哀韻恋歌






小狼が居れば良いと思った。活字中毒の彼なら、この文献の山を3日もあれば読破してしまえるのではないだろうか。
(中毒と速度は関係ねえか・・)
熱中し出すと逆に遅いかも。

それはともかく、読書尽くしで二日目。流石に目の疲れを堪え切れずに黒鋼は書を下ろして目頭を押さえた。同時にせなかの筋肉が凝り固まっている事にも気付いて大きく伸びをして、そのまま後ろに倒れる。どうして小狼は一日中こんな辛い姿勢で居られるだろう。ちょっとした苦行だ。一週間も続ければ悟りを開けるかもしれない。
「おい、酒ねえか。」
部屋の隅に小鬼を見つけて声を掛けると、小鬼は小さな鳴き声を残して部屋を走り出ていく。持って来てくれるようだ。
彼らは常に控えているわけではなく、気ままに邸の中を動き回っているらしい。数が多いので探せば何処かに誰かが居るという状態。しかし見た目は皆似た様なものなので、どれが誰だかは判らない。
(まだ昼前か・・・。あいつはまだ戻らねえな・・・。)
星史郎は昼間は昼間で仕事があるという。貴族も歌を詠み管弦の遊びをしているだけではないらしい。昼過ぎには戻って来て、後は夜まで、黒鋼と共に文献を紐解く。彼も彼で大変だとは思うが、少しだけ、休憩させて欲しい。
(あー・・・目が痛え・・)
一度きつく閉じて開くと、視界の中に丁度ファイが収まった。今日も瞳は閉じたまま、俯き加減の姿勢のままで。
「・・・同じ姿勢だと疲れねえか・・・。」
独り言になる事を覚悟で話しかけてみる。案の定、反応はない。そこで御弾きの事を思い出した。懐から取り出した蒼い石は、ファイが見せてくれない瞳の代わり。翳して、ファイに重ねる。
「お前が残したあの衣・・・小僧の家が火事になって・・・その時一緒に燃えちまった・・・。悪い・・・。」
きっと取り返すつもりはなかっただろうから、謝る事ではないかもしれないが。
石を少しずらすと、先日の桜が、ファイの膝の上に在ることに気が付いた。
「なんだ桜・・・拾ったのか・・・」
無性に嬉しかったのに、その言葉にもファイは反応しない。動きといえば、庭から吹き込んだ風が、僅かに髪を揺らしただけ。
とても―――とても、静かだ。
「・・・・・・なあ・・・何を・・・考えてる・・・?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・数を、数えてるんだ」
最も取り留めのない質問に、突然答えが返された。そして二日ぶりにファイの瞳を見る。悪戯を見咎められた子供の様に、黒鋼は咄嗟に石を拳の中に隠す。
「数・・・?」
「うん・・・。ずっと・・・。夜明けに壱から数え始めて・・・日が昇って暮れて夜が更けて・・・次の夜明けを見たらまた壱から・・・。オレの速度で・・・大体五萬で一日が終わる・・・。」
「・・・何の為に・・・?」
「一日の終わりを数えながら・・・明けない夜を待ってる・・・。繰り返される朝に何度絶望しても・・・終わらない昼はきっとないから・・・。」
小鬼が戻って来た。盆に徳利と杯を載せている。
黒鋼は起き上がって盆を受け取り杯に酒を注ぐと、其れを結界の中に差し出した。
ファイが、少し驚いた顔をする。
「飲めよ。こんなもんで腹は膨れねえだろ。」
「・・・いいよ・・・いらない・・・」
「よくねえ。杯は一つだ。お前が飲まねえと、俺も飲めねえ。」
「何それー・・・」
無茶苦茶な論理に眉を顰めて、ファイは仕方なく杯を受け取った。唇を付けて傾けると、喉が僅かに動く。
空になった杯を受け取ると、黒鋼は今度はファイに徳利を渡す。ファイは、杯に酒を注ぎながら、話を続けた。

「本当は、命尽きるまでの時間を逆に読みたいんだけど・・・後いくつで死ねるのか分からないから・・・。でも、参、弐、壱じゃなくて、増え続ける数字が突然途切れる・・・。それが、安らかな死なんじゃないかと思うんだ。」
当てもなく数え続ける事は、いずれ訪れるその瞬間への覚悟。迫り来る死に怯える事もなく、突然の死に絶望する事もなく。
「サクラちゃんと小狼君は、大丈夫だった・・・?」
なぜ今その二人がと考えて、家が燃えた事を口にしたのだと思い出した。
何を以って大丈夫だと言うのだろう。サクラの体も一緒に燃えてしまった。けれど、
「大丈夫だ・・・あいつらは。」
其れでも彼らは、壊れない。
「そう・・・」
ほっと、口元に浮かべる微笑は、純粋に彼らの無事を喜んだのだと思う。
壊れ行く自分達を、嗤ったのではなく。

