哀韻恋歌



「はかどってます?」
「あ?あ・・・ああ。」
不意に横から声を掛けられて、黒鋼は書から顔を上げた。星史郎が二匹の小鬼を従えて立っていた。
「お疲れのようですね。少し、休憩しませんか。」
視線は本に落としてはいたが、さっきから一行も読んでいなかったのを見抜かれたようだ。
黒鋼の隣に星史郎が腰を下ろすと、小鬼が二人の前にお茶とお菓子を置く。
「甘いもんは好かねえ。」
「此の菓子は甘さを控えた上品な味ですよ。それでも嫌なら、彼にあげれば如何です。貴方が差し出す物なら受け取る様ですし。」 
そう言って星史郎が振り返る先には、今日もファイが、少し俯いて、身動ぎ一つせず座っている。
最後に話をしてから二日。ファイの膝の上には、しゃれこうべと新しい桜の枝。最初にやった桜が萎れてしまったていたから、今朝黒鋼が置いておいた。朝餉に部屋を出いている間に、手に取ってくれた様が、言葉は交わしてくれない。
あれから一度も、彼の瞳を見ていない。
「・・・・・おい」
短く声を掛ける。ファイは反応しない。
「・・・ファイ・・・」
祈るように名を呼ぶと、やっと、目が開けられた。困ったような、悲しそうな、暗い瞳をしている。
「調子が良くない様ですね。大丈夫ですか?」
星史郎が結界の中に手を入れると、ファイは其の手をぱしりと弾いた。随分、嫌われているらしい。星史郎は黒鋼に向かって肩を竦めて見せる。代わりに黒鋼が、ファイの前に膝を付いた。ファイは黒鋼の視線から逃れる様に俯く。
「辛いのか。」
「・・・・・・平気・・・」
しかし声に覇気が無い。もう余り時間が無いのだ。二日前の寝物語に気を取られて、目先の目標を見失っている場合ではないかもしれない。
「食えるか」
「・・・・・」
僅かに髪が揺れて、首を振った事が分かる。先日のささやかな酒宴での様に、意地や遠慮でない事は、何かに耐える様に軽く噛み締められた唇から見て取れる。膝の上のしゃれこうべに添えられた指が、小刻みに震えていた。
「寒いのか」
そういえば以前にも一度、寒さを訴えていた事があった。まだ、ファイが人食い妖怪であると、痛みを以って認識していなかった頃。今思えば、妖怪が夜風の冷たさに震えるなんて。
あれも、飢えていたのだろう。
震えを止める方法を、今なら知っている。しかしそれを、ファイが望まない。せめて、少しの熱でも分けてやれればと、結界の中へ手を伸ばす。
「触らないで。」
「・・・・・」
其れすらも、拒否された。
「話しかけないで・・・優しくしないで・・・・・・辛くなる・・・。」
俯いているため表情は見えない。けれどファイの肩が、飢えからの寒さとは別の理由で震えている気がした。
「・・・俺は、お前が妖怪だからって・・・」
「知ってる・・・黒むーは違う・・・だから・・・」
何かを続けようと僅かに口を開いて、思い留まって引き結ぶ。此処に、壁が在る。
どんな言葉を掛ければ其れを壊せるのか分からなくて、黒鋼は上着を脱いでファイの肩に掛けた。ファイの肩がびくりと震える。それ以上の反応を待たずに、立ち上がる。
「場所を変えますか?」
「ああ。」
二人に気を遣ったのか、部屋の外で待っていた星史郎が、小鬼に命じてお茶を何処かへ運ばせる。読みかけの書を拾って、黒鋼も後に続いた。

一人残された部屋の中、黒鋼の背が消えてから、ファイはゆっくりと顔を上げた。彼が消えた光景の中、桜の花が揺れている。
「何で・・・こういう事するのー・・・」
優しくしないでと言ったのに。何も遺さずに逝きたいと。
其れなのに話した言葉の一つ一つが、深く胸に刻まれる。彼に触れられる度に消滅を恐れて涙が零れる。
肩に掛けられた衣を胸に抱きしめる。零れ落ちた涙に濡れて、墨染めの衣は漆黒に染まった。
庭から風が吹き込む。花弁が一枚舞い込んで、結界の前に落ちた。其の脇に、白い式服が現れる。
「大丈夫ですか・・・?」
ファイが見上げると、緑の瞳の少年がいた。


