目覚めた黒鋼と、多くは話さなかった。
話をするには自分の中には迷いが多すぎて、けれど確実に秘めた決意は、言葉にせずとも伝える事ができた。

「『黒様』」

君に、そして『ファイ』とあの人に、救われたこの命を、生きて行こうと思うと。




生きるということは、いつか、『ファイ』にこの名前と命を返すことだった。
セレスでは、時間さえあれば図書館にこもって様々な呪文を覚えた。

「もうこの魔術所の呪文は覚えたようだね。」
「・・・・はい」
王は、傍らに立つ本棚を見上げながら、感心した様子で言う。
「城にある殆どの魔術所を習得してしまったな。」
けれど、ファイの表情は冴えない。
「どうしたのかな、ファイ。何か気にかかる事があるなら教えて欲しいね。」
王の問いに、ファイは暗い表情で答える。
「・・・・どんなにやっても回復や治癒系の魔法は習得できないんです。オレが覚えられるのは攻撃系の魔法・・・・誰かを傷つけるものだけで・・・・」
本当に求めているものは、『ファイ』を蘇らせる呪文なのに。

「・・・・笑ってごらん。」
「・・・・え?」
「笑って。」
王に求められて、ファイは、まだなれない笑顔をつくってみせた。それは、少し歪で、満面の笑みとは呼べないものだったけれど。
「使えたよ、魔法。」
王は、微笑む。
「ファイの笑顔で私の心は十分癒された。これも魔法だよ。」
「・・・・・・」
ファイは驚いて、しばし言葉をなくしてしまった。
こんな歪な笑顔が魔法だというなら、きっと王のその言葉の方がよほど、完璧な癒しの魔法だろう。
照れ臭さから俯いてしまったファイだったが、満たされた心から素直に優しい言葉が漏れる。
「あ・・りが・・・とう」
王が、そっとファイの頭をなでた。この頃は王も、ファイを抱きしめる事は少なくなっていて。それは互いへの依存度が減ってきた事ではなく、縋り付いていなくても離れられないほどに深く繋がっていると、お互いに奇妙な自信があったことを示していたのだろうけれど。

「そうだ。では1つだけ、秘密の呪文を教えてあげよう。」
王の言葉に、ファイは顔を上げた。
「秘密の呪文・・・?」
「ああ。代々王家の者にだけ口伝される、どの書物にも記されていない呪文だ。」
王は、ファイの耳に口を寄せる。その仕草がその呪文の重みを増して、そこで囁かれた言葉を、ファイは一文字も漏らさず記憶する。それは、今まで覚えてきたどんな魔法とも違うものだった。
「これは、どんな魔法なんですか・・・?」
「人を、永い眠りにつかせる魔法だよ。」
「眠り・・・?」
「ああ。人を傷付ける事無く、ただ眠らせる魔法だ。」
優しい君には、良く似合うと。そのとき微笑んだ王は、その呪文が自分に使われることまで、予感していたのだろうか。



「それは、私が君に教えた呪文だね。人を眠りにつかせるための魔法。」

運命の日、呪文の光に包まれながらアシュラ王は言う。
「魔法は永遠ではない。暫くすれば私は目覚めてしまうだろう。約束を守ってもらうのが、少し先に伸びるだけだよ。」




王は、どうしてあの呪文を教えたのだろうか。
今思えば彼はいつも、殺されることを願って生きていた。けれど、繰り返された言葉の中であの呪文だけが矛盾する。
約束の成就が少し先に伸びる事で、彼は何を望んだのだろう。



「私達未来を視る者は、先を読むことしかできません。」
来訪者が続いて白鷺城がにわかに騒がしくなる中、ファイと2人きりになれる環境を作り出して、知世は語る。
「だからこそ少しでも、愛するものが幸せな道を歩めるように願う。出来る事は、とても少ないのですけれど。」
ファイは知世の横顔を見つめた。
彼女は黒鋼のために、夢見の力を手放した。それ故に、その言葉は重い。
良い君主だと思う。その行動のすべてが、愛する者達への想いに結びつく。
きっとサクラも、そうだったのだろう。何も、話してはくれなかったけれど。

彼は、どうだったのだろうか。再び思い返したとき、それに答えるように、知世がファイを見上げた。
「貴方の王のように。」
「・・・」
知世の口から彼の話が出た事に少し驚いたが、考えてみればそれも道理かもしれない。彼は、何かしらの手段で未来を知っていた節が会った。それも、今思えばの話だけれど。そういう者達は、往々にして、互いの存在を知ることができるもの。
「王は夢で未来を知っていたんですか。」
確認のための質問に、知世はこくりと頷いた。
「王は先を視、少しでも貴方に救いの道はないか探し続けていました。」
「・・・・」

思い出される言葉がある。
『できれば君に殺されて、最後の呪いは消してあげたかったのだけれど』

(オレのためだって言うんですか・・・)
分かれるために出会って、終わりに向かって歩いた。
彼が求めたのは死で、与えてくれようとしていたものも死だったのだろうか。
『だからオレを連れてきたんですか。いつかこうなる貴方を・・・・殺させる為に!』
あの日叫んだ言葉が、結局は全てだったのだろうか。それが、彼が与えてくれた救いの道だと、納得するしかないのだろうか。
けれどそう結論付けるのはやはり、あの呪文が――人を傷つける事無く、ただ眠りに落とす呪文が邪魔をするのだ。

