彼が死にセレス国が消えて、黒鋼が片腕を失って、やっとの思いで次に辿り着いたのは黒鋼の国。意識を取り戻さない黒鋼を抱きしめて柄にもなく泣き喚いたわりに、状態が安定したからもう大丈夫だと黒鋼の君主に言われた途端、思い返すのは彼の事ばかり。
自分はこんなに薄情な人間だっただろうかと、よくよく考えてみれば送ってきた人生は薄情そのもので思わず笑ってしまいそうになる。『ファイ』を亡くした苦しみから逃れるように彼を求めて、彼に追われる恐怖から逃れるために黒鋼を求めた。
今、その黒鋼をも裏切るように、彼の事ばかり想っている。

「アシュラ王・・・」

今になって彼に、会いたくてたまらない。




『行こう。世界はここだけじゃないから。』

その一言を夢に聞いてファイは目を覚ました。
そこは、あの極寒の谷とは何もかもが違う、暖かく明るい部屋の中の、柔らかいベッドの上。このセレス国に来て、自分に与えられた場所。
「ファイ・・・」
急に顔が見たくなって、寝間着姿のまま部屋を出た。

彼に与えられた部屋は、自分の部屋とは正反対の、冷たく暗い水の底。命が消えた体を生前のままに保つためには、皮肉にもあの谷によく似た環境が最適だった。名前を借りた双子に、暖かな部屋の中で感じるのは罪悪感ばかり。
「お早う、ファイ・・・」
泉の淵に座り込んで、水面に手を触れる。広がった波紋が、双子の顔を揺らした。
「ごめんね・・・忘れてないよ・・・絶対に、ここから出してあげるから。」
暖かい部屋で柔らかい布団に包まれていても、焦がれるのは死者を蘇らせる術を探す事ばかり。
「忘れてなんかいない・・・ファイのことばかり想ってるよ・・・」

「ファイ?」
不意に背後から声を掛けられて、ファイははっと振り返る。けれど、ここに入ってくる人間は限られている。『ファイ』の姿が人目に触れることを避けるために、王が、自分とファイ以外の人間の立ち入りを禁じたのだ。だから、視覚で確認するまでもなく、声の主は
「アシュラ王・・・」
「まだ冷える時間だというのに、そんな格好では風邪を引いてしまうよ?」
アシュラ王が寝間着姿のファイを腕で包もうとする。しかし、ファイは咄嗟に一歩後ずさる。
「あ・・・」
「・・・ああ。そうだったね。」
王は気付いてすぐに手を引いた。ここでは―『ファイ』の前では抱きしめないと。ファイが望み、2人が交わした約束だ。自分だけが暖かい場所に居るのだと、自分だけが寂しくないのだと、まるで見せ付けるようで。
「では、せめてこれを。」
王は、自分の上着をファイの肩に掛けた。突然暖かくなった肩に戸惑いと一種の居心地の悪さを感じながらも、ファイは王に礼を言う。
「ありがとうございます・・・」
「必要なかったかな?」
「いえ・・・嬉しいです・・・」
「それなら良かった。」
王は、ふわりとファイの頭の上に手を置いた。

谷で過ごすうちに、ファイは笑顔を忘れてしまった。そもそも、笑っていた事などあったのだろうか。双子に生まれたがゆえに生まれた直後から不吉な存在として忌み嫌われ、まともな愛情など受けたことがなかった自分が。
いや、愛情なら受けた。お互いがお互いを自分以上に愛し合った片割れに。
(だから・・・ファイだけが全てなのに・・・)
今すぐにこの命を、彼に渡してもいいほどに、彼が全てなのに。