星史郎に連れられて黒鋼が訪れたのは、庭に建てられた東屋。
桜の園を一望する光景に、流石の黒鋼も感嘆する。
お茶はやめて軽く昼間の酒の興じる事にして、しかし共に手には文献。だが芳しい成果は無い。
酒を注ごうと顔を上げて、星史郎が黒鋼を呼ぶ。
「お坊様、」
「何だ。」
「ほら、あれを。」
「あ?」
指された方向に目を向けると、庭の中に一人の少女がいた。着物の袖を揺らしながら、一本の一際大きい桜に駆け寄って、枝を一本手折る。そしてこちらに背を向けて走り去る。
「何だ、ありゃ。」
人ならざるモノだという事は、職業柄感じ取れたが。
「座敷童です。」
返された言葉には流石に驚いた。
「座敷童!?」
「ええ。良いモノ見ましたね。」
座敷童といえば、憑いた家に繁栄をもたらすと言う有名な妖怪だ。
「此の邸に憑いてるのか!?」
「いえ。遊びに来るだけです。何処かに思い人がいるらしくて、此処の桜を時々贈っている様ですよ。特にあの桜は聖花ですから、相手が彼女の同類か、僕らの様な人間なら嬉しいでしょうね。」
「聖花って・・・良いのかよ。勝手に折らせて。」
「花盗人は罪にならない。それに、座敷童が此の庭の桜を気に入ったなんて、光栄だと思いませんか。」
そういう物なのだろうか。此の邸に訪れた翌朝に星史郎の話を聞いてから、此処の桜は、死に掛けの状態で無理やり生かされている哀れな花にしか見えない。
「・・・如何してあいつなんだ。捕らえるなら、座敷童みてえなのの方が良いだろ・・・。」
風に揺れる花に、ファイの姿が重なって見えた。
「死に掛けだからか。」
「別にそういう趣味は無いんですが・・・」
「・・・そうなのか?」
「ええ。ついでに言うと、桜もあまり好きではありません。」
「じゃあ何で・・・」
「・・・・・・・」
星史郎は、桜を見つめて切なげに笑みを浮かべた。


「消えるってもっと簡単な事だと思ってた・・・。オレの存在の痕跡すら何処にも残さずに、消えれると思ってたのに・・・」
「其れはきっと無理です・・・。存在するという事は、そんなに単純なものじゃない・・・。」
「じゃあオレは如何すればいいの・・・。」
「如何したいんですか・・・?」
「・・・・・・生きていたくないんだ・・・。」
黒鋼の衣を握り締める。其処にはまだ黒鋼の温もり。彼は与えてくれるのに、自分は彼に何も与えられない。背負わせるだけだ。痛みと苦しみと悲しみ。そして恐らく、憎しみ。
「何も遺さずに逝きたい・・・。誰にも想われずに、何も想わずに。想いはまたオレを生むから・・・。」
妖怪は、想いから生まれる。自分も確かに、誰かの強い想いから生まれた。
新たな生は望まないから、想われずに、想わずに。
「でも彼は想ってます。彼を此処まで引き寄せたのも或いは、其の想いの強さかもしれません。」
云わば黒鋼こそが、ファイの存在の最大の痕跡。
「何も遺したくないというなら、彼を。」
「其れは出来ない・・・」
被食者と捕食者という、人間と妖怪の本来の在り方からは外れる選択だけれど。
「本来の姿を拒絶する程の想いなら、貴方自身の其の想いも、次への可能性に成り得ます。」
「っ・・・」
「想いは・・・消せません・・・。」