「王の行動や色々な事は、理に適っているとは思いがたいことが幾つもあります。それは・・・」
堂々巡りする考えに助けを求めて、知世に確かめる。それはやはり、飛王・リードの夢の為だと、知世は言った。
彼が本当に願っていた事も、歪んでゆく理の中で、自分が見失ってしまっただけなのだろうか。
「1つ、覚えていてください。」
知世が、ファイの手を取る。
「理が崩れ未来が歪んでも、人の根底にある願いは、変わるものではありません。」
「・・・王も、そうだったと・・・?」
「貴方にも、いずれ見えると思います。」
知世の瞳は、崩れ行く断りの中でも揺らぐ事のない信念に満ちていた。



また1人、池の飛び石の上に立って、ファイは水底を見つめる。
考える事を、やめてしまおうかと思った。今は、進むべき道を見据え、ただ前に進むしかないのかもしれない。
そんなことを考えながら、舞い落ちてきた花びらの軌跡を辿って見上げると、屋根の上に、小狼の姿を見つけた。
話をしたいと思ったのは、小狼の表情が沈んでいたからというより、自分がただ、誰かの側にいたくなったからだろう。
そんな想いを感じ取ってくれたのか、或いは小狼も似たような気分だったのか、小狼はファイを拒まない。
他愛ない会話を少し交わしたあと、小狼が不意にファイに礼を言う。
「・・・・ありがとう。さくら・・・・姫の側にいてくれて。」
「いる事しか出来なかったけれどね。」
護ってやる事もできなかった。彼女の願いを、止めることも手助けすることも。
「本当にただ、側にいる事しか・・・」
自嘲の笑みを浮かべ、言葉に後悔を滲ませるファイに、小狼は力強い口調で言った。

「それが1番支えになる。」


霧が、晴れた気がした。




別れるために出会い、終わりに向かって歩いた。
共に過ごした時間は別れの悲しみを深めるだけで、意味などないものだったのではないかと思った。けれど、
(そばに・・・いてくれたんですか・・・)
『ファイ』を失い、祖国を失い、堪らなく1人だった自分に、人の温もりを教えてくれた。
旅立つまでの長い時間、襲い来る孤独を拭ってくれた。

(アシュラ王・・・)




黒鋼は、知世から受け取った銀竜を手に、夜空を眺めていた。いや、眺める振りをしながら、部屋にゆっくりと近付いてくる気配を待っていた。
「泣いてるのか?」
「・・・・・・泣いちゃだめだって、あの人に言われたのにね・・・」
背後から返ってきた答えに、その涙が、誰のために流されているものなのかを悟る。だから、振り向かなかった。
「なんの用だ。」
「・・・お別れを、言いに来た。」
「・・・・・・・・・・」
振り向かなかった。その言葉が指す意味を、理解していたから。
「言っとくが俺は、興味や同情でお前に手を伸ばしたわけじゃねえ。」
「・・・分かってる。」
「あいつを殺した俺が許せねえか。」
「そうじゃない。」
ファイが、ゆっくりと息を吸って、そして吐き出すのが聞こえた。
「もう、続けてちゃいけないと思うんだ。」
『ファイ』を亡くした苦しみから逃れるように彼を求めて、彼に追われる恐怖から逃れるために黒鋼を求めた。
「初めて手を伸ばしたあの日、オレは君を求めたわけじゃなかった。」
黒鋼だったから求めたわけではない。側にいたから、支えてもらいたかっただけ。
「あの人のときも同じ。伸ばしてもらった手に、縋りついただけ。」
こんな『恋』は、もう終わりにするべきなのだ。
「求めるだけで、与える事を知らない。あの人が求めていた事も、さっきやっと分かった。こんなオレには、このまま君の側に居る権利はないと思う。」

縋りつくように自分を抱きしめていた王が求めていたもの。
自分の側にいてくれようとしたことと同様に、彼も側にいて欲しかったのだ。
それなのに、逃げてしまった。王が愛してくれたのは、『ファイ』ではなく自分だったのに、眠らせた彼を『ファイ』の側に沈めて、自分は逃げてしまった。

「もう叶えてあげる事はできないけど、オレはもう一度・・・今度こそちゃんと、あの人を愛したい。」
偽りの記憶の中で、抱いていたはずの想いを疑っていた。或いはその想いは、真実ではなかったのかもしれない。
けれど、やっと、彼の想いを信じられる。
だから、やっと心から、彼を愛せると思う。
「過去に囚われてるんじゃない。これが、今のオレなんだ・・・。」
彼は、ユゥイと呼んでくれた。
彼の想いに答えることで、やっと自分自身として、生きて行ける気がする。

黒鋼が立ち上がって、ファイの顔を見つめた。その頬は涙で濡れていたけれど、口元には笑みが、瞳には強い光が宿っていた。
手を、伸ばそうとして、黒鋼はやめる。
「お前が歩き出す道の先で、待っててもいいか。」
「・・・・ありがとう。」
ただの終わりじゃない。始めるために、終わるのだ。



黒鋼の部屋を出たファイは、もう池の上には戻らずに、ただ、空を見上げた。
「アシュラ王・・・」
何度も口にしたはずのこの言葉が、今初めて、真実になったように思う。



「貴方を、愛しています。」





                                  BACK