哀韻恋歌




『お坊様・・・一つ、お聞きしても?』
『何だ。』
其れはしゃれこうべを埋めた帰り道、往きの会話の後、ずっと何か考え込んでいる風だった昴流が、やっと口を開いた。
『どんな言葉なら、星史郎さんを救えますか?』
『・・・・・・』
黒鋼は昴流を一瞥して、ゆっくりと空を仰ぐ。空はものを思わず、今日もただ蒼い。
『師匠に・・・聞いた事がある。嘘が人を救うなら、真実の中には、全く救いは無いのかと。』
空を鳥が横切った。其の遥か上空を、白い雲が漂う。そして其の更に上に、蒼の深さを知る。
『お師匠様は、何と?』
『真実の中に救いを見出せる者もいる。とても、幸せな者達だと。』
『・・・・・』
『言葉で救うつもりなら、名でも呼んでやれ。あいつは、救われるだろう。』


真実の中に救いを見出せない者を、不幸だとするのではない。
だが、救いを与える嘘さえ見つけられない自分は、とっても不幸と言うことになるのだろうか。
此の胸の真実でファイは救えない。口付けではなく言葉にしても、きっと彼は泣くだけだ。
黒鋼は何時かの御弾きを取り出した。ファイの瞳の色を湛えた、ファイの体よりは暖かい、けれど硬質な玩具。
何時か、亡くした色を此れに重ねて、懐かしむ日が来るのだろうか。
(・・・まだ・・・間に合う・・・)
結果が出る前に終わりを予感するなんて、らしくない。黒鋼は、御弾きをしまって、書庫へ向かった。今はただ、ファイを死なせない事。食事を拒む妖怪に命を与えるなど、雲を掴む様な話だが。雲すら掴めないのなら、空の蒼さには届かない。
両手にいっぱいの本を抱えて部屋に戻ると、ファイは何時もの俯き加減。
次の日も、其の次の日も、黒鋼はずっとファイの部屋で過ごしたが、また数を数えているのだろう、ファイから言葉が発せられる事は一度も無く。
黒鋼も、話す事も触れる事もせず、ファイの傍らで書を開き続けた。