「昔は春にしか咲かなかったんです。一年に一度、こんな風に見事に。其の度に、この庭に来る、桜好きの子がいましてね。」
「今度は何の妖怪だ。」
「いえ、人間です。僕の同業者で、若いのに力の強い子でした。」
「でした・・・か。」
「決して・・・安全な仕事ではありませんから・・・。」
暗に語られたのは、哀しい別れの過去。
「御遺族に頼んで、遺骨を少し分けて頂いて、桜の下に埋めました。季節は冬でしたが、弔いの花は彼が好きだった物をと。」
一年を通して満開の桜は、使者の墓標に捧ぐ花。
「・・・何年前の話だ。」
「さあ・・・。此処はずっと春ですから。」
苦笑した男は今もまだ、亡き人を想い喪に服す。


「星史郎さんは、貴方に自分を重ねてるんです・・・。御免なさい・・・。」
「謝らなくて良いよ・・・。オレは・・・死ねるなら何でも良かったんだ・・・。黒むーが来ちゃったのが・・・計算外だったけど・・・。」
こんなに簡単に、意志が揺らぐなんて。
星史郎に逢った時の事を覚えている。彼は、腕の中のしゃれこうべを指して、『どなたですか?』と問うた。
少しだけ、自分と同じ臭いを感じた。彼にも、忘れられない人が居るのだろうと。
けれど、其の臭いが、自分の中で薄れてしまっている事にも気が付いた。
何時の間に変わってしまったのだろう。
慣れた冷たい骨の感触より、彼に与えられる桜の花や、墨染めの衣の感触を、心地よく想う。
「ねえ・・・この人・・・何処に居るんだろう・・・。」
ファイがしゃれこうべを指すと、少年は部屋の中を見回した。或いはもっと遠方まで、見通していたのかも知れない。しかし目的の気配は見つけられず、少年は眉を顰める。
「触れて良いですか?」
訊かれてファイは、しゃれこうべを結界の外に押し出した。少年は姿勢を正して、しゃれこうべに手を乗せた。
少年が目を閉じる。
風が、吹いた。
とても静かに、少し、哀しく。
切ない祈りを乗せた風は、何処か遠くで、尽き果てる。
「・・・もう、此の世にはいらっしゃらないと思います・・・。」
「やっぱり、そうなんだー・・・」
なんとなく、予想はしていた。
「話をしたいのなら、御魂寄せとか・・・。」
「ううん、いいんだー。確かめたかっただけ・・・ありがとう。」


「・・・・・・一つ、訊いて良いか。」
「何でしょう。」
「そいつの冥福を、祈ってるか・・・?」
「・・・・・・いいえ。」
ファイに似た男は、杯に舞い落ちた花弁を愛おしそうに見つめて、
「願わくば、魂の帰還を。」
祈るように、呟いた。
「・・・魂が、帰って来たらどうする・・・。」
「側に居たい。それ以外に何がありますか。」
「・・・だよな。」
死者を想う気持ちなんて。
腕に抱いた冷たい感触に、彼が望むものも。
「もう、行かれるんですか?」
「ああ。読み終わっちまった。」
酒も丁度切れた所だ。ファイも、落ち着いただろう。
また目ぼしい情報は得られなかった書を持って、黒鋼は席を立つ。
「では、夕餉の席でまたお会いしましょう。」
「ああ。」
ファイの部屋に戻ろうと庭を歩む。風が、向かいから――星史郎の方に、吹いた。桜が揺れて哀しく啼いた。


