哀韻恋歌 ところで、行脚の日々を送る黒鋼の荷物は非常に少ない。破魔刀の他には包みが一つのみ。しかし少ないからこそ気に掛かる。 「ねー、其れ、何が入ってるのー?」 ファイがそう尋ねたのは、其の日の宿にした洞穴で、黒鋼がさあ寝るかと横になった瞬間。間の悪い質問に、瞬時に眉間に皺が寄る。 「てめえには関係ねえ。」 「えー、気になるよー。黒りん持ってるだけで、開けた事ないんじゃないー?」 「気になるなら勝手に開けろ。見られて困る物はねえ。」 昨夜久々に手強い妖怪と戦って、体力を消耗していた黒鋼は、荷物をファイに投げてさっさと背を向ける。もう此れ以上邪魔するな、という事らしい。 (つまんないなー) すぐ見せてくれると言うことは、本当に大した物は入っていないだろう。それでもファイは包みを開いてみた。中身は主に数点の仏具。恐らく妖怪退治に使うのだろうが、大体は刀一本で間に合ってしまうので、未だに使う所は見た事が無い。他には刀の手入れをする道具が数点。入浴時や怪我の応急処置など多彩な場面で活躍するのだろう、手拭が数枚。そして、意外にも一冊の草子。 (へえー。読むことなんてあるのかなー。) 僅かな驚愕だけで書の内容には興味を持たず、ファイは仏具の方を手にとって、しげしげと眺める。 「黒りー、妖怪退治のお坊様なんだよねー?」 「あ?」 今更な質問に黒鋼がこちらを向いた。相手をしてくれそうなので、ファイは質問を重ねた。 「何でオレとは戦わないのかなって。」 「戦いてえのか。」 「いいよー、その刀痛そうだしー。」 「痛いどころじゃすまねえだろ。」 妖怪の中には普通の刀では斬れないモノや、斬っても平然としているモノがいる。しかしこの刀で傷をつければ、その傷は決して癒えず、体は其処から朽ちていく。 弱い妖怪なら、この刀に触れることすら出来まい。 「火も水も効かねえって奴も居るからな。」 「あ、オレも平気だねー。」 「厄介な生き物だ。」 「其れはどうもー。で、オレの事は斬らないのー?」 ファイが話を元に戻すと、黒鋼の眉間に皺が増えた。話すのが面倒くさいほど、長くなる理由でも在るのだろうか。 あまりしつこく訊くとこの場で抜刀されそうだが、もう少し食い下がってみる。 「オレも、人喰いだよ?」 「喰い過ぎる訳じゃねえだろうが。前にも言った通りだ。喰うのは悪いことじゃねえ。」 「基準が分からないなー。数の問題なのー?」 「俺の仕事は人助けじゃねえ。共生の調和を乱す妖怪の退治だ。」 「調和ー?」 「弱肉強食は自然の摂理だろ。命の価値に差なんかねえ。一切衆生は皆等しく尊い。生きる為に喰うことを、たとえ妖怪相手だろうが、咎める権利なんてねえ。ただ、不必要に生命を奪うモノを、止めてるだけだ。」 「わー、僧侶っぽーい。」 「僧侶だ!」 怒鳴るとファイはおどけて耳を塞ぐ仕草をする。 「だって、そんな普通のお坊様っぽいこと言うと思わなかったんだもんー」 そんな思い込みは、おそらくファイに責任はないだろう。 「・・・普通の僧侶みてえな修行は殆どしてねえけどな・・・。基本精神くらいは教わってる。」 「誰にー?」 「師匠・・・俺の前に、この刀を振るった人だ。」 「お師匠様なんて居たんだー。」 黒鋼が人に師事したというのが意外だったのだろう。ファイはあからさまに驚いた顔をして、 「でもお弟子さんがこんなに立派になったんだから、お師匠様も嬉しいだろうねー。」 お世辞か本音か冷かしかはともかく、そんなことを言うと、黒鋼の顔が一瞬強張った。 「黒むー?」 照れとは別種の其れにファイが怪訝な顔をすると、 「あ、否、何でもねえ。」 黒鋼にしては弱気な誤魔化し方をする。触れられたくない事だったか。 「ごめん、ね・・・?」 謝られて戸惑った表情をするのも、黒鋼らしくない。 耳に蘇る言葉がある。ただ、自分の名を呼ぶ声。 