秒読みは、幾つで止まったのだろうか。



昼下がりだった。空は晴れて、季節外れの白い花弁が、青空に良く映えていた。其の瞬間が訪れるには相応しくない、美しい日。
風など無かったのに、桜の花弁が揺れた。其れが合図。黒鋼は、顔を上げるのとほぼ同時に、小さな衣擦れの音を聞く。
他に、大きな音も無かったのに、はっと振り向くと、ファイの体が床の上に横たわっていた。
「っ・・・!」
「困りましたね。」
息を呑んだ黒鋼より早く、隣に居た星史郎が書を置いて立ち上がる。同時に、懐から取り出したのは短刀。
「何をする気だ!?」
「このままでは死んでしまうでしょう。」
結界の中に入ってファイを上向かせると、星史郎は自分の左手の指先に刃を当てた。人差し指と中の指の腹から血が零れる。星史郎はかなり深く切った其の二本を、無理やり開かせたファイの口に挿れた。
「んっ・・・」
「飲んで。」
「や・・・ぁ・・・」
口腔を犯す指を抜こうとファイが弱々しくもがくが、星史郎に押さえつけられて叶わない。彼の手を振り払うだけの力も、其の腕には残っていない。ファイに許されたのは、塞がれた口で、助けを求める事だけ。
「く・・・む・・・・・・」
「っ・・・やめろっ!!」
くぐもった声で呼ばれたのは、確かに自分の名ではなかったか。黒鋼ははっと我に返って、ファイから星史郎を引き剥がした。
咳き込むファイを抱き起こして、其の体の軽さにぞっとする。しかし本来の質量など知らないのだ。其れを死と結びつけるのは早計。死が、迫っている事は間違いなくても。
「では如何するんです。このまま死なせるんですか?」
「・・・・・・俺が飲ませる・・・。」
低く吐き出した言葉に、ファイの体が小さく震えた。
星史郎が短刀を差し出す。黒鋼は其れを受け取って、二人にしてくれと請うた。
「後、血止めと包帯も・・・」
「運ばせましょう。」
無感動な表情でそう言うと、星史郎は部屋を出た。足音が遠ざかるのを待って、黒鋼はファイの体を下ろそうとする。しかし、ファイの手が黒鋼の着物を握った。
「待って・・・」
「・・・・・・待てねえ。」
「お願い・・・少しだけ・・・聞いて・・・」
「・・・殺さねえぞ。」
力強く宣言する言葉に、ファイの目にじわりと涙が滲んだ。
「昴流君と話したんだ・・・。憎まれて殺されるのと・・・遺して悲しませるのと、どっちが辛いだろうって・・・。でも、其の瞬間はどんなに辛くても・・・オレはきっと忘れるから・・・。長く、背負って行かなきゃいけないのは遺された方だから・・・黒むーが、望むようにしたい・・・。」
「俺は、またお前と旅がしたい。」
再開の日に口にした言葉を、もう一度唇に乗せる。そして、強くファイを抱きしめて、心の中の真実も。
「亡くしたくねえ・・・・・・愛してる・・・」
「く・・・ろむ・・・」
残された力を振り絞って、ファイは黒鋼の背に腕を回す。
悲しくてたまらない。
与えられる此の想いを、其のまま受け入れられない自分が。
「何時か知られて憎まれるのは・・・今殺されるよりきっとずっと辛いよ・・・。生きろって言うなら・・・オレの過去を聞いて・・・。それで、憎いって思ったら・・・其の刀で・・・確実に・・・」
「・・・・・・分かった。」
在り得ない仮定だ。そう思いながらも了承してやると、ファイの口元に笑みが浮かぶ。けれど、同時に終わりの予感に、涙が一筋、零れる。
「オレ・・・町を襲ったんだ・・・。」
「・・・俺と旅してる間にか?」
「ううん・・・もっと前。」
「あの村に居た頃・・・か?」
「・・・・・・それより・・・もっと前・・・」
「あ・・・?」
「・・・・・・大きな町だった。人は、『みやこ』と呼んでた。此の国の中で、一番人の臭いが強い場所・・・。オレは其処で、人を殺して、喰らって、建物を壊して、暴れ回ってたんだ・・・。そしたら、一人のお坊様が、オレを止めに来た・・・。腰に一振りの刀を携え・・・一人の弟子を連れてた・・・。」
「・・・・・・・・・・・・・」
『みやこ』は『京』。すなわち、此処だ。けれど、
(刀を携えた・・・僧侶・・・)
そんな特異な僧が、そうそう居るわけがない。だが、自分ではない。弟子を持った経験はないし、何より、あの村で出会うまで、ファイに会った事など無かったのだ。なのに如何して。
「その・・・僧侶の名は・・・」
「知らない・・・名前は・・・二人共・・・でも・・・」
ファイが手を伸ばす。黒鋼は其の手を握り締めた。刀で貫かれた傷が、今もくっきりと残る左手で。
傷は今は塞がっているのに、先刻から何故か傷痕が疼く。ファイの手に冷やされてもなお、高鳴る鼓動に合わせて。
「お坊様は、オレを倒す為に命懸けの術を使った。其の術に巻き込まない様に、弟子を逃がそうとして、彼の竦む足を動かす為に、刀で彼の左手を貫いた・・・。」
ずきりと左手が鋭く痛む。
よく似た話を知っている。けれど、決定的に違う。
「お前じゃなかった・・・あれはお前じゃなかった!!」
「其の時のオレは・・・大きな狐の姿をしていたんだ・・・。」
「姿だけじゃねえ!気も・・・妖怪だって事以外、何もかもあいつはお前とは違う!!」
「でもっ・・・初めて飲んだ君の血は・・・懐かしい味がしたんだっ・・・」
「っ・・・!!」
初めて血を与えた日、鉄の味だと言った自分に、ファイは懐かしい味だと言った。そう言えば、あの狐も、地面に溜まった血を舐めていた。
(待て・・・どうして・・・知ってんだ・・・)
あの時、自分はすぐに逃げた筈だ。左手を貫かれた後、振り向きもせず一目散に。其の後、狐が如何したかなど知らない筈なのに。
何処で見たのだ。あの後の会話、不敵に笑う師の表情、狐が血を舐める音まで、如何して知っているのだ。
「あの日の・・・幻術・・・」
ファイの体が強張る。
ファイとの旅の最後の夜、狐が見せた幻術は、自分の記憶を読み取って具現化したものだった筈なのに。
知らない瞬間は作り物にしては現実味を帯びて、其れが未知の光景だと気付かない程に、自然に自分の記憶に続いた。
「あれは・・・お前の記憶か・・・?」
「・・・・・・・・・あのまま行けば・・・あれがオレだったってばれるかもしれない・・・。だから・・・術を破った・・・」
あの時、人の血の色も死も見慣れている筈のファイは、目にした惨劇に酷く怯え取り乱して。
如何したのだと黒鋼が向けた視線に、ただ何度も、『ごめんね』と。
「でも・・・解らねえ・・・。死んだんじゃなかったのか・・・」
「・・・逃げたんだ・・・。止めは刺されなかったけど、傷は深くて・・・破魔の刀で付いた傷だから、回復も出来なくて・・・。迫り来る死を感じながら・・・強く強く願った・・・。」

