哀韻恋歌




『これは・・・美しく化けたものだ。』
『美しい・・・?』
『ああ、魅入られてしまいそうだ。』
『オレ・・・此処に居ていいですか・・・?』
『そうしたいのなら。そうだ、それなら名前を。この国に無い音が良い。ファイ、というのは?』
『ファイ・・・』


夢か記憶か、過去の人の面影が映る瞼を上げると、今日も黒鋼が部屋の出入り口近くに座って書を開いている。読書など性に合わないくせに。
ファイは切なげに目を細めて、そして静かに瞼を下ろした。

風が吹く。この庭には桜が咲いていても、外は冬に向かって行く。今日は少し肌寒い。と、思う。
本当は良く分からない。其れは人の感覚だ。火に触れても熱いとは思わない生き物が、空気の温度の変化程度で何を感じられよう。温度が低いのは分かる。きっと、これくらいなら、人は寒いのではないかと思う。それだけの事。

不意に、ぱたんという音がして、何事かと思って目を開けると、黒鋼の首がかくんと下がっていた。力が抜けた手から、本が床に落ちている。
「黒むー・・・?」
小さく呼んでみる。いつもなら僅かな衣擦れの音だけでもこちらを振り向くのに、今日は返事が無い。代わりに、規則的な呼吸音が聞こえる。
(寝てる・・・)
そういえば、此処に来てからろくに睡眠もとらずに書を読んでいた。そろそろ限界だろう。
「・・・風邪引くよー・・・?」
口の中で呟く。今日の風は、人には寒いのではないかと思う。
彼は脆くて弱い人間だから。
返事は無い。
しばし躊躇して、結局ファイは声を張り上げた。
「黒むー!」
黒鋼がはっと目を開ける。
「あ・・・わ、悪い・・・」
寝るななんて頼んだ覚えは無いから、居眠りを謝罪される筋合いは無いが。
頼んでも無いのに自分の為に好きでもない書に向かってくれる彼に、休息を勧める筋合いは有るだろうか。
「少し、休みなよ・・・」
「否、いい。もう目は覚めた。」
そんな事を言いながら、きつく目を擦る。瞼が重いのが丸ばれだ。
「嘘吐きー・・・」
その言葉に反応して、黒鋼は動きを止めた。そしてゆっくりとファイを見る。
「・・・・・・本当は・・・」
寝不足の所為で真っ赤な目をした黒鋼は、少し気弱に見えた。
「本当は・・・怖くて眠れねえんだ・・・。目が覚めたら・・・またお前が消えてる気がする・・・。」
今度は伝言すら残さずに。
「・・・君はそんな・・・弱気な事は言わない人だと思ってた・・・」
其れ程苦しめたのかと、少し罪悪感に駆られて、逃れる様に、目を伏せる。
「寝てないからだよ・・・少し・・・休みなよ・・・」
二度目の助言に黒鋼はしばし沈黙して、そして無言のまま立ち上がる。そのまま部屋を出て行くのかと思ったら、ファイが閉じ込められている結界の中に入って来た。そして許可も得ず、ファイの膝に頭を乗せて寝転がる。先客のしゃれこうべは強引だが乱暴ではない手つきでファイの横へ。
「・・・ずうずうしいなー・・・」
「前にもしただろ。あいつが帰る前に起こせ。」
触れていれば、安心だとでも言いたいのだろうか。黒鋼は本当にこのまま寝てしまうつもりらしく、固く目を閉じたまま。
「・・・・・・・・ずるいよー・・・」
こんな風に手の届く場所で、無防備を装って。
人食い妖怪が、飢えに耐えられなくなるのを待っている。
「お願い・・・離れて・・・」
「こうしてないと眠れねえ。」
「お願い・・・他の事なら何でも聞くから・・・オレの側に来ないで・・・」
声が震えた。仕方なく黒鋼は身を起こす。
「じゃあ、寝物語を。」
「・・・・・・どんな・・・?」
「その背中。何があった。」
「・・・・・・・・」
ファイは唇を噛み締めて、床の上からしゃれこうべを抱き上げた。

知らなければいけない気がした。
その為にファイを泣かせても。

ファイは一度胸に抱きしめたしゃれこうべを、体から離してその眼窩を見つめた。見返す瞳は無い。
「一緒に居て良いって・・・言ってくれたんだ・・・」


『これは・・・美しく化けたものだ。』
『美しい・・・?』
『ああ、魅入られてしまいそうだ。』
『オレ・・・此処に居ていいですか・・・?』
『そうしたいのなら。そうだ、それなら名前を。この国に無い音が良い。ファイ、というのは?』
『ファイ・・・』


「オレに名前を付けてくれた・・・。それから、人間の生活も教えて貰った・・・。村を歩ける様に・・・術の使い方も・・。」

人は朝起きて夜眠る事。
食事を取らなければ生きていけない事。
恩を受けたら報いなければならない事。
人を傷付けたり、殺したりしてはいけない事。

「それに・・・人の愛し方・・・」
ぽたりと一滴零れた涙が、しゃれこうべの頬を濡らした。
今までのファイの行動を見ても、しゃれこうべの主に対して特別な感情を抱いていた事は明らかで、今更驚く事でもなかった。けれど、此れまでとは違う、何か負の感情が、胸の奥に燻った様な。あまり経験の無い感覚を覚えた。胸が熱い。そして、痛い。
「殺した理由は・・・?」
「・・・怖かったんだ・・・」
「怖い?」
「オレ・・・子供を殺した・・・。そんなつもりは無かったんだ。ただ一緒に遊んでて・・・捕まえようとしただけ・・・。軽く肩を叩いただけだったのに・・・。」