「衣が燃えたなら良かった・・・。オレは何も遺さずに逝ける・・・。」
「何も・・・?」
そんな筈はない。
「死んでも何かは遺る。物じゃなくても・・・記憶や・・・想いが・・・。」
「其れさえ遺さずに逝きたいんだ・・・。何の未練も執着も遺さずに・・・完全に君の前から消えたい・・・。」
杯の縁すれすれにまで注がれた酒の面に波紋が広がった。
「・・・何で・・・・・・」
どうして分からない。
出会って、共に生きた。ほんの僅かな時間でも。
「もう消えない・・・」
遺されるのは、物でも想いでもなく、自分だ。

ファイは、哀れむような目で黒鋼を見た。
「だから・・・出逢ってしまった事を・・・後悔しているんだ・・・」
「答えになってねえよ・・・」
「・・・・・・飲んでよ・・・次が注げない・・・」
「・・・・・・・」
ファイに促されて、なみなみと酒が注がれた杯を引き寄せる。気を付けたのに一滴零れてしまって、ファイが小さく笑った。
「あーあ・・・黒むーが五月蝿いから・・・幾つまで数えたのか忘れちゃった・・・」
「じゃあ今日はもう止めとけ・・・。」
杯いっぱいの酒を、黒鋼は一口で飲み干した。
「それで・・・今日数えられなかった分・・・一日長く生きろ。」
上質な甘い匂いの酒が少し苦いのは、ファイが落とした涙の所為だ。
手を伸ばしてファイの頬に触れた。拒まれない事を確かめて、抱き寄せる。
「死にたくねえんじゃねえのか。」
肩の上で、ファイの髪が僅かに揺れた。
「じゃあ何で泣くんだ・・・」
「・・・・・・・」
「・・・死ななきゃならねえ理由くらい話せよ・・・。」
「もう・・・言ったでしょー・・・」

『オレ妖怪だから。』

「答えになってねえんだよ・・・」
「・・・ごめんね・・・・・・」
小さく呟いて、ファイがゆっくり、体を離した。頬の濡れた後は消せないけれど、新たな雫は零れない。
へらっと力なく浮かべた笑いは、絶対的な拒絶。それ以上の追求を、許さない。
「ほら、注いであげるー。杯出して?」
「・・・・」
見えないけれど確実に其処にある分厚い隔たりが悲しい。けれど、どうすれば其れを壊せるのか分からなくて、黒鋼は言われるままに杯を差し出すしかない。透明な液体が徳利の口から注がれる。庭からの風に乗って、桜の花弁が一片、酒の面に舞い降りた。歌人ならばすかさず一種詠むであろうその雅な光景にも、心が躍らない。

「あ、黒むー、本が・・・」
「あ?」
振り向くと、先程読みかけのまま開いて置いた本が、風でぱらぱらと捲れていた。杯を置いて立ち上がる。その間にももう一頁。
「っ・・・・・・!」
新しく開かれた頁を見て、ファイが目を見開く。徳利がするりと手から滑り落ちて、黒鋼が置いた杯を倒した。陶器がぶつかり合う音と、液体が零れる音。そして広がる、酒の匂い。
けれど、振り返れなかった。黒鋼も開かれた頁を凝視したまま。
其処に描かれていたのは、以前ファイの背に見た、鳥に似た紋様。小狼の家で、何冊もの書の中に探した。其れがファイの手がかりだと信じて。
其れがどうしてこんな書に。妖怪の事ではなく、呪術を記した物に。
「退魔の法・・・?」
拾い上げて目を走らせると、すぐに其れが妖怪を殺す為の術だと知れた。
これが背に在るという事は、誰かに、殺されかけたという事。
「お前・・・」
「・・・オレ・・・妖怪だから・・・」
ファイは、誰かのしゃれこうべを、強く、強く抱きしめた。
苦しげに歪んだ表情の理由を、黒鋼は知らない。
「人の姿をしたって人にはなれない・・・。気付いて人は・・・オレを殺すっ・・・」
憤怒か後悔か、悲哀か懺悔か。悲痛な叫びに込められた感情さえ掴めないから。
何かが繋がりそうな気がしたけれど、其れもきっと錯覚。