『黒鋼・・・』 珍しく、饒舌になったのは、その声を振り払いたかっただけだ。自分が犯した、最大の不孝の記憶。 代わりに話したのは、別の不孝。 「師匠は妖怪と戦って死んだんだ。だから、師匠の死後しばらくは、妖怪全部が憎くて。教えも忘れて手当たり次第斬ってた時期もあった。」 「そうなんだ・・・。それじゃあ、どうやって思い出したの?」 「それは・・・あっ!」 今まで横になったまま話していた黒鋼が、何を思い出したのか突然がばりと身を起こす。 「ど、どうしたの黒みゅー?」 「今、何月だ!?」 人間には本当に色々な種類があるものだと感心させられる。まさか此の僧侶に書物を貸す者が居るとは。 「若いくせに三度の飯より書物が好きで、国中の本と言う本を片っ端から集めてやがる。家中書物だらけで寝る場所がねえ程だ。村の連中に何冊か譲ろうかと思った事も有るそうだが、何せ字が読める奴なんてのはそう居ないからな。結局書物に埋もれて暮らしてる筈だ。」 「其の人が貸してくれたんだー。」 黒鋼に不釣合いな荷物の由来が明確になって、ファイは苦笑を禁じえない。 「そうだよねー。借りでもしなきゃ、黒様が書物なんてねー。」 「押し付けたっつうんだ。二年に一度くらいは返しに来るついでに会いに来いってな。」 「へー、そうでもしないと、黒みゅー忘れそうだもんねー。」 実際忘れていたが。しかし、偶々近くに来ていたとは言え、律儀に返しに行く所を見ると、其の人物の事は嫌いではないらしい。 「どんな人なんだろー、楽しみだなー。」 「変わり者だ。そこらの役人より頭も切れるし、意外に腕も立つから、何時までもこんな村に燻ってねえで、中央の役人にでもなりゃ良いのに。ああ、此処だ。」 黒鋼の足は、山間の村の集落から少し離れた、一軒の建物の前で止まった。 「よお、生きてるか?」 断りも無しに戸をあけると、中に居た少年がはっと顔を上げる。 「お久しぶりです。そろそろ来る時期だと思ってました。」 (へえ、此の子が・・・) 若いとは聞いていたが、まさか此れ程とは。どう見ても、せいぜい16、7。家の中は確かに、いつ埋もれて死んでもおかしくないほどの書物で埋め尽くされている。きっと地震が来た時は、残念な事になるだろう。 「相変わらずだな。背が伸びたか。」 「二年ぶりですから。其方は変わりませんね。」 「この年になってまだにょきにょき伸びられてもな。おう、そっちも元気か?」 黒鋼が少年の隣に声をかける。其処には、少年と同じ位の年と見受けられる少女。友達か何かだろうか。 「はいっ!ところで、其方の方は?」 「旅の連れだ。最近知り合ってな。」 「あ、ファイです、よろしくねー。」 話題が自分の事に変わったので、ファイはとりあえず自己紹介。すると、少女もにっこりと答えた。 「サクラです。よろしく。こっちは・・・」 「小狼です。」 少年の名は小狼。少女はサクラ。しかし、名前よりも気に掛かる事が。 「あの・・サクラちゃんって・・・」 「ええ、貴方と同じです。」 此れもにこりと。此れ程簡単に言ってしまえるという事は、当然小狼も知っているのだろう。 「言っただろ。変わった奴だって。」 黒鋼の言う変わっている所とは、妖怪と同棲している事だったらしい。 本当に人間には、色々な種類が居るものだ。 「へえ、サクラちゃんは絵から生まれたんだー。」 「はい。」 村外れの小狼の家の前に二人で腰を下ろして、妖怪二人はそんな話に花が咲く。此処に座ると、村の広場がよく見える。村の子供達が、花一匁をしていた。ちなみに黒鋼は、借りていた書を結局読んでいない事がばれて、折角だから読んでいけと半ば強制的に書を開かされ、今も小狼と二人で家に篭っている。嫌そうな顔をしていたから、字が読めないのかと思ったがそうでもないらしく、どうやら室内にじっと座っているのが嫌なようだ。