哀韻恋歌



黒鋼はファイに血を与えることを選んだ。其の時は確かに、ファイは嬉しいと思ったのだ。まだ旅の供として側に居させてくれること。食事の度に黒鋼を傷付ける事への罪悪感は拭えないが、彼の強力な血は、少量で飢えを満たす。何時限界が来るか、何時気付かれるかと、怯える必要はもうないのだ。
浅はかだったと気付くのは数週間後。
どうして人はこうも、脆くて弱い生き物なのだろう。
「はっ・・・・はっ・・・・・」
「黒みゅー・・・」
岩壁に手を付いて立ち止まった黒鋼の体を、ファイが心配そうに支える。呼吸が荒い。顔色も悪い。けれど体温だけが、左手を中心に異常に高い。
当然と言えば当然だろう。ファイには理解出来ない現象だったが。
同じ箇所を何度も裂いては、大して清潔でもない布で縛って旅を続けた。途中、世話になった村で薬草などを分けて貰える事はあったが、傷口が塞がりきる前にまた刃を当てる。
どうして此の程度の傷が治るのに何日も掛かるのかと、最初の内は呑気に訊いていられたファイも、流石に危機感を覚え始めた。

人は脆くて弱くて簡単に死ぬ生き物だ。自分達は違い過ぎる。
(やっぱり・・・オレ達は・・・)
『ファイ、やはり・・・私達は・・・・・・』
『一緒には居られない。』

きゅうっと、黒鋼の衣を掴む手に力が入った。其れに気付いて、黒鋼が手を重ねる。其の手に巻かれた血で汚れた布は、本来の感触を失ってごわごわと硬くなっていた。
「今日は此の辺で休む・・・。寝床になるような場所・・・探して来てくれねえか・・・。」
「あ・・うん・・・」
まだ、日暮れには少し間があったが、どの道、今日中に人里に降りるのは無理だろう。それに、黒鋼がもう限界だ。二人は少し先に洞穴を見つけて、其処に宿を取った。

前の村で分けて貰った食料で軽い夕飯を取って、黒鋼は岩壁に凭れて、早々に眠りの体勢をとった。呼吸が、やはり苦しそうだ。
「横になれば良いのに・・・」
「こんな場所で横になったら、逆に落ち付かねえ・・」
普段なら此の体勢になれば返事は無い。寝苦しいのだろうか。
ファイはそっと右手で黒鋼の頬に触れた。黒鋼がうっすらと目を見開く。
「冷てえな・・・飢えてるのか・・・?」
「まだ平気だよー。黒むーが熱いんでしょー?」
「そうか・・・」
確かに、限界ぎりぎりのあの凶悪な冷たさではない。食後数時間だけ続く、人肌のような温かさでもないが。
「気持ち良いな・・・反対側も・・・」
「ん・・・」
左手も伸ばして、両手で黒鋼の頬を包む。ついでに、熱を測る時のように額と額もくっつけた。それでも、もっとと、うわ言の様に呟いた黒鋼の吐息は、唇に掛かるととても熱くて、此れだけでは全く足りない様な気がして。
少し考えた後、ファイは一度手を離して、黒鋼の胸元を大きく開いた。そして自身も、両袖から腕を抜く。
「・・・?おい・・・?」
洞穴の暗闇の中に浮かび上がる磁器のような白い肌に黒鋼は眉を顰めるが、ファイは構わず素肌の上半身を黒鋼の胸に摺り寄せた。衣の中を、冷たい腕が背に回る。最初は少しぞくりとしたが、慣れてしまえば其の冷たさは熱い体に心地良かった。触れ続けても熱の移らない体。氷代わりには持って来いだ。更なる心地よさを求めて黒鋼もファイの背に腕を回し、肩に顔を埋めて肩頬をファイの首筋に押し当てた。そのまま目を閉じて、しばらくの間、傍から見れば情事の最中と思われても仕方のない体勢でファイの体温を味わっていると、ふとファイが口を開いた。
「不思議だね・・・黒たんの中から音が聞こえる。」
「音?」
「とくん、とくんって・・・」
「心臓か。」
隔てる物は互いの素肌だけ。密着した胸に、互いの鼓動を感じるのは容易い、筈なのに。
(こいつ・・・)
感じられると思った拍動は、ファイの胸からは感じられなかった。無いのかもしれない。不思議だと言うくらいなのだから。こんな事でも、違いを実感させられる。抱き合う二つの体に響く、一つだけの鼓動。此の音は、こんなにも切ないものだっただろうか。
目を開くと、ファイの背中が見下ろせた。
(ん・・・?)
其処に、初めて見つける奇妙な紋様。
(鳥・・・か・・・?)
背中一面に、浮かび上がる其れを、黒鋼は何の気なしに指でなぞった。途端、
「っ・・・・・!!」
がばっと、ファイの体が離れる。表情には怯えにも似た驚愕の色。
「あ・・・悪い・・・。」
触ると拙いものだったのだろうか。彼らは此方が思いも寄らない場所が弱点だったりするから、其の類なのだろうか。
「あ・・・何、でもない・・・ごめんね・・・」
動揺を隠せないまま、ファイは黒鋼から目を逸らして、背中を隠すように着物に袖を通した。
こちらに非が有った様なので、もう一度と望むことは憚られて、黒鋼も適当に着物を直した。
と、其の時。
「もし、」
不意に耳に届いた第三者の声に二人が振り返ると、何時から其処に居たのか、木こり風の身形の小柄な男が、洞穴の外に立っていた。
 
