葉がよぎるのだろう。
モウ オソスギタノデス モウ ドウニモ ナラナイノデス
そんなはずはない。絆を創ったではないか。ファイは、こうして涙を流したのに。
『ファイ、どうしたのだ?』
『あ・・・いえ・・・何でも・・・・・・』
王がファイの肩に手を置く。ファイは慌てて涙を拭って、そして絶望的な台詞を口にした。
『今、誰かの声が聞こえた気がして・・・・・・』
「・・・・・な・・・に・・・・・・・」
『声?私は何も聞こえなかったが・・・』
『空耳・・・かもしれません。誰かに、呼ばれた気がしたんですけど・・・でも、誰もいないし・・・。』
「何言ってんだ!俺はここにいるだろ、見えねえのか!?」
『・・・・・・?』
ファイはやはり何か聞いてはいるのか、黒鋼の方を見て首を傾げる。しかしその瞳は、ガラス玉でも入っているかのように、黒鋼を捕らえはしない。
「何で!どうして見えないんだっ!!」
モウ オソスギタノデス モウ ドウニモ ナラナイノデス
「待ってたんじゃねえのか!?聞こえてんだろ、何か言え!!」
『ファイ、まだ何か聞こえるのか?』
『いえ、もう何も・・・』
「っ・・・・・」
完全に、ファイの中から自分の存在が消えてしまった。もう、声すらも届かない。
「・・・・・・・・・ファイッ・・・・・・」
最後に悲痛な叫びを残して、黒鋼は再び、その世界から姿を消した。
『38:名前』
何故だろう、涙が止まらない。
『ファイ・・・?』
『ごめ・・・なさ・・・・・・』
また、誰かが自分を呼んだ気がしたのだ。その直後に、何か大切なものを失ったような、そんな感覚に襲われて。
そういえば以前にも、いや、確かあれはつい最近、こんな喪失感を経験したことがあったような。
(分からない・・・分からない・・・・・・・・どうして・・・?)
そういえばさっき、誰かの声が聞こえる前、自分は何を言おうとしたのだろう。
誰かの名前を、呼ぼうとした気がする。
(誰・・・誰だっけ・・・・・・)
唇が覚えている音は
「く・・・・ろ・・・・・・・?」
愛しき君よ 誰を求めて
その暗闇を彷徨い歩く?
オレは記憶の海におぼれて
君を捜して手を伸ばす
『39:特別』
君主だという理由である程度の尊敬の念はかろうじて持ってはいたが、それでもそれほど思い入れがあるわけでもないと思っていたのに、ファイの夢から離れるたびに彼女の元へ来てしまうということは、一応特別な存在ではあったということなのだろうか。
(気にいらねえな・・・)
呑気に花を生ける知世を睨みつけて、しかし一番気に入らないのは不甲斐ない自分自身だ。もっと早く、この夢に入る前に絆と呼べるものを創っておけば、こんなことにはならなかったのだろうか。いや、そうすれば、ファイは過去に戻りたいなどとは願わなかったかもしれない。現実世界をちゃんと、自分の居場所だと認めていたかもしれないのに。
『後悔というのは後からしか出来ないものですわ。一度失敗したなら繰り返さなければいいだけの事。』
「言われなくてももう・・・繰り返せねえよ・・・・・・」
過去の自分はなにをしたのだ。どうせくだらない事に違いない。今以上の後悔など、したことがない。
過去に来ていてこんなことを願うのも変な話だが、出来ることなら戻りたい。あの箱を開ける前、まだファイが自分を見ていた時間に。ここは夢の中。それも、出来なくはないが。
今の自分にとって本当に特別だったのは、日本国よりファイとすごした時間のほうで、それが分かっているから、怖くて戻れない。そこへ戻ったら、きっと自分もファイのように。
『・・・貴方に辛気臭い顔は似合いませんわ。』
「うるせえ、ほっとけ。」
過去の自分に説教する知世に苛立ちを覚えながら、それでもそこを立ち去る気にはなれない。
しかし知世の顔を見る気にもなれず、足元の畳の目を数える。
不意に知世が手を打った。
『仕方ありませんわね。少し協力して差し上げましょうか。』
「うるせえな・・・どうしようもねえんだろ・・・・・・」
『いえ、夢に捕らわれて現実のものが見えないのなら、夢の中のものなら或いは。』
「・・・・・・あ・・・?」
思わず顔を上げると、目が合った知世がにこりと笑った。
「お前・・・話が・・・・・・?」
ということは自分もまた過去に捕らわれ始めているのだろうか。しかし知世は、そうではないと首を振る。
『ここは所詮夢の中。都合の良い展開があってもいいと思いませんこと?』
そういって、知世は黒鋼にあるものを差し出した。
『40:アゲハ蝶』
『ファイ・・何を泣く・・・?』
『・・分か・・・りませ・・・・・・』
思い出せない。違う、何を思い出そうとしていたのか、それが分からない。忘れてしまうような事ならきっと、大した事ではないのだろう。なのに、何か悲しくて。
『ファイ・・・』
『ア・・・シュラ・・・王・・・・・・』
違う、その名を呼びたいのではない。
そんなはずはない。今まで愛しいと想ったのはこの人だけなのに。
それでも、誰かを求めていた。見えない誰かを呼んでいた。
「戻ってきて・・・・・・」
ひらり
「・・・・・・?」
不意に、目の前を何かがよぎる。北国で育ったファイにとって、見慣れないその儚げな姿は
「蝶・・・・・・?」
黒い翅に赤青黄色と色とりどりの色を背負う蝶は、時計の絵でしか見たことのない生き物。
「時計・・・蝶・・・・・・」
何か、思い出しかけた気がする。
「そう・・・約束・・・・・・」
蝶を見に行こうと約束した。誰と?あの時隣にいた、あれは確か・・・
「黒・・・むー・・・・・」
「黒鋼だ!こんなときくらいまともに呼びやがれ!」
「あ・・・・・・」
声が聞こえた。いや、声だけではない。姿も、そして記憶も。
「黒むー!」
「思い出したか、馬鹿野郎・・・」
口調とは裏腹に、心底安堵した表情の黒鋼の周りを、蝶がひらひらと舞う。それは、知世が不思議な術で作り上げた幻に過ぎないが、だからこそ、夢を越えこの世界でも生きている。
「ほら、約束の蝶だ。時計の蝶とは違う種類だがな。これはアゲハ蝶。他にも見たいなら俺の夢に・・・」
言葉は最後まで続かない。ファイが、黒鋼の胸に飛び込んだ。
「黒・・・鋼・・・・黒鋼・・・・・」
何度も何度も口にするのは、ずっと、呼びたかった名。ずっと待っていた人の名。
応える様に黒鋼も、ファイの体を抱きしめる。もう二度と、離さないとでも言うかのように、強く、強く。
「手間かけさせやがって・・・」
「ごめ・・・んね・・・・・・」
「・・・帰るか。」
「ん・・・・・・」
黒鋼の腕の中でファイが小さく呟くと、空間が割れるような音がした。
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