「オレ・・・何時死ねるのかな・・・。」
「・・・・・・どうしても・・・?」
「・・・黒むーの顔・・・もう見たくない・・・。」
「そう、言えば良いと思います。死ななくても、ちゃんと伝えれば、彼は捜さないでしょう。」
「でも・・・生きてる限りオレは・・・側に居たいって望む・・・。」
相反する想いが渦巻いて、胸が引き裂かれそうで。
「何だよ其れ。わけ分かんねえぞ。」
「っ・・・」
「お坊様・・・」
少年が、軽く会釈する。顔を合わせるのは初めてだったが、誰なのかは知っていた。
「桜の下の陰陽師か。」
「はい。昴流といいます。」
「まだ居たんだな。」
時々、気配は感じていた。主に、星史郎が留守の時に。星史郎が居る間は完全に気配を隠しているから、彼は、此処に居る少年の帰還を望んでいる。
「逝けないのか。」
「・・・弔いの花が散らないから・・・。」
此処はずっと春。星史郎が何時までも死を悼んで時を止めているから、縛られている訳ではないけれど、遺して逝けない。
「じゃあ、会ってやったらどうだ。」
「会ってしまったら。余計に忘れられなくなるでしょう・・・?」
「・・・人それぞれだな。」
黒鋼は、結界の外に出されていたしゃれこうべを拾い上げた。肉体を持たない昴流では、結界の中に此れを戻す事は出来ない。
しかし黒鋼の手で差し出された其れに手を伸ばそうとして、ファイは暫し躊躇う。
「如何した?」
「・・・其の人・・・もう居ないって・・・。」
「・・・ああ。」
「知ってたんだー・・・」
「・・・・・・」
ファイは黒鋼の衣に顔を埋めた。受け取られないしゃれこうべを元の場所に置いて、黒鋼は腰を下ろす。
「供養もされず埋葬もされねえ遺体なんて山程ある。魂を留めるのはそんなに簡単じゃねえ。俺も死んだ事はねえから仕組みは知らねえが、死ぬ瞬間に強い恨みや悲しみを感じた奴が留まるらしい。満足して死んだ奴には、殆ど会わねえな。」
数珠を取り出して手を合わせた。読経は、ファイにも昴流にも効きそうなので止めておく。既に成仏なさっている様なので、必要あるまい。此処に在る骨は、もはやファイにとっても意味を失くした、ただのがらくただ。
「だけどっ・・・オレに殺されたんだよ・・・満足してた筈無い・・・」
「・・・好いてたんだろ・・お前の事。」
「でも・・・殺すって言った・・・」
「辛かった筈だ。」
「でも殺そうとした・・・!」
「だがお前に殺された。・・・こいつにとっては其の方が良かったんじゃねえのか。お前を殺さずに済んで。」
「っ・・・で、でも・・・そんなっ・・・」
「でもじゃねえ。俺は僧侶だ。信じろ。」
黒鋼はしゃれこうべをファイに押し進めた。
「お前が救ったんだ。」
「・・・・・・オ・・・レが・・・?」
ファイは震える指先でしゃれこうべに触れた。そして、おずおずと抱き上げる。
冷たかった温度が、今は少しだけ温かい。
虚しい眼窩が、今は少しだけ優しい。
腕に抱いた軽さが、少しだけ、悲しくなくなった。
けれど――否、だからこそ。
一度だけ強く抱きしめて、再び黒鋼に差し出す。
「何だ。」
「埋めてあげて欲しいんだ・・・。このままじゃ可哀想だから・・・。」
「・・・自分で行かなくて良いのか?」
「黒りん、お坊様でしょー?お願い。黒りんに埋めて欲しい。」
「・・・分かった。」
しゃれこうべを受け取って立ち上がると、黒鋼は昴流を振り返った。
「縛られてるわけじゃねえな。この邸から出られるか?」
「はい。埋葬場所ですね。ご案内します。」
「頼む。」
昴流が外に出る。続こうとする黒鋼を、ファイが呼び止める。
「黒むー、」
「あ?」
「・・・ありがとー」
「・・・ああ。」
久し振りに、ファイの穏やかな笑みを見た気がする。黒鋼からも自然と笑みが零れた。


邸を出る途中、星史郎の目に留まる。
「お出掛けですか?」
「ああ。埋めて来てくれってよ。」
そう言って預かった骨を見せると、星史郎は少し驚いた顔。彼がファイに見出した自分と同じ臭いは、これでもう消えるだろう。
「道案内は?」
「必要ねえ。」
昴流は、前もって姿を隠している。居る事は言わない。其れは、昴流が決める事。
ただ、留守中、ファイのことが心配だ。
「悪いがしばらく、あいつ、見ててやってくれねえか。」
「ええ、構いませんよ。」
誰が見ていたって、其の時が来れば成す術など無いのだが。