「旅のお方と御見受け致しますが、今夜は此処にお泊りですか?」
「・・・其のつもりですけど。」
木こりにしてはやけに丁寧な言葉遣いだ。不信感を露わにしてファイが答えると、男は気を悪くした様子も無く人の良さそうな笑みを浮かべた。
「此の辺りは夜になると急激に冷え込みます。其方の方は具合が良くないご様子。夜の冷気は毒となりましょう。宜しければ我が主の屋敷へ御招き致したく存じますが。」
世を果敢無んだ貴族でも近くに住んでいるのだろうか。高貴な人間に仕える者なら、此の言葉遣いも納得出来る。しかし、
「お心遣いには感謝しますが、此処で結構です。」
「・・・?」
機嫌でも悪いのだろうか。ファイは折角の申し出を断っただけでなく、其の声にもいつもの柔らかさが感じられない。こんなにも、刺々しい物言いをする彼は始めて見る。それどころか、放っておけば喰らい付きそうな殺気まで感じる気がする。
「どう、し・・・」
手を伸ばそうとして。
「黒むー!!?」
しくじった。

どさりと、重量の有る物が倒れた音がする。自分だと気付くまでしばし掛かった。
ファイの体温が頬に触れる。取り乱した声が何度も名前を呼ぶ。
(くそっ・・・)
返事をしようと口を開いても、漏れるのは荒い呼気だけで。左手が、燃えそうな程に熱い。
「此れはいけない。すぐに屋敷へ。薬もご用意致しましょう。」
「・・・・・・・」
ファイはしばらく無言で男を睨みつけて、しかし観念した様子で黒鋼の体を助け起こした。

男に案内され、ファイの肩を借りて、歩くこと約十分。熱で思うように動かない体を引き摺っての事だ。時間程には大した距離ではなかっただろう。山の木々の間に唐突に現れた大きな門。其れをくぐると、立派な御殿が建っていた。
二人は入り口から程近い客間に通された。其処には既に布団が用意されていて、ファイはそっと黒鋼の体を横たえた。そして、黒鋼の頭を膝の上に乗せる。
「・・・枕が在るだろ・・」
「オレの膝の方が柔らかいよー。」
ファイがくだらない事をしたがるのはいつもの事だが、今日ばかりは言い返す気力も無く、黒鋼は諦めて目を閉じた。冷たい両手が頬を包んでくれる。
「そういや・・・薬は・・・」
「後で持って来てくれるって。ちゃんと塗ってあげるから、寝てていいよ。」
先刻、男に向けられたものとは違う優しい声音に少しほっとして、黒鋼は促されるままに眠りに落ちた。 
 