確かに、彼は表で刀を振るっている方が良く似合う。 「それにしても、本の絵に恋するなんて小狼君らしいねー。」 「恋なんて・・・そんな大袈裟なものじゃ・・・。ただ、私を見る目がとても優しくて、私も笑ってあげたいなって・・・。」 そして物に宿った想いが形となった。其れがサクラ。 「でも、こんな村で、食事はどうしてるのー?」 小さな村だ。人を獲って喰らえば、直ぐに疑われよう。それでも、妖怪も活動するには力が必要だ。そして、其れは主に、肉や魚のような物質ではなく、精気という形で要求される。 「私は、強い力が有る訳ではないので、形を保つのに大きな力は要りません。傍に居る事で、少しは小狼の精気を吸っているかもしれませんけど、人と同じ食事で十分なんです。」 存在する為に要する力は、その妖怪が持つ力の大きさに比例する。力の強いもの程、より膨大な力を求める。そして、最も手っ取り早く大きな力を得られるのが――人間。 「ファイさんは・・・人を・・・?」 「・・・・・・此の村ではしないよ。サクラちゃんの立場が、悪くなるといけないし。」 「・・・次の村までは少し遠いですから、夕飯はなるべく精の付く様な物にしますね。」 人と同じ食事で得られる力など、高が知れているが。 黒鋼に隠れて最後に人を喰らってからもう十日。数日前から、また寒くて堪らない。そろそろ、飢えが限界だ。 「綺麗な人ですね。」 「あ?」 不意に小狼に声を掛けられて、黒鋼は彼の視線を追った。その先には、表で並んで座っている妖怪二人。という事は今の台詞はファイのことか。 「黙ってればな。連れて歩けば、あれは何だだの、あれが食べたいだの、一日中、餓鬼みてえに騒ぎやがる。」 「でも楽しそうです。」 「そりゃあいつは」 「いえ、黒鋼さんが。」 「ああ?」 不本意そうな顔をした黒鋼に、小狼は嬉しそうな笑みを向ける。 「変わりましたね。」 自分の事だと察して、黒鋼は眉間に皺を増やす。 「・・・あの頃が・・・特別酷かったんだ・・・」 「はい。」 いい訳じみた言葉を吐くと、分かってますと言う風に小狼は笑顔で頷いた。 師を喪って一ヶ月が経とうとしていた。受け継いだ刀を携えて一人きりの旅路。荒んだ心に、破魔の刀は調和を守る為の物ではなく、凶悪な妖怪が不必要に人を殺すその牙と、同じものでしかなくなっていた。出会った妖怪は全て斬った。人を食うか否かさえどうでも良かった。ただ憎かった。 その日も、山の中で妖怪に出会った。明るい色の髪に翡翠色の瞳。桜色の着物が良く似合う、十代半ば程の人間の少女の姿をしていた。 力はそれほど強くなかったが、妖怪だというだけで十分だった。 刀を抜いて、振り上げた。 少女が小さく悲鳴を上げて、手に持っていた籠を落とす。中に入っていたのは薬草。妖怪である彼女がそれを何に使うのかも、黒鋼の興味を引くことはない。 刃が空を裂く。その時、二人の間に一人の少年が飛び込んだ。 「待ってください!」 (人間っ・・・!?) 少女を護るように両手を広げたその少年は、斬ってはならないもの。瞬時に判断して、黒鋼は寸でのところで刀を止めた。 「死にたいのか!どけ!」 「お待ちください、お坊様!サクラは、人に害を為す妖怪ではありません!」 少年の名は小狼。少女の名はサクラ。 仲睦まじく共に暮らす、この人間の少年と妖怪の少女が、思い出させてくれた。 妖怪は憎むべきモノではないのだと。共に生きる事も出来るのだと。 言われてみれば確かに、楽しかったのだろう。 最初は見知らぬ世界に浮かれていたファイが、いつしか隠すことに必死になって。 最初はファイを嫌がっていた自分が、いつの間にかこの旅を楽しんでいて。 触れた互いの肌以上に、心に温度の差があっても。 気付かないくらい、楽しかったのだ。 妖怪と人でも、共に、生きていけると思っていた。 