そうだ、何を喜んでいたのだろう。ファイが笑顔を見せても、事態は何も好転してはいなかった。
けれど、邸を出て二人になると、昴流は言った。
「凄いですね。」
「あ?」
「あっという間に、救ってしまったから。」
京の通りを西へ向かいながら、昴流が褒めたのは、さっきの黒鋼の話だろう。
「あんなもんは・・・戯言だ。」
「そんな」
「否・・・本当の事なんか何も分からねえ。あいつに殺された時に、魂ごと消し飛んだかも知れねえし、もっと別に想うものがあって、そこに別れを言って成仏したのかも知れねえ。だが・・・人を救う言葉なんてのは、此れで良いと、昔師匠が言っていた・・・。」
「お師匠様・・・ですか。」
「ああ。確かめようも無い壮大な嘘が、人の心を救うんだってよ。」
そう言えば、空汰が死んだのは此の辺りだ。あの時は破壊されていた建物も、今はすっかり建て直されて、いまいち実感が沸かないが。
「確かお名前は・・・空汰様。」
「知ってるのか?」
「何年か前に、狐の妖怪を退治した方ですよね。」
「ああ、そうか。こっちの業界では有名か。」
破魔の刀を携え、命と引き換えに妖怪を倒し、京を、そして此の国を守った僧侶。此の辺りでは伝説的な存在かもしれない。
「素晴らしい方だったんでしょうね。」
「それは・・・どうだろうな・・・。」
彼の色んな面を知ってしまっている弟子としては、断じて謙遜ではなく肯定し難いものがあるが。
「ただ・・・嘘は上手かった。それに・・・」
黒鋼は左手を開いた。掌に残る傷跡。彼が、自分を生かす為に貫いた痕跡。
感謝している。素晴らしい人物だったのかは分からないが、彼の弟子で良かったと思う。
「俺の・・・誇りだ。」
昴流が微笑む。無性に、照れ臭くなった。
「ま、嘘が上手いってのは、人として尊敬に値するかは微妙だがな。」
「お坊様もお上手でしたよ。」
「否、俺はまだまだだ。あいつの・・・あいつの、ほんの一部しか、救えねえ・・・。」
そうだ。いくらがファイが笑ったとは言え、現実を見れば、救った苦しみはほんの一部。ただ、骨を手放しただけ。抱く物が無くなった腕が、黒鋼の為に開かれるわけではない。
死ななければならない理由も、自分を拒む理由も、どんな嘘を吐けば其れを訊き出せるのかさえ分からないから。
しかし、昴流は静かに首を振る。
「いいえ・・・その方の事だけじゃなく・・・凄く、根源的な部分で、救われたと思います。決意は・・・変わらないかもしれないけど・・・。」
「知ってるのか?あいつが・・・」
尋ねようとして、途中で口を噤む。其れは、他人から聞く事ではない。
「否、いい・・・自分で訊く。」
「はい。」
それで良いと微笑んだ昴流の表情は其の時、酷く哀しげに見えた。