 
それからどれ程経っただろうか。何か聞こえたような気がして目が覚めた。
頭の下からファイの膝は消えていて、代わりにいつも彼が薄色の着物の上に着ている薄衣が置かれていた。
(朝餉でも食いに行ったか・・・?)
衣を手にして体を起こす。左手は相変わらずだったが、少し眠ったからだろう、昨夜の事を思えば、体は少し軽かった。
朝だと思ったのは辺りがぼんやりと白んでいたからだ。しかし、寝起きの頭がはっきりして来ると、おかしいことに気が付いた。辺りは白い。しかし、其処は山の屋敷の客室である筈。
「雪・・・だと・・・・・・?」
其処は街道だった。地面にはうっすらと雪が積もり、灰色の空からもちらちらと。時々木枯らしも吹く中で、さっき聞いたと思った声を、また耳にする。
(泣き声だ・・・)
黒鋼は声の元へ目を向けた。
道端に佇む地蔵の隣に、子供が居た。
(あれは・・・)
そしてやっと気が付いた。此れは幻覚だ。
(化かされたか・・・。それにしても、手の込んだ幻術だな・・・)
黒鋼は子供に近付いた。向こうには此方は見えていないらしく、子供は俯いたまま泣き止もうとしない。
しかし、確かめずとも分かる。
季節のわりに薄い衣。
一目で栄養不足だと分かる細い手足。

これは、自分だ。
(人の記憶を読み取って再現するのか・・・。悟りの類か・・・狐でも立派な奴ならやるかもな・・・)
化かして楽しむだけの愉快犯ではあるまい。幻覚に心奪われている間に襲い掛かる気だろうか。向こうの誤算は、此方が妖怪退治の専門家だったことだろうが――
(刀・・・ちくしょう・・・)
幻影に惑わされて愛刀の姿は見当たらない。体調が万全なら探し出すことも出来ただろうが。
ファイは恐らく見抜いていたのだろう。だからあんなに。膝枕なんてしたがったのは、用意されていた枕が丸太か何かだったからだろうか。
ふと黒鋼は手にしたファイの薄衣に視線を落とした。ファイが。あの強力な妖怪がいつも身に着けているものだ。何かしら力が宿っているかもしれない。羽織っていれば少しは、身を護る助けになるだろうか。
今は他に、此の幻覚の続きを見守る事しか、出来ることがない。

子供は、泣き続けている。素足に草履を履いただけの足は、霜焼けで真っ赤になっていた。
もう3日、此処でこうしている。
よく凍死しなかったものだと、今になっても思う。
(そう・・・ここで・・・)
『よう。どないした、坊主』
「・・・・・・坊主はお前だろう。」
幻覚の中、姿を現した懐かしい面影に、黒鋼は届かないことは承知で、懐かしい呼び名を口にした。
「師匠・・・」

彼を想うと今も、左手の傷跡が痛む。今日は、想う前から痛んでいたが。

『坊主、お母さんはどうした?』
墨染めの僧衣に身を包んだ、まだ年若い僧は、少年の前にしゃがみ込んだ。少年は街道の先を指差して首を振る。母親は、自分を残し立ち去った。此の先の市で買い物をする。すぐに戻るから絶対に此処を動いてはいけないと言い残して。
家は貧しく、明日の食事にも困っていた。母がそうした理由も、自分が選ばれた理由も、幼いながらも理解していた。昔から、人が見えないものを見、人が聞こえない音を聞いた。異界を見つめる少年は、家族の中でも気味悪がられていて。捨てるなら自分を、と言う母の選択は、正しいとさえ思っていた。
それでも信じていたかった。すぐに帰ってくるからね、と。母が初めてくれた優しい言葉を。優しい言葉だったからこそ、其れが嘘だと知っていても。
『・・・向こうの市は、昨日盗賊に襲われてな・・・。お母さんも若しかしたら、あっちで怪我しとるんかもしれん。捜しに行って見るか?』
『・・・・・・いい・・・。』
知っている。向こうには市など無いのだと。それに、母が立ち去ったのは3日前。僧侶は知らないのだ。昨日ではない。
それでも、信じていたかった。確かめることで、彼女の嘘を、砕く勇気はなかった。
 