翌朝、何とか本を読み終えた黒鋼は、新しい本を渡されて無事解放された。何だかんだと言いながら、其れでも次の本を受け取るという事は、真剣に嫌がっている訳でもないのだろう。 「じゃあまた、返しに下さいね。」 「ああ。」 「ファイさんも、是非一緒に。」 「ありがとー。其れまで一緒に居たら、またお邪魔するよー。」 「あ?」 思わず素っ頓狂な声を上げたのは黒鋼で、きょとんとした顔で見上げられる。 「何?」 「あ、否・・・」 そうだ、そうだった。すっかり日常と化してしまっていたが、ファイは一時の興味だけで此処に居るのだ。飽きれば何処かへ行ってしまうと、出会った当初は其れを期待すらしていたのに。 (忘れるとはな・・・) 何時の間にか、少し騒がしい二人旅を、すっかり気に入ってしまっているようだ。 けれど、思えば何故、其の時ファイはそんな事を言ったのだろうか。 二人が小狼たちの村を出たのは早朝。1日歩き通しでも、次の村に着くのは夕暮れだ。二人が親切に弁当まで持たせてくれたが、夕飯にありつきたければ少し急ぎの旅になる。 いつも通り、黒鋼の少し後ろを、ファイが付いて歩いていた。後ろからは足音も気配も伝わって来ないが、振り向けば其処に居るというのは、もう既に経験から来る確信。 見上げると、雲行きが少し怪しい。 「一雨ありそうだな。おい、少し急・・・」 振り向いた。しかし、其処には、居るはずの彼の姿が、無かった。 「・・・・・・」 そう言えば、今日は朝から一言も話し掛けられなかった。静か過ぎると、如何して気付かなかったのか。足音も気配も感じなくても、四六時中発せられる他愛も無い言葉が、何時も何よりも彼の存在を保証していたのに。 如何してファイは、今朝あんな事を言ったのだろうか。もしかするとあの時既に、黒鋼の元を去ると、決めていたのだろうか。良くない考えばかりが浮かぶ。其れは、以前は確かに強く望んでいたものだったけれど。 「くそっ・・・・!」 小さく舌打ちして、黒鋼は今来た道を駆け戻った。 見つかる。見つけられる。岩場に居ても木々の間に居ても、あの髪と肌の色、見付けられない筈が無い。左右にも隈なく目を向けながら僅かな気配も逃すまいと気を研ぎ澄ませて、走ること約十分。 ファイは、しゃれこうべの入った包みを膝に乗せて、道端の大きな石の上に腰掛けていた。 「あ、黒みー、帰って来てくれたんだー。気付いてくれないのかと思ったー。」 「・・・・・・・・・・・・・・」 見つけた姿にほっとした途端、弾んだ息が怒声に変わった。 「何やってんだ、てめえは!!!」 「そんなに怒鳴らないでよー。ちょっと休憩ー。」 「さっき出発したばかりだろうが!」 「だってー。」 村を出てから二時間程しか経っていない。次の村への道程の、まだ半分も来ていないのだ。こんな所で休んでいては、今日中に次の村に着けない。 「もう少ししたら昼飯にする。さっさと立て。」 「・・・もうちょっとー・・・」 「妖怪がそう簡単に疲れる訳ねえだろ!ぐずぐずするなら捨てていくからな!」 「わざわざ戻ってきたのにー?じゃあ負ぶってってよー。」 「ふざけるなっ!何で俺がてめえなんか」 「ねえ、黒みゅー、」 「ああっ!?」 「・・・・・・お腹が減って動けないー・・・」 「・・・・・・・・・・・・」 殴り飛ばしたい衝動を抑えた自分を褒めたい。 「さっき朝飯食っただろうが!馬鹿な事ばっかり言ってねえでさっさと立て!」 ぐいと、少々乱暴に、ファイの手首を掴んで引いた。そして、其の冷たさに、思わず息を呑んだ。ファイの肌は元々冷たかったが、それにしても。 (こんなに・・・?) 「っ!?おいっ・・!」 黒鋼に引かれて腰を浮かしたファイだが、立ち上がれずに体が膝から崩れ落ちた。咄嗟に受け止めた腕に縋りはすれど、殆ど力が入っていない。触れた肌の温度は、以前情事の真似事で触れられた時よりやはり更に低く、氷を掴むような、痛みを伴う程の冷たさ。