『シニタクナイ』

「想いか・・・」
ファイが小さく頷くと、また頬を涙が伝った。
彼は妖怪。想いが、次への可能性になる。
「体は滅して狐だった記憶も薄れたけど想いだけが遺って・・・其の想いが成長してオレの素を作った・・・。後は・・・前に話した通り・・・。」
色と名前をくれた彼に出会い、望まぬまま殺して食べた。思えば、彼に殺されかけたあの日、頭に響いた声は、自分の根源からの声だったのだろう。そして黒鋼に出会った。
「ごめんね・・・忘れてたんだ・・・覚えてたら・・・側に居たいなんて望まなかったのに・・・君の過去を映した幻術で自分の姿を見るまで・・・思い出せなかったんだ・・・」
そして思い出してしまったら、罪の意識でとても側には居られなかった。
いよいよ止まらなくなった涙を隠そうと、ファイは腕で目を覆う。
「ごめん・・・オレが殺したんだ・・・君の大切な人・・・ごめんなさい・・・」
「っ・・・・・」

『殺した』

其の言葉の重みに、やっと全ての辻褄が合う。
あの時ファイが姿を消した理由も、側に居られないと、死を望む理由も。妖怪だからという理由で殺したりしないと分かっていても、自分が自分だから、憎まれ殺されると知っていたのだと。
けれどまだ、理解できない。
「黒むー・・・」
「っ・・・あ・・・」
静かに呼ばれて、今度は黒鋼の方が体を強張らせる。ファイが、小さく笑った。
「如何したの・・・?大丈夫だよ・・・今はオレが死にたいって望んでるし、体も衰弱してる・・・。あの人の時みたいにはならないよ・・・。妖怪を殺すの・・・本職でしょ・・・?」
「・・・ファイ・・・」
「しかもお師匠様を殺した・・・邪悪な妖怪だよ・・・躊躇う理由なんて無い・・・」
「・・・・・・・」
でも、それでも理解できないのだ。
ファイが死にたい理由は解った。
けれど、自分はファイを、殺さなければならないのだろうか。
「黒むー・・・刀抜いて・・・お願い・・・殺し」
「っ・・・」
言葉を遮って、黒鋼はファイを抱きしめた。細い体が折れそうな程、強く、強く。其の力に僅かに顔を顰めながら、ファイが戸惑った声を上げる。
「黒・・む・・・・ど・・・して・・・?」
「できるか!!」
悲痛な怒声が、空気を震わせる。
「師匠は敵を討てなんて言い遺さなかった!最期には、『今まで教えた通りに』と言ったんだ!」
命の価値に差は無い。妖怪の命と言えども、奪う事は許されない。それでも、如何しても戦わなければならないのは、彼らが人との調和を乱した時だけ。不必要に奪われる多くの命を、守る為にだけ。
「九尾は師匠が倒したんだ・・・お前はもう凶悪な妖怪なんかじゃねえだろ・・・!!」
ファイは無益に人を殺しはしない。生まれてからずっと、人を喰わねば生きていけない此の宿命の中で、人と共に在る事を望んで来た。人を亡くして悲しんで、人を愛して苦しんで。どうして、あの凶悪な妖怪と、同じだと思えるというのか。
「お前はあいつじゃない・・・。あいつとは違う。」
ファイを殺しても誰も救えない。過去に奪われた命の為に、今在る命を奪う事を、師は正しいとは教えなかった。だから、ファイを殺す理由など無い。
けれどそれ以上に。
「亡くしたくねえ・・・」
「く・・・ろ・・・」
「殺したくない・・・」
命の価値に差など無い。けれど師の其の言葉はきっと嘘だ。ファイの存在が、彼の命が、今自分の中で何よりも重い。
「生きろよ・・・。殺さなきゃならねえのは、人との調和を乱す妖怪だけ・・・。人と共に在る事を望む限り、お前は生きてていいんだ・・・。だから・・・俺を望め。」
「黒むー・・・」
「一緒に居てくれ・・・。」
「・・・・・・・」
強く抱きしめたまま、祈る様にそう口にすると、ファイが、肩に顔を押し付けたのが解った。
「くっ・・・ろむ・・・オレ・・・」
何かを必死に伝えようとする言葉は、苦しげに途切れ途切れになる。
泣いているのか、それとも迫り来る死の所為なのか判らなくて、聞かなければと思うのに、気が焦る。
「ごめ・・・ごめんね・・・」
「何を謝ってんだ。」
「オレ・・・憎・・・まれるの・・・怖くて・・・許して貰おうなんて・・・思ってないのに・・・」
「だから、それはもう・・・」
「なのに・・・オレっ・・・」
「ん・・・?」
「好き・・・なんだ・・・・・・黒むーの事・・・ごめんなさい・・・」
「・・・・・・何で謝んだ。」
「だ・・・だって・・・」
黒鋼は抱きしめていたファイの体を少し離すと、唇に軽く口付けた。そして、力の入らない体を床に横たえて、短刀を手に取る。
「一緒に来るな?」
「・・・・・・うん・・・」
確認というより確信に近い言葉に、ファイが小さく頷くのを確認して、黒鋼は左手の傷痕に刃を当てた。