『坊主、名前は何ていうんや?』
『・・・黒鋼。』
『黒鋼か。強そうな名前や。わいは空汰や。よろしくな。』
空汰は破魔の刀を振るう特殊な僧で、人目で黒鋼の力を見抜いていた。
『坊主、わいと一緒に行かへんか?其の力、世の為人の為に活用できるように、使い方を教えたる。』
『此の・・・力を・・・?』
『そうや。そんで、妖怪退治専門のお坊さんになるんや。』
差し出された手をおずおずと握り締める。久しぶりに触れた人肌は、涙が出るほど温かかった。

けれど、本当はどうだったのだろう。立ち去る二人を見送りながら、黒鋼は街道の反対側、母が消えた方角を見つめた。
若しかすると本当に、盗賊に襲われた市が在って、其処に傷ついた母が居たら。
「そっちには行けないよ・・・」
不意に、腕を掴まれた。驚いて振り返るとファイが居た。
「起きて大丈夫・・・?」
「ああ・・・。何処行ってたんだ・・。」
「薬の催促。戻ってきたらきっちり化かされてるんだもん。体調悪いからって油断しすぎじゃないー?」
「・・・・・・悪い。」
「出よう?術はオレが破るよ。」
「・・・・いや・・・・・もう、少し・・・」
「黒みゅー・・・・?」
街道の先へ、彼の言葉の真偽を確かめに行くことは出来ない。此れはあくまでも自分の記憶。其処は記憶にない場所だ。けれど、見ていた時間なら、記憶が曖昧な場所でも、記憶の奥底を探り、限りなく現実に近く、復元されるはず。

場面が変わった。

大きな屋敷から、二人が出て来たところだ。
『なあ、師匠』
『お?なんや坊主。』
『ぼ・・・坊主って言うな!それはてめえもだろうが!』
『師匠に向かっててめえとは何や!此の場合の坊主は餓鬼んちょいう意味や!』
『其れくらい分かるに決まってるだろ、このくそ坊主!!』
『なんやと!?ほんま昔は聞き分けもあって可愛かったのに、何処で育て方を間違えたんやろなあ・・・。』

「黒むーって昔っから・・・」
「・・・・・。」

『で、なんや?』
『さっきの屋敷で・・・こないだと言ってること違わなかったか?』
『何の話や?』
黒鋼はとぼけやがってと言いたげに眉間に皺を刻んだ。
『前は、信仰の心だけで極楽へ行けるって言ってただろ。其れなのに今日は、お布施は多ければ多いほどって。』
『お蔭で今日は宿に泊まって温かい夕飯に在り付けるで。御貴族様様やな。』
『坊主が嘘吐いて良いのかよ・・・。』
『まだまだ若いなー、坊主。』
『だから坊主って・・・』
『あのな、前の人らは、今日自分が喰うもんにも困っとる一般庶民の皆様やろ。そんな人らにやで?一銭でも多く払ったもんが極楽へ行けるなんか言うたら、皆さん絶望して身投げしてまうやろ。今日のお方は、財産なら捨てるほど持っとった。』
『だったら嘘吐いて良いのかよ。』
『坊主、そもそも極楽なんか在ると思っとるんか?誰が見て来てん?死の恐怖から逃れるために、誰かが考え出した壮大な作り話に過ぎんやろ。』
『なっ・・・』
『でも死後の世界がそんなに素晴らしいんやったら、皆率先して死後の世界に逝ってまうから、地獄ゆうもんが考えられたんやないか。』
『じゃあ嘘なのか・・・!!?』
『嘘とちゃう、夢や!夢を騙って人の心を救う、其れがお坊さんや!』
『要するに嘘じゃねえかよ・・・。』
弟子の言葉に空汰は固いなーと苦笑する。そして、黒鋼の頭に手を置いて、少し厳かな雰囲気を醸し出してこう言った。
『人を救う言葉なんてのはな、此れでええんや。』
『は?』
『確かめ様もない壮大な嘘が、人の心を救うんや。』