いくら彼が妖怪だと言っても、此れは異常だと分かる。 「おいっ!どうしたんだ!おい!?」 「だから・・・お腹が・・・減ったんだって・・・」 黒鋼の腕の中で弱々しく笑むファイの顔からは、凡そ精気と呼べる様なものは感じ取れない。背筋に、冷たい汗が伝った。 「腹が減ったって・・・」 さっき食べたのに。言おうとして、気が付いた。彼は、“人喰い妖怪”だ。 「・・・人か・・・」 ファイの表情から一度笑みが消えて、今度は笑みに似た形に歪む。 「・・・・・・ごめんね・・・」 言ってはいけないと。きっと、まだ傍に居たいのなら。何時かの様に、黒鋼が知らないうちに、居なくなっても、騒がれない様な人間を、見つけて、殺して、喰らおうと、そう思っていたのに。否、そう思っていた事も含めて。 「ごめん・・・ね・・・」 「如何してこんなになるまで言わねえんだ!」 「次の村くらいなら、もつと思ったんだよー・・・」 「そうじゃねえ!如何してもっと早くっ・・・!」 「言ったら・・・食べさせてくれたの・・?」 「っ・・・」 「・・・・・・・・そういう事だよー・・・」 言える筈が無い。黒鋼も人なのに。どうしても、人を食べずには居られないなんて。言えば、きっと傍に居られなくなる。 「ああ、でも・・・言っちゃったから・・・お終いかな・・・」 ぽつりと、宛も無く漏らされた呟きが、哀しく響いて静かに消えた。黒鋼は、しばらく何事か考え込んで、ファイの体をそっと、石の上に座らせた。倒れないことを確かめながら、ゆっくりと手を離す。そして其の手で、荷の中から短刀を取り出した。 「オレを殺すのー?ああ、でも其の方が良いなー。此処まで来ちゃったらもう、自分で人殺せないし・・・飢え死になんて格好悪いもんねー・・・。でも出来ればそっちの破魔刀の方が楽に逝けそうな気がするんだけど、どうしてもそんな短刀で・・・え?」 「持て。」 「え、何・・・で・・・?」 「妖怪が破魔刀なんか握れねえだろ。此れなら何の力も無いただの刀だ。さっさと持て。」 「・・・・?」 戸惑った表情でファイが刀を受け取ると、黒鋼は自分の左袖を捲った。そして、短刀と共に取り出した手拭で、二の腕をきつく縛る。 「あの・・・何、する気・・・?」 「腕を一本くれてやる。俺みたいな力の有る人間の肉なら、普通の人間を食うより力を得られるだろう。腕一本でも、動ける位にはなる筈だ。それで斬り落とせ。」 「でも・・・そんな・・・・・・」 「此処まで無理させた責任は俺にも有る。俺の腕を喰って、次の村まで行って、其処で・・・」 言い澱んだ台詞の先を、ファイが確かめる様に口にする。 「お別れ・・・?」 「・・・・・・・・ああ。」 望んだであろう答えを、返してやる事は出来ない。人を喰らう妖怪を、連れて歩く事など。けれど、此処でファイを殺す事もまた、黒鋼には出来ない。いつか、別れが訪れるかもしれないということを忘れるほど、情が移りすぎた。 腕を一本。すぐに止血して、次の村で手当てができれば、命を落とすことはないだろう。 「早くやれ。」 「・・・・・・・・・」 短刀を握り締めたファイの手が震えた。人を傷付ける事を、躊躇した事など無かったのに。 否、傷付ける事を躊躇ったのでは無い。別れを、恐れたのだ。 此の腕を、斬って、喰らえば、二人は、終わる。 「腕は・・・いらない・・・」 「じゃあ如何する。」 「・・・血を・・・血を頂戴・・・。其れだけで良い。」 腕を落とせば生えては来ないが、血を流す事だけが目的の傷なら、何時かは塞がる。 其れで済むなら黒鋼も其の方が助かるが。 「其れだけで、大丈夫なのか?」 「一人食えば一週間はもつから、黒むーの血なら少しでも多分・・・。」 だから、もう少し側に居させてくれとは、自分からは言えないけれど。 