存在に永遠が許される場所がエデンだというのならば
彼を深く刻み込んだこの胸が彼のエデン




Hakenkreuz ].天使 ガ 歌ウ 詩




「窓を開けてくれないか。もう、行かないと。」

スバルは、神威の膝から降りた。
封真は神威を起こさぬようそっと床に降ろして、スバルの願いを叶えてやる。

「間に合うか?」
「さあ、どうだろうな。」
「送ってやろうか。」
「いや・・・神威を、独りにしないでやってくれ。間に合わなくても、立ち止まるのは、空から見えない場所で。」
「・・・そうだな。」

スバルは、開いた窓から外に出ようとして、一度だけ封真を振り返った。

「神威に伝えてくれないか。ありがとう・・・すまないと。」
「分かった。」

スバルは笑ったのだろう、僅かに目を細めて、軽やかな動きで窓から離れた。
黒い体はすぐに、夜明け前の闇の中に消えた。
窓を閉めると、封真はまた神威を抱く。
どうか今日は、その眠りが少しでも長く続くようにと。


けれど、朝は訪れる。


「ん・・・」

日の光が差し込むと、神威は小さく身じろいで、ゆっくりと目を開けた。

「・・・・・・おはよう。」
「お・・・はよ・・・?」

封真が、いつになく神妙な顔をしている。

「封真・・・?」
「ん?」
「どうか・・・したのか・・・?」

何か、胸騒ぎがする。

「どうしたと思う?」
「・・・・・・・・・」

神威ははっと周りを見回した。
スバルがいるはずの室内だ。
部屋の主の少女はまだベッドの中。
いつもならスバルもその中にいるのに。


「スバル・・・?」

気配がない。部屋の中にも家の中にも。

「スバルはっ!?」
「・・・・・・行った。」
「え・・・?」
「お前に、礼と、謝罪を伝えてくれと。」
「・・・な・・・なんで・・・?どこにっ!?」
「前に一度、言ったはずだ。猫は・・・」

封真は、神威を胸に抱きしめた。
伝える真実の残酷さが、彼に与えるショックが少しでも和らぐようにと。

「猫は、死期が近付くと、姿を消すんだ。」
「っ・・・・・・」




あの日、猫はある場所に向かっていた。
猫の墓場と呼ばれる、人間達は知らない場所。
道半ばで命尽きようとした時、助けてくれた人間に、猫はこう言ったのだ。

『ここでも良かったのに・・・』

悪魔だけがその言葉を聞き、悪魔だけがその意味を解した。
一匹の猫の、残り数日しかない命のために死なせてしまった。
生きてすることもなく、早めに死に場所へ行こうとしていたのに。
無意味なはずの生のために死なせてしまった。
生を望む理由が出来た。
けれど時間は止まらない。



神威は封真の腕の中でしばらく体を強張らせた後、ゆっくりと顔を上げた。
そして、見つめた悪魔の瞳の中に、真実の光を見つけて、拒んだ。

「嘘だっ!!」
「神威・・・」
「嘘だ!スバルがそんなっ・・・そんなわけないっ!!」

封真が言ったのだ。悪魔の言動を、いちいち真に受けるなと。
神威は部屋を飛び出して、翼を広げ宙を舞った。

「スバルッ・・・スバルッ!!」

大声で名を呼びながら、空から地上を探す。
無駄だ。
そう知りながら、神威の気が済むまで、封真は無言で付き従った。

始めて出会ったビルの上。
封真を呼び出した病院の裏。
スバルと行った事もない場所。
一匹の猫が、歩いて行ける範囲を越えても。

世界は、一匹の猫の小さな体を見つけ出すにはあまりにも広くて。
秩序は、神に背いたものにあまりにも無情だ。
どんなに飛び回っても、体どころか魂すらも見つけ出せずに。
神威は始まりのビルの上に戻ってきて、ようやく翼をたたんだ。



「どうして・・・」

初めて、涙が頬を流れた。
それは、受け入れがたい現実を、認めざるをえない敗北の証。
封真は背後から神威を抱きしめた。
神の力に抗う術など持たなくても、せめて一人で泣かせはしない。
スバルの最後の望みだ。独りにしないでやってくれと。
言われるまでもない。
忘れられても、拒まれてもなお、そのためにここに居たのだから。

「どうして・・・魂も・・・見つからないんだ・・・」
「・・・連れて行ける魂しか見えない。スバルは・・・エデンには行けない。」
「どうしてっ・・・あんなに・・・優しくしてくれたのにっ・・・!」

神威の涙が封真の手を濡らした。

「側にいてくれた・・・俺が・・・寂しいって知ってて・・・」
「そうだな・・・。」
「天使は悪魔になれないって言われても・・・側に・・・いてくれたのにっ・・・」
「ああ、そうだな。」
「俺・・・救われたんだっ・・・スバルに・・・スバルがいなかったらっ・・・俺はっ・・・」
「ああ。分かってる・・・分かってる・・・。」
「じゃあどうしてスバルはっ・・・!!」
「・・・・・・」

悪魔の言動を、いちいち真に受けるなというなら、その言葉をこそ、疑われるべきだ。
悪魔は神ではないから、神のように、夢を見せる事ができない。
こんなときに、現実しか、突きつけることが出来ない。

「神が定めた法は・・・神しか知らないんだ・・・」
「っ・・・・・」

本当は誰も知らないのだ。
天使より少し神を知る悪魔でさえも、全てをは知らない。
どんな魂が綺麗でどんな魂が穢れているのか。
何が罪で何が罰なのか。
何が裏切りで何が懺悔なのか。
何が必要で何が必要でなくて。
何を見るべきで何を見るべきでないのかも。
ただ一つだけ確かな事は、神が定めた法は神に逆らうものにどこまでも厳しく。
一度法を犯せば、一片の夢すらも見せてはくれないという事。

けれど、神にはできなくて、天使にできる事がある。

「泣いてやれ。」

その声は無力で無意味でも。

「スバルには届く。きっと。」
「っ・・・」

封真の腕の中で、神威は声をあげて泣いた。



価値無きもののために流す涙が、天使の罪を増しはしないだろう。
その涙すらも、神には無価値だ。



神威は泣き続けた。
泣き疲れては眠り、目を覚ましてはまた泣いた。
声をあげる事に疲れ、しゃくりあげるものに変わっても、涙は止まる事はなく。
共に過ごした時間を埋めるにはその一滴は小さすぎて。
けれど一匹の猫が生きた時間を悼むには十分な時間が過ぎて。

何度目かの目覚めの後、神威は歌を口ずさんだ。
清らかなる魂の平安を神に祈る天上のレクイエム。
そこにいる誰かに囁くように。
けれど神には聞こえぬように。


しかし神の名を呼ぶくだりで不意に歌は途切れて。


神威は封真の肩に顔を埋めて。


もう一度だけ、泣いた。





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