「・・・・・面白いお師匠様だねー。」
「・・・・・・・・・・まあな・・・。」
僧侶としてはともかく、人間としては、一応尊敬はしていた。
在りし日の自分と師の姿を見つめる黒鋼の顔を、ファイが覗き込んだ。
心配そうな顔は、黒鋼の体調を気遣っての事だろう。また少し、呼吸が荒い。
「まだ、此処にいるの?」
先刻からずっと、ファイが周りを警戒してくれている事には気付いている。何時襲いかかられても、反撃できるように。でも。
「・・・悪い・・・此処じゃねえんだ・・・・」
「見たい、時間がある・・・?」
「・・・・・・・・・ああ。」

それでももう一度、見たい時間がある。知りたい事がある。

人は皆、誰かの想いを背負って生まれ、誰かに想いを託して死ぬ。託しきれなかった想いが物に宿り変化と化す事はあれど、本来は人から人へと受け継がれるもの。
誰もが、誰かの想いを背負って生きている。
しかし、思い出せないのだ。あの日、彼はどんな想いを、自分に託したのだろうか。或いは何も託さずに、全てに満足して逝ったのだろうか。
自分が犯した最大の不孝の記憶。恐怖に耳を塞がれて、聞こえなかった想い。
彼からたくさんの物を貰ったのに、たった一つだけ、けれど一番大切なものを、受け取ることが出来なかった。
『黒鋼・・・・・・』
見なければならない。あの時間を。
 
「強く、其の時間を想えばいいよ。読み取りやすくなるから。君が幻覚に心奪われる間は、オレが君を、護ってあげる。」
「・・・・・・・・」
黒鋼は一度目を閉じて、其の時を強く強く想った。
物が、焼ける臭いを嗅いだ気がして目を開ける。其処は、願った通りの場所。
「・・・・・どこ・・・?」
「京だ。」
建物は崩れ、所々から煙が上がっている。そして崩れた建物の上に、巨大な、狐の姿。
「九尾・・・」
ぎりと、傷付いている事も忘れて左手を強く握り締めて、鋭い痛みに顔が歪んだ。
ファイがそっと黒鋼の袖口を掴んだ。宥めているのか。それとも、ファイほどの妖怪でもあれの妖気に怯えているのか。
大丈夫だと、其の手を握った。
そして狐が見つめる先に視線を向ける。
空汰が、刀を構えて立っていた。
 
敵は数ある妖狐の中で、最も高位で最も凶悪とされる、九本の尾を持つ狐。
大陸でいくつかの都を焼いた後、海を渡って来たらしい。京は、あっという間に火に包まれた。
『師匠!』
先程よりかなり成長した黒鋼が、空汰に駆け寄った。
『おう、皆さん無事に避難したか?』
『ああ。生きてる奴は全員川の方へ、っ・・・!』
そこで黒鋼は空汰の足元の血溜まりに気付いて息を呑んだ。墨染めの衣は所々破れてはいたが、其の色故に出血は分かりにくい。
『血がっ・・・!』
『大丈夫や、まだいける。』
『そんな怪我で何言ってんだ!此処は一度退いて・・・』
ぐいと腕を掴むと、何処か痛んだのだろう。空汰は顔を顰めて地に膝をつく。ぱしゃりと、血が音を立てた。
『師匠!』
『無駄だ・・・』
不意に耳に届いた、腹に響く低い声に、黒鋼ははっと顔を上げた。九尾の狐が、にたりと笑っていた。
『そやつはもう動けまい。後は私に食われるだけ・・・』
『っ・・・』
足が震えた。師の死を予感しての事ではない。対峙した敵の強大な力と威圧感に、押し潰されそうで。
敵わない。
其れは予感よりも確信の形で、黒鋼の足を竦ませた。
『・・・情けないなあ・・・。びびったら負けやで、坊主・・・』
そう言って空汰は、激痛を堪えながらも、余裕を滲ませて笑う。そして、狐を見上げた。
『九尾、わいよりこいつの方がよっぽど強い力を持っとる。血肉もさぞかし美味いやろ。』
『ほう・・・』
『は・・・?何・・・言って・・・』
『わいが態勢を建て直す間、こいつと鬼ごっこでもどうや?』
『師匠っ!?』
足が竦んで動けないのに。否それ以前に、風より速く宙を駆けるこんな妖怪相手に、人間の足で逃げ切れる筈がない。否、元々逃げ切ることを目的とはしていないのだろうか。命を懸けた、ただの時間稼ぎ。
『そんな事・・・』
足の震えが酷くなる。しかし空汰は言う。
『ええか。人には何があっても退いたらあかん時が在るんや。』
『そん・・』
まだ何か言い募ろうとする黒鋼の左手を、急に空汰が引いた。そして地面に押し付けて、刀で、貫く。
『っ、うあああああ!!!』
腕に走った衝撃に息を呑んで、直後、激痛に悲鳴を上げる。貫通した刀が引き抜かれると、噴き出した鮮血が頬を濡らした。
『師・・・』
『走るんや!血の臭いに誘われて、何処までも追いかけられるで!!行けっ!!』
『っ・・・・・』
ばっと、身を翻す。まさか本気ではないだろうと、命を懸けた修羅場を何度彼と共に経験しても、今回ほど、其の言葉を信じられなかった事はなかったのに。嘘だろうと問うた眼差しに、此の左手の痛みが答えだ。
黒鋼は後ろを振り返る事もせず、ただ只管に駆けた。