黒鋼は二の腕を縛っていた手拭を解いた。血の通い出した左手を、ファイがそっと取る。 「手首・・・じゃ、見た目悪いよね・・・。此処、斬って良い・・?」 そう言って冷たい指がなぞるのは、黒鋼の左手に残る傷跡。 「・・・・・ああ。」 許可の言葉を受けて、白い刃が其処に当てられた。 ぶつり、と肉を裂く感触。鋭い痛みに顔を顰めたが、声は噛み殺した。貫通はしないまでも、かなり深く肉を抉った刀が抜かれると、紅い液体が勢いよく噴出す。すぐに、ファイが唇を寄せた。 「っ・・・・」 傷口をなぞられる激痛に思わず息を詰める。しかし、掌に口付けたままで、心配そうに見上げて来る蒼の瞳には、視線で続けるように促した。流れた血がファイの腕を伝って、肘から落ちた数滴が地を濡らす。血の紅はファイの唇を艶やかに汚して、其処から覗く舌の赤はこんな状況でも見る者を扇情する。否、こんな状況だからだろうか。綺麗だと思った。其の色が、彼を最も美しく魅せるのだと。 出血は止まらないのに、体温の上昇を感じる。或いは、血の出し過ぎで頭がぼやけているのだろうか。 そろそろまずい。そう思って、右手と口を使って再び二の腕を縛った。傷口が深過ぎて、此れだけではすぐには血は止まらないが、今も触れる唇の冷たさが、少しは止血の助けになるだろうかと。そんな事を考えて、出血で少し冷えた指に触れる彼の頬が、随分と温かい事に気が付いた。もう、唇も冷たくはない。 「腹・・・膨れたのか・・・。」 「ん・・・」 鼻に抜ける音でそう応えて、ファイが唇を離したので、傷口も強く縛った。ファイは自分の腕に伝った血を、恍惚とした表情で丁寧に舐め取っている。そんなに上手いのだろうかと、興味を持つと同時に、ファイが以前口にした言葉を思い出した。 「坊主は不味いとか言ってなかったか。」 「黒りんの血は、美味しかったよー。」 そう答えながら黒鋼の指に残る血も綺麗に舐める。触れる指先も、何時の間にか温かい。 「あれだけの血で子供一人分くらいありそう・・・。一週間くらい動けるかもー。」 子供一人分がどれくらいか人間には分からないが、気が付けば頭の中で天秤に掛けていた。週に一度、この痛みを堪えるか、旅の連れを失うか。 「俺の血で生きられるのか。」 「・・・・・・・」 ファイが目を見開いたのは、口にし兼ねた言葉を、質問の形で与えられたから。 「黒たんが・・・良いなら・・・。」 「俺は・・・良い。お前が、此れで足りるなら。」 痛みを堪える選択肢の皿には、少し錘を追加しよう。黒鋼の血で足りるなら、ファイは他の人間を殺さなくて良い。自己犠牲と言えば聞こえは良いが、其れに見合う対価は在る。指先を口に含まれて、血を舐め取られる時の此の、傷口の痛みとは別に腕に伝わる甘い痺れ。ファイが無意識に使う妖術か。其れとも血塗れた唇に欲情でもしているのか。 引き寄せられたのは、坊主嫌いの人喰い妖怪が、それでも美味いと褒めた味が、どんなものなのかと気になっただけ。重ねると言うよりは喰らい付くように、無傷の右手でファイの後頭部を抑えて、其の唇に触れる。口の端を汚す血を舐めれば、人間には少し不愉快な味だった。 「鉄臭いだけだ・・・」 「・・・・オレは・・・」 突然の黒鋼の行動に少し驚愕の表情を覗かせたファイだったが、血を舐めただけだと知れば抵抗はないらしく、其れについては何も言わずに、ただこう答えた。 「オレは・・・懐かしい味だと思う・・・。」 (懐かしい?) 黒鋼はいつもファイが抱いているしゃれこうべを探した。其れは今日もファイの傍らで、風呂敷に包まれて此の一連の事の成り行きを見守っていた。懐かしい、という事は、この坊主の味に似ていたのだろうか。 (不味いって言ったのに・・・若しかしてあれか?) 腹が減ってりゃなんでも美味い。 今になって少し、選択を誤った気がした。 BACK NEXT |