けれど此れは本当。
少なくとも一時的には、黒鋼の言葉でファイが、故人の面影よりもっと大きなものから救われた事。
「黒むー・・・」
一人きりの部屋の中で、ファイは黒鋼の衣に口付けた。そこへ。
「骨の代わりに彼の衣ですか。」
「っ・・・」
黒鋼と昴流に代わって、部屋に入ってきたのは星史郎。歩み寄る彼を警戒して、ファイは黒鋼の衣を抱きしめる。
「取ったりしませんよ。彼がまた与えるでしょう。それにしても、貴方があれを手放すとは思わなかった。」
死者を思う苦しみから抜け出す事の難しさは、誰よりも良く知っている。ファイも、そうだと思ったのに。
「じゃあもうオレに用はないでしょう。出て行ってください。」
「出て行けと言われても、ここは僕の邸ですよ。それに、此処に行けと言ったのはお坊様です。留守中、貴方が心配だから、少し見ていてくれと。」
「・・・・・・」
何も言い返せずに、ただ自分を睨みつけるファイに、星史郎は満足して微笑む。
「お望みなら、此処から出して差し上げましょうか?」
膝を折って、結界を張る短刀の一本に触れる。其れを抜けば結界は破れ、ファイを縛る物は無くなる。けれど同時に、ファイを守るものも無くなる。飢え切った今の体はすぐに、消滅するだろう。
「動じませんね。良いんですか?」
「・・・強い負の感情が現世に遺るんだって・・・。今は、彼に出会えた事を・・・とても幸せに思っているから・・・。」
後悔はある。不安もある。けれど拭えない負の感情以上に、幸せなのだ。
黒鋼は、少し悲しむだろうか。でも、彼の気持ちは――。何も、言わずに逝けば、何も打ち明けずに逝けば、負に変わる事はない。そう、信じている。
「このままの気持ちで逝けるなら・・・」
「何も遺らないと?其れは人の話でしょう。」
暖かい感情に浸るファイを、星史郎は馬鹿馬鹿しいと嘲笑う。
「貴方は妖怪。ありとあらゆる想いが、次への可能性になる生き物ですよ。今までの負の感情さえも打ち消すほどの想いですか。次が楽しみですね。」
「っ・・・・・・」
黒鋼の言葉は星史郎に打ち砕かれて束の間の夢に終わった。
「とは言っても、想いが遺ったからといって、必ず妖怪になるわけでもないでしょう。ただ、貴方に次が無かったとしても、あれだけ貴方を想っている彼がどうなるか。」
「え・・・?」
「死者を想う苦しみから抜け出す難しさは、知っているでしょう?」
「・・・・でも・・・黒むーがそんなに・・・オレを想ってるわけ・・・」
「無いと思うなら、試して見ますか?まあ、結果は僕しか見届けられませんが。」
短刀の輪郭をなぞっていた指が、柄を握る。
「や、やめて!!」
声に焦りを滲ませたファイを、星史郎は冷たい目で見据えた。
「・・・死にたくないなら食事をして下さい。このままではもって後数日。僕が何もしなくても貴方は死にますよ。」
柄を握った指が解けて、刃を撫でた。指先に、赤い液体が滲む。見慣れた餌の色に、麻痺しかけていた飢えを自覚して、ファイの喉がごくりと鳴った。
「此の京では、消えて困らない人間なんていくらでもいる。女でも子供でも、お望みの食事を用意しましょう。彼も貴方に生きて欲しいと望んでいる。食事には目を瞑るでしょう。」
「・・・で・・・も・・・それでも・・・オレは・・・」
黒鋼の衣を抱きしめる腕が小刻みに震えた。此の男に、弱みなど見せたくは無いのに。
助けて欲しい。
けれど何処まで行ったのか、黒鋼はまだ戻らない。
「彼は油断し過ぎですね。彼が留守の間に、僕が貴方を殺したらどうするつもりでしょう。同志のつもりででもいるんでしょうか。」
薄い笑みを浮かべて、星史郎は結界の内に踏み込んだ。
「貴方も。」
「え・・・?」
「貴方が隠し続ける罪を、僕が彼に話すとは思わないんですか。」
「・・・・・・まさか・・・知って・・・?」
「名を知ればある程度の過去は覗き見る事が出来る。人ではない貴方の道筋は辿り切れませんでしたが、彼の道筋は。」
「あ・・・・・・」
知られている。確信してファイは瞠目した。その反応に満足げに微笑んで、星史郎はファイの唇に手を伸ばした。指先に滲んだ血を、紅の様に塗りつける。
「ああ、ほらやっぱり、貴方には此の色が良く似合う。」
「や・・・」
血の臭いが鼻腔を擽る。
薄く開いた唇が小さく戦慄いた。