狐は黒鋼の背を見据えて、一歩足を踏み出した。しかし空汰が刀の切っ先を向ける。
『おっと、鬼さんは五十程数えてから行ってもらおか。』
『・・・ふん・・・』
馬鹿馬鹿しいとでも言うかのように、狐は鼻を鳴らして地に落ちていた黒鋼の血を舐めた。そして気に入ったのか、目を細めて口角を上げる。
『逃がしたつもりだろうが、そうはいかぬわ。お前を喰らい、すぐに奴も捉えてやろう。』
『わいみたいなかっこええ坊さんを亡くすのは仏教界の損失やが、あいつもそこそこやさかい、まあええわ。びびりなんが気に掛かるとこやけど、教え残した事はもうない。これから経験をつんでいけば、わいより強うなる筈や。』
全ては彼を生かす為に。
鋭い痛みは恐怖を切り裂く。竦んだ足を動かすには、あれが一番得策だ。
『覚悟せえや、九尾。命懸けの人間の力、思い知らせたる。』
これから放つのは近くに居る者全てを焼き尽くす程の、命を燃やした最期の術。
抜き身の破魔刀が青白く光った。
『くだらぬ。其の刀ごと、喰い千切ってくれるわ。』
九尾が大きく口を開けた。
刃を包むようだった光が、増して辺りの空間全体へ広がる。
強すぎる光で、空汰と狐の姿が視界から消える。そして、爆発音に似た大きな音が

 

――ザシュッ・・・

「っ!!」
突然だった。記憶にない音が耳に響き、幻が切り裂かれた。
(何だ・・?)
幻覚が消えると、其処は夜の闇に包まれた山の中。木の葉が風に踊る。
少しずつ、現実の感覚を取り戻す中で、握り締めていた事を忘れていたファイの手が小さく震えている事に気が付いた。
「おい・・・?」
声を掛けると、彼はびくりと肩を震わせて、ばっと黒鋼の手を振り払う。
「あ・・・ご・・・ごめん・・・」
「・・・どうしたんだ?」
怯えたような眼差しを訝しめば、ファイは黒鋼の瞳から逃れる様に俯いた。
ファイが怯えるほどの映像だっただろうか。血も、人の死も、見慣れている筈だ。少し黒鋼の過去を覗く間に、師に情が沸いたか。それとも、初めて見る、破魔刀の真の光に、怯えを感じたか。
「幻は・・・」
「消し・・ちゃった・・・・・ごめん・・・」
やはりファイが。術の主に攻撃を受けそうになったのだろうか。此の様子なら、ただ映像に怯えて思わず、という事もありそうだが。考えてみれば、妖怪を滅するあの光は、たとえ過去の映像でも、妖怪であるファイには恐ろしいものだったはず。害は無いと理解はしていても、悪夢に呑まれた幼子が思わず手を伸ばす様に、酷く現実味を帯びた幻覚は、とっさの防衛行動に値する。
見せなければ良かった。
足元の草の間に、愛刀の姿を見つけた。ファイを今以上に怯えさせる事になるかもしれないと、拾うのは後にして、懺悔を続ける彼の肩にそっと手を置く。
「ごめん・・・」
「もういい。お前が、悪い訳じゃねえ。」
しかしファイはふるふると首を振って、
「ごめん・・・ごめんね・・・」
そう繰り返す。見たかった時間、受け止めたかった想い。今日此処で叶わなかったのは、あの日出来なかった黒鋼自身に全ての非が在るのに。
黒鋼はファイの頬に触れて、自分の手の異常な熱さに気がついた。其れに気が付けば、幻術で紛れていた不調がぶり返して、足元がふらつく。
(ああ、くそ・・・)
堪えきれずにファイの胸に倒れ込む。膝が折れて完全に意識を手放す寸前、雨か夜露か、冷たい雫が頬を濡らした。




