高等な生き物に不必要なものが見えないのなら
きっとこの世で最も盲目なのは神なのだろう

神もまた夢を見ている
絶対者の夢を



Hakenkreuz \.悪魔 ガ 泣ク 夜




夜中に目を覚ました神威が再び眠りに落ちると、スバルが室内から封真を呼んだ。
神威を抱いたまま、封真は室内に侵入する。

「何だ?」
「神威の・・・側に居たいんだ。」

主の命に忠実な使い魔は、この家に来てから殆ど神威に触れていない。
封真が部屋の隅に神威を抱いて座ると、スバルは神威を起こさぬよう、静かに膝の上に乗った。

「もう限界か?」

封真が問う。
スバルは目を細めて封真を見上げる。

「何でも、分かるんだな・・」
「まさか。見ていたから、知ってるだけだ。」
「何を・・・?」
「『昴流』が死ぬところ。」

スバルのひげが、ピクリと動いた。

「『昴流』・・・」
「覚えはあるんだろう?その名を受け入れたという事は。」
「見てたのか・・・」
「始めから全部。神威が、罪を犯すまで。」
「じゃあ、『とても綺麗な魂の人』は・・・」
「神が用意した舞台だとしたら、なかなか面白いシナリオだな。」

しかし封真の笑みには嘲りがこもる。

「神でさえ予期しなかったというなら、世界という名の奴の箱庭は、案外狭いという事だ。」





悪魔にとってのきっかけは、2週間前に見つけた男の魂。
名はなんといったか。
彼自身の名前より、彼が何度も口にした、誰かの名前の方が記憶に鮮明だ。
『昴流』
その名を持つものを愛した男は、地獄に行くと言いながら、なかなか地上から離れようとしなかった。

「いつまでそうしてるつもりです?彼が気になるなら、悪魔になってから戻ってくればいいでしょう。」

彼は地上に遺した昴流が気になるらしい。

「でも、彼ももう、長くないですから。出来れば一緒に。」
「まだ若いのに。病気でもあるんですか?」
「いいえ。でも、僕を亡くして、生きていられる筈がない。」
「そうですか。」

ある意味病気だ。確かに、魂が抜けたような顔をしてはいるが。
まあ気の済むまで付き合ってやろう。
生きていられないのと、地獄へ行けるのとは別物だが。



猫は、ある場所へ向かっていた。人間は知らない、猫達の秘密の場所。
定められた時期が来たら、猫達が向かわなければならない場所。
まだ少し早かったが、そこでのんびりそのときを待つのもいいだろうと。



運命がぶつかる。
猫は道路を横切ろうとして、昴流は誰かと歩道を歩いていた。
交通量の少ない交差点に、突然クラクションが鳴り響く。
あまり速度を落さずに角を曲がってきたトラックが、そこにいた猫を威嚇した。
ブレーキが間に合わない。
猫は怯んだ。
昴流は車道に飛び出した。
そして、衝突音。