「邪魔をしたね。外で待っているよ。気がすんだら、着替えて一緒に朝食にしよう。」
王はそう言って、ファイをそこに残したまま泉を後にした。
その背が見えなくなってから、ファイはほっと息を吐く。
「どうしよう・・・」
再び覗き込んだ泉の中では、やはり『ファイ』が眠っている。胸に抱いたこの感情を、責める事もなじる事もなく。
けれど、自分で自分が許せないのだ。
「ごめんね・・・暖かい部屋も柔らかいベッドも居心地が悪いのに・・・アシュラ王の腕の中だけは、少し居心地がいいんだ・・・。」
そんな風に感じたくなんてないのに。この命にすら執着を感じなくても、あの腕を失うことにだけは躊躇してしまう。そんな自分を『ファイ』に咎められるのではないかと、この場所でだけはあの腕を拒んでしまう。
「ファイ・・・オレはどうしたらいい・・・?」




あの時、それは王への好意だと思った。『ファイ』の命を奪って生きながらえた自分が、その想いを叶えて幸せになることは許されないと思った。
でも、今ならはっきりと、あの不思議な心地よさの理由が分かる気がする。




「朝の挨拶は終わった?」
「・・・はい。」
アシュラ王は、やっと出てきたファイを、待ちかねたというように抱き寄せた。何か苦しんでいる事を悟ってくれたのだろうか、子供をなだめるように、優しく背をなでてくれる。その行為で罪悪感が強まって、逃れるように王の首に腕を回す事は、その罪悪感を更に深める事にしかならない。それでも他に、この感情と戦う術を知らない。
そして、自身の内の罪の意識と戦う事に必死になるあまり、1番近くにいた人のことさえ、そのときのファイには見えていなかったのだ。





ファイは、白鷺城の庭に出て、池のほとりを歩いた。そして、池の中にいくつかの石が置いてあるのを見つけて、蝶が舞うようにひらりとその上を渡る。足を止めて水底を見下ろすと、庭の木から散った桜の花弁が、あの日のように水面を揺らした。思えば、セレスを訪れて以来、ずっと、水底の人たちのことばかり想って来た。それも、誰かの腕の中で。
「ファイへの罪の意識から逃れるために貴方を求めて、貴方に終われる恐怖から逃れるためにオレは黒鋼を求めた・・・」
そして、王以外の腕を知って、気付いた事がある。
「あの頃は気付けなかったけど・・・貴方も、縋りつくようにオレを抱きしめていたんですね・・・」
包み込むという表現を当てはめるには王の腕はあまりにも強く、まるで恐ろしい夢に怯えた幼子が目を覚まして母親に縋りつくように。
「だから、貴方の腕は心地よかったんだ・・・」
与えられたものは全て居心地が悪かった。けれど、ずっと排除され続けてきた自分にとって、求められる事は、どう拒んでも心地良かった。
そして分からなくなる。あれは、本当に好意だったのだろうか?




それでもあのときのファイは、アシュラ王の腕の中に居ることに理由を求めた。
「・・・何をすればいいんですか。」
問うたのは、求めてしまう自分が恐ろしかったからだ。
共に居るのは自らの望みのためではなく、契約の結果にしたかった。
「オレに頼みたいことって何ですか。」
町で出会った少女に笑顔を教わった。城の兵に、自分が笑うと王が喜ぶといわれた。
素直に喜べなかったのは、王との関係を深める事を恐れたため。これ以上、その腕に溺れてしまう自分を恐れたため。
王は望んだ。
「この国の人々に、害をもたらす者を滅して欲しい。たとえそれが何者であっても。」
そして、1つの嘘と一緒にファイに刺青を与える。魔力が強くなることを抑える刺青。大きな鳥の形を描いたそれが抱く矛盾に、ファイは気付く事ができない。そして、
「君に掛けられた『君より魔力が強いものを殺す』という呪は、一度きりで解けてしまう。そのとき殺してもらうのは私でなくては。」
口にされた本当の願いも、記憶には微塵も残らずに。




けれど今、嘘が晴れた記憶の中に、本当の彼を見る。偽りの記憶の中では王は手を握っただけのはずだったのに、本当はあの時も、安らぎを求めるように、自分を抱きしめていたのだと。
「アシュラ王・・・貴方は何に怯えていた・・・?」
悪夢に怯えた幼子のように、怯えていたのはきっと自身の未来だ。
けれど、死ぬ事が怖かったのなら自分を側に置く事などしなければ良かったのに。
生きて狂うことが恐ろしかったのなら、その時を待たずに自ら命を立つ事も出来ただろうに。
自分を殺す人間が、ずっと側に居るのはどんな気分だったのだろう。結局は、この手で彼を殺すことはできなかったのだけれど。
「どうしてオレを必要としたんですか・・・」
考えれば考えるほど、彼の中での自分の存在意義が分からなくなる。そもそも自分達は、出会う必要が会ったのだろうかと。