幻覚の続きを夢に見た。
左手の痛みを堪えながら、必死で走っていた黒鋼は、背後で響いた轟音と、突然の閃光に思わず振り向いた。
九尾が追って来ているのだと思っていたのに、後ろには何も居なかった。
音の余韻が消えれば、後は何処までも静寂。
『・・・・・・師匠・・・・・・?』
嫌な予感に駆られて、足が、地を蹴っていた。
『師匠!?師匠っ!!』
元の場所に戻ると、其処に狐の姿は無く、ただ地に伏せる墨染めの衣。
駆け寄って抱き起こす。まだ息はあった。空汰は薄く、目を開けた。
『ああ・・・戻って来たんか・・・。阿呆やなあ・・』
そう言いつつ、少し嬉しそうに笑う。
ただ護る為だけに逃がされたのだと、其の笑顔で全てを悟る。
『ああ・・・あいつ・・・ぎりぎりん所で逃げおって・・・でも・・・致命傷は・・・』
言葉を遮って口から血が溢れた。
『もう喋るな!』
『大、丈夫や・・・あいつも・・・助からん・・・
狐がどうこうではない。空汰が助からなければ。けれど、流れ落ちる血の量が、其れはもう不可能だと語っていた。
『黒鋼・・・此れを・・・』
差し出されたのは破魔の刀。おずおずと手を伸ばして、そして力強く其れを受け取ると、空汰は満足げに微笑んだ。
『                 』
声が、聞こえなくなる。
『師匠!師匠!!』
耳には自分が必死で叫ぶ声ばかりが届いて。
『嫌だ!嘘だろ、おい!師匠っ!!!』
それでも、聞かなければならなかったのだ。それは、彼が自分に託す、最期の想い。
ちゃんと聞かなければ。ちゃんと受け継がなければ。ただ背負っているのだという重圧だけに、苦しむことになる。
 
(静かに、してくれ・・・)
どうか、もう一度。

『黒鋼、此れを・・・』
今度は自分の声が消えて。
『後は・・・頼むで・・・。今まで・・・教えた通りに・・・。大丈夫や・・・お前やったら・・・。左手・・すまんかったな・・・。ちゃんと・・・手当て・・・』
台詞は唐突に、不自然に、途切れた。
後に、あの日の自分の慟哭が響いた。



眼が覚めたのは洞穴の中で。其の割に寝心地が良いと思ったら、地面に大量の木の葉が敷かれていた。
「あ、お目覚めになられましたか?」
見ると、見知らぬ子供が脇に座っていた。否、よく見ればどこか、顔つきが先日の木こりに似ている。
「狐か。」
着物の裾から尻尾が覗いている。
夢の中の妖狐とは比べ物にならない程の、微量の妖力。まだ子狐だ。変化くらいの力しかあるまい。
「先日は失礼致しました。少し悪さするだけのつもりだったんですが、おじいちゃんが、貴方がとても美味そうだと言って。あ、其の件に関しては、お連れの方に散々痛い目に遭わされたので、お説教は勘弁して下さい!いやあ、あの方、妖怪だったんですね。僕達もすっかり騙されました。」
そういえばファイは、人間に見える幻術標準装備だった。狐まで化かしたのか。
「おじいちゃんってのは・・・相当強い化け狐みたいだな・・・。」
「あ、はい!此の辺りの狐の主です!今は・・・幻術を破られた時の反動を受けて、怪我をして寝込んでますけど・・。」
成る程、“痛い目”か。あんな風に、無理矢理破れば当たり前だ。
「お、怒ってますか・・?」
「否・・・礼を、言っといてくれねえか。懐かしい人に会えた。」
それに、ずっと気になっていた彼の最期の言葉。彼の師を目前に、何一つ聞き取れなくて、ずっと、後悔していた。
(聞いてみりゃ・・・なんてくだらねえ・・・・)