千切れた腕。
吹き出す血。
他の子供たちの悲鳴。
肩から先を失くした子供が倒れる音。

「何が起きたのか分からなかった。ただ・・・」

赤く染まる光景に、どくり、と体の奥で何かが鳴る。今思えば、空腹の為と思われる寒気を感じる様になったのはその数日前。其れが空腹によるものだとはまだ気付かず、外から与えられる温もりで、誤魔化せていたけれど。
倒れた子供はしばらく苦しげに呻いていたが、やがて其れも止まった。

「傷付けたり殺したりしちゃいけないって教わってたけど、其れがどういう事か良く分からなかったんだ。人間がそんなにも脆い物だって事も知らなかった。其の子が死んだ事も、理解してなかった。きっとすぐ起き上がる。腕もすぐくっ付くって。だから・・・」

子供を助ける事より、惹かれた血の赤に本能的に手を伸ばした。
「ファイ!!」
「・・・?」


「振り向いたらこの人がいた・・・。驚いた顔をしてた・・・。それに、何か・・・怯える様な・・・」

けれど其の理由すらも、ファイには分からない。
そういえば彼は赤が嫌いだったのだと。そんな事だけを考えた。
「なんという事を・・・」
彼はファイを寺に連れ戻した。そして、唐突に別れを切り出す。
「ファイ、やはり私達は・・・一緒には居られない。」
「え・・・?」
「お前は妖怪だ。妖怪と人間が共に生きる事など、最初から不可能だったんだ。」
「そんな・・・どうしてっ・・・ここに居て良いって・・・!オレの事好きだって言ったのに・・・!!」
「すまない・・・」
彼の手が印を結ぶ。彼の唇が、聴き慣れない言葉、なにか呪文の様な物を唱える。
背中に、焼け付くような痛みが走った。
「っあああああああああ!!!」
「せめて私が、お前を殺す。」

「オレを抱いた手で印を結んで、オレの事好きだって言った口で殺すって言った・・・。殺すのは悪い事だって知ってたから、怖いって思った。そしたら頭の中に何か声が響いた気がして・・・」

―――シニタクナイ

「気付いたら痛みは消えてて、床にこの人の首が落ちてた・・・。」

遺ったのは熱を無くして行く壊れた体と、背中に刻まれた術の跡。

「しばらく其のまま呆然としてた・・・。ただ殺され掛けた事が信じられなくて・・・。其れなのにまだ、死の意味は知らなかったんだ・・・。ずっと、この人が目を覚ましたら、今度はどうしたら良いんだろうって考えてた・・・。」

けれど恐れた目覚めは無く、初めて死の意味を知る。

「肉は食べたよ・・・。時間が経ち過ぎて、もう硬くて不味かったけど、空腹が満ちれば自分が飢えてた事が分かった。自分の食料は人だって知った。一緒には、生きられないんだって・・・。」
人の姿をしたって人にはなれない。
気付けば互いを殺し合う。其れが人と妖怪。

「・・・・・・それを・・・手放せない理由は・・・?」
初めて黒鋼は口を開いた。指差す事はしなかったが、指示語だけで伝わる筈だ。過去を語る間、ファイが見つめていたのはしゃれこうべだけ。其の瞳が在った場所を、自分が妖怪である事を懺悔する様に。
「人は・・・ちゃんと供養されて埋めて貰わないと、死後の世界に逝けないって、この人が教えてくれた・・・。だから、供養もせずにオレが抱いてる・・・。」
「また会いたいのか・・・」
「どう・・・なんだろ・・・。また会ったって・・・この人はもう・・・オレを受け入れてはくれないし・・・」
また零れ落ちた涙が、今度は眼窩に吸い込まれた。
「死後の世界は素敵な所なんだって・・・。そんな所に・・・オレを遺して逝くなんて・・・許せないでしょー・・・?」
「・・・・・・」
嘘を吐けと、言い返すことは止めた。そんな事、本人が一番良く分かっている筈だ。
殺されかけた腹癒せを理由に抱き続けられる程、人間の骨は軽くは無い。無論、物理的な意味ではなく。
物理的な軽さも、其の冷たさも、見つめる眼窩の虚しさも、全てが、生者には重過ぎる。
其の存在が其の者の不在を主張する。あまりにも悲し過ぎるから、人は其れを埋めるのだ。
手放せないのは、そうする事で、戻って来てくれるのではないかと、淡い期待に縋っているから。

「さあ、寝物語は此れで御終い。お休み、黒りん。」
「・・・・・・・・・・・。」
ファイが終わりを告げる。今日はもうこれ以上、話をする気はないと。
黒鋼は無言で立ち上がり、元の場所に戻って、書を開いた。





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