『私は君が好きだよ。』

「・・・殺させるために連れて行ったんでしょう・・・?」
考えれば考えるほど分からなくなる。
別れるために出会って、終わりに向かって歩いた。今思い返せば、2人が過ごした時間は、それだけでしかなかったのに。

今になって、彼に会いたい。真偽を、確かめたい言葉がある。




セレス国に落ちてきた羽根で作った生命体に、ファイはチィという名を与えた。その姿を見て、王は素直な感想を述べる。
「可愛らしいね。こういうものも、生みの親に似るものなのかな?」
「オレ達に・・・似てますか・・・?」
「ああ。まるで、妹みたいだ。」
「・・・・・・」
その言葉を、ファイは複雑な表情で受け止めた。
「この子は・・・お母さんに似せたんです・・・。」
不幸の双子を生んだ自らを責め自害した母でも、『ファイ』は、大好きだったから。
「そうか・・・きっと、あの子は喜ぶよ。」
そういって王は、ファイの頭に手を置いた。
「きっと、この子のことも大好きになって、とても大切にするだろう。」
王が未来を語る言葉には、不思議な力があると思う。きっと、それは本当になるのだと思えてしまう。『ファイ』を生き返らせらせる術もまだ見つけられないのに。

俯いてしまったファイの顔を覗き込むように、王はファイの前に跪く。
「ファイ、笑ってくれないかな?」
「え・・・?」
「最近、少しずつ笑顔を見せるようになったと聞くけれど、私の前ではまだ一度も笑ってくれた事がないね。近くにいても、少し距離を置いている。」
「っ・・・」
見抜かれていたことに驚いて、けれどそれならそれで構わないと。
「だって・・・オレは・・・」
「幸せにはなれない?」
「・・・・・・」
ファイは、深く項垂れた。自分は罪深い存在。『ファイ』の犠牲の上に生きているのに、自分だけ幸せになるなんて。

「君は優しいね。あの子が大切で仕方がないんだね。」
アシュラ王は、そっとファイを抱きしめる。
「でも、あの子は目覚めたらきっと、チィのことも大好きになる。だから君も、大切なものは1つじゃなくてもいいんじゃないかな?」
「・・・大切な・・・もの・・・」
「君の方が少し早くそれを見つけるだけ。あの子はきっと、咎めたりはしないと思うよ。」
「アシュラ王・・・」
「私は君が好きだよ。ユゥイ。」
「っ・・・・・!!」
王が本当の名を呼んだのはそれが初めてで、けれど名を知られていたことよりも、与えられた言葉に驚愕する。
「好き・・・?」
こんな、呪われた自分を。
「君が好きになる人が、私でなくても構わない。ただ、私は君が好きだから、君には笑顔でいて欲しいと思うんだ。」
「アシュラ王・・・」





「オレは、貴方が好きでした。」
水面に向かって告白する。けれど、偽りの中で抱いた感情は、本当だといえるのだろうか。
本当は、知りたい真実は1つだけなのかもしれない。
「貴方は・・・本当にオレが・・・・好きだったんですか・・・?」


「ファイさん、」
池のほとりからファイを呼んだのは、黒鋼の同僚の蘇摩だ。
「知世姫がお呼びです。黒鋼が、もうすぐ目を覚ますと。」
「・・・すぐ行きます。」
1つ、決めていることがある。目覚めた彼と話をするとき、キスも抱擁も無しにしよう。

もう1つ、まだ決めていないけれど、迷っている事がある。
『ファイ』への罪悪感から逃れるために王の腕を求めて、王に追われる恐怖から黒鋼を求めた。


こんな『恋』はもう、終わりにすべきなのかもしれない。






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