その時、廊下をこちらへ向かう足音が聞こえた。星史郎がファイから体を離して立ち上がる。
「あ・・・」
「お帰りなさい。お坊様。」
「ああ。・・・・・・?」
昴流の姿は無かった。星史郎が居るのを察して、また気配を隠したのだろう。部屋に戻ったのは黒鋼だけで、そしておそらくファイの様子から、何か違和感でも感じたのだろう。
「何かあったのか?」
半ば断定的な疑問の言葉に、ファイはびくりと肩を震わせ、星史郎はにこりと微笑む。
「特には。少し話をしていただけです。」
「話?」
「やめてっ!!」
ファイが弾かれた様に手を伸ばす。しかし其の手は星史郎には届かずに、結界に弾かれ阻まれる。結界全体に、稲妻の様に光が走って、大きな音と共に青白い火花が飛び散った。
「っ・・・!!」
「おいっ!」
黒鋼は駆け寄ってファイの手を掴む。滑らかな肌に傷は無かった。
「傷付けるような結界ではありませんから、大丈夫ですよ。」
大丈夫でないのはむしろ精神面。こんなに、取り乱すファイを見たことが無い。
今までは、はらはらと涙を零すだけだったのに、今は、涙腺が壊れたかの様にぼろぼろと。
「何を言ったんだ。」
ファイを抱き寄せながら、星史郎を睨みつける。しかし其の返事を聞く事はファイが拒んだ。
「やめてっ・・・聞か・・・ないでっ・・・」
「どうして!」
「お願いっ・・・黒むー・・・黒・・・・・うっ・・・」
懇願はやがて嗚咽に変わり、すぐに幼子の様な感情的な鳴き声に変わった。
黒鋼の背に回された腕が、手加減を忘れてしがみ付く。飢えて衰弱しているとは言え、妖怪の力に黒鋼は顔を顰めた。
「っ・・・ああ、分かった。聞かねえ・・・聞かねえから。」
赤子をあやす様にファイの背を撫でながら星史郎を振り返ると、彼はもう部屋を立ち去ろうとしていた。一歩踏み出して、思い出した様に振り向く。
「一つ、可能性が在ります。」
「?」
黒鋼には会話の文脈が分からない。しかし聞く事も出来ない。ただ、其の一言でファイの声が止んだから、良い事ではないと、察する事は出来た。
「彼の、其の刀。」
星史郎の指が指した先を、赤と蒼の瞳が同時に追う。其処には、黒鋼の、破魔刀。
「肉体も想いも、妖怪の全てを消滅させる。其の刀なら、或いは。」
「あ・・・」
「ふざけるな!俺がこいつを斬るわけねえだろ!!」
「彼の気を変える術を持っているんでしょう?望んで、貴方を消すなら彼も。」
「っ・・・」
「お前も聞くな!」
願う様に怒鳴りつける。それでも、顔を上げたファイの瞳は迷いに揺れる。
「黒る・・・」
「言うな!」
「オレ・・・」
「言うな!こんな理由なら聞かねえっ!!」
「君の・・・んっ」
突然強く引き寄せられて、ファイはびくりと目を閉じた、何か乱暴な事をされるのかと思った。けれど、いくらか乱暴にとは言え、触れたのは一箇所だけ。
(唇・・・?)
恐る恐る目を開ける。近すぎてぼやける視界の中で、黒鋼の赤が燃えていた。激しい怒りを悟って、怯えて再び目を閉じる。風が吹き込んで、黒鋼の前髪が瞼を撫でた。
(どうしよう・・・)
泣きそうだ。
言葉を奪う為の手段は、愛を伝える行為に似て、乱暴なのに酷く優しい。
口付けた時とは逆に静かに唇を離すと、黒鋼は不愉快そうな口調で呟いた。
「・・・血の味がする」
「あ・・・あの人が・・・」
「飲んだのか。」
「ううん・・・んっ」
ぐいと、唇を拭われる。けれど、塗られた液体は殆ど乾いていて、無理に擦れば傷が付きそうだとでも思ったのだろう。黒鋼は指を離して、再び顔を寄せた。指より熱い感触が、丁寧に唇をなぞる。

前にも一度こんな事が在った。
あの時は、黒鋼は自分の血の味を知りたがって。
こんなに丁寧な行為ではなかったけれど。
こんなにも、切なくて、涙が止まらなくなる様な。