『今まで教えた通りに。』
遺志は継いでいる。彼も、妖怪退治の専門家とはいえ、妖怪を無差別に殺すわけではなく。人との調和を乱すものだけをと。
彼を亡くした直後は妖怪全てに憎しみを抱いた時期もあったが、今はもう。
左手の手当てだけは、今になって守れていないかもしれない。
聞いてしまえば、それだけかと思うような内容だったが、聞いてしまったから、心が軽い。

出来れば自分で礼を言いたいが、おじいちゃんなる狐は山奥にでも隠れているのだろう。此の辺りに気配が無い。そして、彼の気配も。
「・・・あいつはどうした・・・?」
「お連れの方ですか?先に発たれました。貴方は動けるようになるまで此処でお休み下さい。面倒見ないと呪ってやると脅されていますので、僕がちゃんとお世話させて頂きます。」

『先に発たれました』

子狐の言葉の後半は殆ど聞き流して、其の部分だけが何度も頭の中で響く。
かなりの時間を要して、意味を掴むと、黒鋼はがばりと身を起こした。
「先に発った!!?」
体に掛けられていた布が落ちる。見れば其れは、ファイの薄衣だ。
「発ったって!何処へ!何時!!」
「ふ、二日前です・・・。眠った貴方を僕に任せて、夜が明けぬ内に・・・。何処へとは・・・。」
「何か言わなかったのか!!?」
「こ、言伝を頼まれていますからっ、落ち着いてくださいっ・・」
「言伝?」
黒鋼は何時の間にか子狐の胸座を掴んでいた手を離した。けほと小さく咳払いをして、子狐が再び口を開くと、
 
『黒むー、』
「!」
其の口から出たのは、間違いなくファイの声。
『ごめんね・・・やっぱり、君の側には居られない。』
「な・・・」
突然切り出された別れに黒鋼が目を見開いても、残された言葉は残されたままに紡がれる。
『さよなら・・・』
「ちょっと待て!」
「わっ!僕に掴み掛からないで下さいよ!此れは伝言でしかないんですから!」
文句を言う声は、もう子狐のもの。
「あれで終わりか!?もっと他に在るだろ!!」
「終わりですっ!此れで全部です!」
そんな筈はない。あれで何を納得しろと言うのか。どうして側に居られないのだ。
(幻術を・・・破ったからか・・・?)
そんな事、あの時様子がおかしかったファイを案じこそすれ、怒ってなど居ないのに。
「他に何かなかったのか・・・?俺宛でなくていい。何も言わなかったのか?」
「それでしたら・・・」
「言ったのか!?」
「は、はい・・・。僕が『置いて行かれるんですか?お友達か何かでしょう?』と尋ねたら・・・」

『そんなんじゃないよー。オレと彼は妖怪と人間。喰うモノと喰われる者。狩られるモノと狩る者。このまま一緒に居れば、何時かどちらかがどちらかを殺す事になるだろうから・・・もう良いんだ。』

「そんな・・・」
自分を傷付けてまで側に居ることに、罪悪感を感じていたであろう事は、薄々感じてはいた。でも、其れを望んだのは自分なのに。血をやると言ったのは、此方の方なのに。
それに、どんな理由があろうと、何もこんな風に別れなくても良いではないか。一方的に、伝言だけでなんて。他に方法は無かったのか。
何を問いかけても、残された衣は、空蝉のように何も応えはしない。
ファイが経ってからもう二日。どの方向に向かったかも分からず、しかも相手は妖怪だ。追いつく事は出来ないだろう。
 
妖怪と僧侶の奇妙な旅は、妖怪が一方的に告げた別れで幕を閉じた。
 

 

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