「自殺でもするのかと思ったのに。」

意外そうに悪魔が口にしたときには、男の魂はもう隣にはいない。

「こういうときは行動が早いな。」

溜息をついて、後を追う。



昴流は呟いた。
猫だけが聞いていた。

「死ぬんだ・・・地獄に・・・堕ちるかな・・・」

猫は一声鳴いた。
舞い降りた悪魔だけが、その意味を解した。
昴流と一緒に居た誰かが、悲鳴のような声を上げて駆け寄った。

「昴流!昴流っ!!」

その名を、猫は記憶する。
数日後、それが自分の名になるとは思わずに。

昴流は、もう口を開かない。
男は封真を見た、
封真は静かに首を振る。

「残念ながら。」

昴流の魂は見えない。
彼は地獄には行けない。
男は昴流の体の傍らに跪いて、そっと触れ合う事はない唇を重ねた。

「必ず見つけます。君が忘れても。」

二人の別れの言葉に封真は僅かに目を伏せた。
見つけられると信じた姿は、未だ見つからない。
魂を見つけるというのは、思いの他難しい。

「じゃあ、行きましょうか。」

封真は地獄への扉を開き男を呼んだ。



しかしその瞬間、空に白い輝きを見つける。



「・・・・・・・天使・・・?」

それはビルの上に舞い降りて姿を隠した。
けれどそんな筈はない。
悪魔である自分に、天使は見えない筈だ。
しかしそれ故に、確信する。

「神・・・威・・・?」
「封真君?どうしました?」
「すいません、一人で行ってください。」
「え?」
「行けばすぐ誰かいます。扉は勝手に閉まりますから。」

そう言い残して翼を広げる。
祈るような気持ちで、天使が消えたビルの上に舞い降りた。
天使が、手を差し伸べていた。
悪魔には見えないが、そこに魂がいるのだろう。

「昴流を迎えに来たんだ。一緒にエデンに行こう。」
「神威!!」

何年間捜し続けたのか。生前愛したままの姿がそこにあった。
封真は叫んだ。しかし、神威は振り向かない。

「神威・・・?」

がくりと膝が折れる。
状況はすぐに理解できた。

「忘れ・・・たのか・・・?」

天使は忘れてしまうのだ。

「見えないのかっ!?」

不必要なものはその目には映らない。

「神威っ!!!」

喉の奥から、慟哭と、神を呪う言葉が止め処なく溢れた。
その間に、神威の戸惑った声を聞く。

「無理だ!穢れなき魂は、地獄へは行けない!」
「神威・・・?」

何をしているのだろう。天使が、魂を連れて行くのに手こずるなんて。」
そういえば、魂は昴流と呼ばれていた。
あの男が愛し、共に地獄へと願った彼だ。
神はまるで、地獄へ赴くものたちを罰するかのように、愛しい者達を天に連れ去る。
それでも、それに逆らって、同じ場所に行こうとしているのか。

神威は数日に渡り説得を続けた。
封真はただその姿を見ていたくて、ずっとその側にいた。
天使が何か出来るなど思っていなかった。
しかし神威は自ら罪に手を汚し、昴流の魂を、穢した。
次の瞬間。

「悪・・・魔・・・・・」

神威が、封真の方を見て驚愕に目を見開く。
見えているのだ。
記憶も求めて、確かめる。

「お前の名は?」
「あ・・・悪魔に教える名前なんてないっ!」

強い祈りを込めた眼差しに、返されたのは敵対心。
神の呪縛から、天使が逃れることはない。
ではどうして、見えるのだろう。

(悪魔を求めたのか・・・)

罪を選ぶあの瞬間に。
彼は解っているのだろうか。この選択がどれほど大きな罪か。

「それなら、俺の名前を教えてやろう。」

天を追われ孤独に苦しんだら、その名を呼んで求めて欲しい。
思い出してもらえなくても、せめて一人で泣かせはしない。
届かなくても、愛している。

「俺の名前は――封真。」







「『昴流』は、地獄に堕ちると言っていた・・・」
「お前を助けて死んだ馬鹿な人間に、地獄に行って礼でも言うつもりだったか?」
「それもある・・・。あと、できれば・・・命を・・・」

一匹の猫の短い命のために死なせてしまった。
一緒に居た誰かは泣いていた。
だからせめて、彼から奪った分だけでも、命を。

「悪魔は、使い魔に永遠の命を与えると聞いた・・・」
「今もまだ、それを望むのか。」
「できる事なら・・・」
「『昴流』のために?」
「いや・・・今は・・・神威の側にいるために・・・」

永遠の命を求めて悪魔の使い魔になりたいと言った猫。
猫の願いを叶えるために悪魔になると言った天使。
猫の目的はいつの間にか天使の側にいることに代わっていて。

「悪魔が猫を使い魔にするというのは出鱈目だ。永遠の命も与えない。」
「ああ・・・。分かってる・・・。」

初めて封真にあった日に察した。
だから本当はとっくに、神威の側にいる理由などなかったのだろう。
けれど彼はそれでも、悪魔になってくれると言ったから。
離れられなくて。離れたくなくて。

「でももう・・・時間だから・・・。」

スバルは背伸びして、神威の頬を舐めた。

「『昴流』は死を望んでいた。お前はいい大義名分だった。気に病むな。」
「悪魔が、そんな優しい言葉を口にしていいのか?」
「悪魔は、誰かを愛した者がなるものだ。」
「じゃあ・・・いつか人に生まれることがあったら・・・悪魔になれるような生を・・・。」

夜明けが近い。
スバルは神威の膝から降りた。

「もう行かないと。」

あの日、向かっていた場所へ。
人は知らない、猫達だけの秘密の場所。
早めに着くつもりだったのに、随分遅くなってしまった。
最後の一夜を、膝の上で過ごした事。神威は夢の中で、少しでも感じてくれただろうか。
寂しい想いをさせるだろうか。
温もりが消えてから目覚めて欲しい。
そしてその前に、あの場所へ。



「窓を、開けてくれないか・・・。」





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