頬を伝った涙が唇を塗らして、其れも黒鋼に掬われた。
(どうしよう・・・オレ・・・)
死にたい本当の理由を、黒鋼に言えなかった訳を、今になって自覚する。
誘うように薄く唇を開いた。唇をなぞっていた舌が少し動きを止めて、ゆっくりと口腔に侵入する。あまりにも温度の違う其れに、ファイは自分の舌を絡めた。
行為の意味が、変わる。
もしかすると言葉以上に雄弁に、其れは想いを確かめ合う儀式だ。
「ん・・・」
黒鋼の手が後頭部に添えられて、唇がより強く押し付けられる。触れる熱の心地よさに眩暈がした。
(駄・・・目だ・・・)
より深くを求める黒鋼の胸を、ファイはそっと押した。引き剥がせる程の力ではなかったが、拒む動作に黒鋼は体を離した。
赤い瞳が、戸惑った様子でファイを見つめて、ファイは逃れる様に俯いた。
「御免・・・一人にして・・・」
「ファイ・・・」
普段名前なんて滅多に呼ばないくせに、こんな時だけ祈るように口にするから、叶えられない自分が悲しくなる。
「お願い・・・」
「・・・・・・・・」
二人の間を風が横切る。黒鋼は、其れが止むまで待ってから、静かに立ち上がった。衣擦れの音で、黒鋼が遠ざかるのが判る。顔を上げる事は出来ずに、ファイはただ其の音を聞いていた。そして、其れが完全に聞こえなくなって、やっと黒鋼の衣に顔を埋める。
如何すればいいのだろう。こんな所まで来て、やっと気付くなんて。
「・・・昴流君・・・」
風が吹き込む。微かな気配と共に、少年の姿が現れる。ファイが顔を上げれば、彼の瞳も深く沈んでいる事に気付いただろう。
救われたと思ったのに。
ファイを苦しめていた一因を埋めて帰って来るほんの僅かな時間に、ファイはまた泣いていた。
「・・・・・・御免なさい・・・。」
「如何して・・・謝るのー・・・」
咎めようと思ったのではない。聞いて欲しかったのだ。
「オレ・・・嬉しかったんだー。黒むー、初めて会った時、オレが人食い妖怪だって知ってるのに、殺さないって言って・・・でも最初は半信半疑で、試す様な気持ちで、付いて行こうと思った。」
思えばきっと其の時から、彼の言葉はぶっきら棒でも傷付いた心に優しく響いて。
気が付けばもっと長く、ずっと側にと、其の想いに付ける名はまだ知らぬまま。
「確かめるつもりだったのに、必死で人を食べてる事を隠してた・・・。でも黒むーは、其れを知っても、本当にオレのこと殺さなくて・・・隠れて食べてた事知っても、自分の血で生きろって言ってくれて・・・」
あの時、二人での旅の継続を口にして望んだのは彼の方。
深い口付けは、互いの想いを確かめ合う儀式。
好意の自覚。相愛の確信。
喜ばしい筈の想いで、胸が苦しい。
「好き・・・なんだ・・・黒むーのこと・・・」
止まらない涙が黒鋼の衣の色を変えていく。口に出す事が、こんなにも辛い想いだったなんて。
「憎まれたくない・・・嫌われたくない・・・」
彼に憎まれて殺されるなんて耐えられない。でも。
「遺して悲しませるのと・・・どっちが辛いんだろう・・・」
「・・・・・・」

昴流は音も無く、ファイの前に膝を折った。きちんと正座して、俯いたままのファイを見据える。濡れた蒼は見えなかったけれど、頬を伝う涙の奇跡に、眉を顰めた。申し訳ないという想いよりも、同情の念だったかもしれない。ファイは今、自分と同じ道を、歩もうとしている。
「・・・こんな事・・・不謹慎かもしれないけど・・・僕は・・・こんなにも星史郎さんに想って貰える事を・・・嬉しいと・・・思っています・・・。」
悲しませている事は辛い。早く忘れてくれればいいと思う。黒鋼とファイを、必要以上に苦しめている事も解っている。それでも、愛される事は嬉しい。
「忘れて欲しい。早く立ち直って、ちゃんと幸せになって欲しい。でも、本当に忘れられてしまったら、きっと悲しいと思います。・・・・・・僕は間違っていたのかもしれない・・・。」
「え・・・?」
思いもよらなかった言葉にファイが顔を上げると、緑の瞳は迷いに揺れて伏せられた。
つられてファイも視線を落とす。
(あ・・・)
さっきのどさくさの中で誰かが踏んだのだろう。黒鋼がくれた桜の花弁が、一枚を残して散っていた。






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