小狼が、居れば良いと思った。
もう一度、教えて欲しい。
共に生きていけると。
人と、妖怪でも。



村人に教えられてやっと探し当てた村外れのその小屋は、燃えてしまった自分の家に似ていた。
小狼は、大きく一つ深呼吸してから、戸を叩いた。
「はーい」
中から出て来たのは、小さな男の子。
「何か御用ですか?」
「あ、えっと・・・絵師の長庵様のお宅だと伺って来たのですが・・・」
「絵のご依頼ですか?」
長庵に家族は居ないと聞いた。すると彼は弟子か何かだろうか。頷いた小狼に、申し訳なさそうに眉を顰める。
「申し訳ありませんが、長庵様は絵の依頼は受け付けておりません。絵は筆の向くままに、自由に描く物だと。」
「はい、村で伺いました。でも其処を何とか・・・どうしても、描いて頂きたいんです。お願いします。」
「そう言われましても・・・」

「サンユン」
小屋の奥から、しわがれた声が聞こえた。
「良い。入って頂きなさい。」
「え、良いんですか?」
「何か、理由がありそうじゃ。」
サンユンと呼ばれた男の子は、その声に従って小狼を中へ通した。大きさは小狼の家と然程変わらない小屋の中は、物があまり無い所為で数倍の広さに感じる。やはり床も壁も見えない程に本を積み上げるのは止めた方が良いだろうか。
長庵は、小屋の一番奥に座していた。長く伸びた眉と髭で、顔の半分が隠れた老人。サンユンに勧められて、小狼はその前に座る。
「さて、客人。名前を伺おうかの。」
「小狼といいます。描いて頂きたい絵があって伺いました。」
「ふむ。」
長庵は髭を撫でて、器用に片方の眉を上げた。小さな目が、小狼を見据える。
「・・・良い瞳じゃ。強い想いに満ちておる。小狼、と申したな。」
「はい。」
「老い先短い身に何故か一日はとても永い。良ければ、詳しく聞かせて貰えるかの?」
「はいっ!」

小狼は話した。書の中の絵の少女に焦がれた事。そしてサクラと出遭った事。
彼女と過ごした時間がどれ程暖かかったか。
彼女の笑顔がどれ程優しかったか。
彼女の存在がどれ程心地好かったか。
しかし其れを失ってしまった経緯と、もう一度逢いたいという強い想い。

「お願いします。あの絵と、同じ絵を、描いて頂けないでしょうか。」
「成る程のう・・・」
長庵はサンユンに墨を用意するよう命じた。
「描いて頂けるんですか!?」
「いやいや・・・出来れば描いてやりたいが・・・」
そう良いながら長庵は手近な棚から紙を取った。
「形在る物は、必ずその形を失うものじゃ。お主がそうならぬ事を願っても、其処は人智の及ばぬ範囲というものでな。もう一枚、わしが描いたとして、もしもまた其れを失ってしまったら、今度はどうするつもりかの?」
「どう・・・と言いますと・・・」
「わしもそう長くない。次は無いぞ?と言う意味じゃ。ほれ。」
「え・・・」
長庵は、手に取った紙をそのまま小狼に手渡した。
「自分で描いてみなされ。絵の心得が無ければ僅かながらの手解きは出来よう。」
「で・・・でも・・・!」
「そのサクラという少女、確かにわしの絵から生まれたかもしれんが、生み出したのは、お主の想いじゃろう。土台がわしの絵である必要は無かろうて。むしろお主自身で描いた方が、彼女も喜ぶと想うがの。」
「そう・・・でしょうか・・・」
「とりあえず試しに、描いてみなされ。」
小狼は、差し出された紙を受け取った。サンユンが小狼の傍らに硯を置き、小狼に筆を手渡した。

筆の先に墨をつけて、ふと思う。
黒鋼は、無事に出遭えたのだろうか。自分がサクラを想う様に、離れてはいられない大切な人。その想いを、本人が何処まで自覚しているかは知れないけれど。
『大丈夫』
サクラの、声が聞こえた気がした。
(うん、大丈夫だ・・・きっと、あの人なら。)
あんなに、強く想っているのだから。
(だから、おれ達も・・・)

もう一度出逢おう。

小狼は白い紙の上に、静かに筆を下ろした。





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