最初のうちは嚥下する事すら苦しげだったが、ファイは何とかある程度の血液を喉に通した。しかし、不自然に飢えの期間を伸ばした所為だろう、結界を消すと、激しく消耗して立っていられなくなる。崩れた体を黒鋼が抱き上げた。
「ごめ・・・」
「いい。後でもう少し飲め。」
とりあえず星史郎に見つからない様に此処を出なければ。部屋を出ると、其処で昴流が待っていた。
「普段は使われていない門があります。こちらへ。」
昴流が案内してくれたのは、特別な儀式の時にだけ開くのだという門。彼の御蔭で誰の目にも触れる事無く其処に辿り着いて、二人は門の外へ出る。
「世話になった。」
「いえ、此方こそ。すいませんでした。」
昴流は二人に深々と頭を下げた。
「でも、貴方達に出会えて良かった。」
顔を上げた時の笑顔は清々しいもので。
「お前も、決めたんだな。」
「はい。」
答えは確かな決意に満ちていた。



「ああ、逃げられましたね。」
数刻後、戻った星史郎は、蛻の殻となった部屋を見て溜息を零した。
床に血が落ちていた。彼は、上手く飲ませられた様だ。余分に届けさせた包帯が無くなっている所を見ると、また旅に出たのだろう。
足元で従順な式神が小さく鳴く。星史郎は微笑を浮かべて首を小さく横に振った。
「いえ、血がもう乾いていますから、追っても無駄でしょう。掃除だけお願いします。」
式神はまた小さく鳴いて、雑巾を取りに部屋を出て行った。
一人残った星史郎は、ふと床の上の落ちている桜に気が付いた。黒鋼がファイにやった物だろう。其の枝をそっと拾い上げる。花弁は全て落ちてしまって、一枚も残っていない。
花を失くした枝は、一人遺された自分に重なって見えて。
「まあ・・・予想はしていたんですが・・・」
自嘲混じりの苦笑を浮かべて、星史郎は庭に降りた。手にした枝を落として踏んでも、頭上の桜は咲き誇ったまま。
吹き込んだ風はそのまま吹き抜けて、此処の季節はまだ変わらない。自分と同じ瞳をしていると、飾ろうとした“花”だけ攫って行った。“花”はきっと、彼の元で美しく咲き続けるのだろう。
「僕は・・・また一人きりだ・・・」
一本の桜に触れて、其のまま其の根元に膝を付く。けれど、大丈夫だとでも言うかの様に、項垂れた星史郎の髪を、何時もより優しい風が揺らした。





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次で最終話。掲載時の都合でエリョ有りとエリョ無しに分かれてるので、年齢とお好みに合わせてお進みください。


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