この世に絶対などありはしないのに
絶対を定める神の法は哀しいほどに盲目





Hakenkreuz [.神 ガ 閉ジタ 扉




夢を見た。あの日の夢。
背の翼はまだ白くて、神の命を受けて地上に魂を迎えに降りた日。
まさか、そのまま帰れなくなるとは思わずに。

「貴方が『昴流』?」

その魂は、高いビルの上から、ぼんやりと地上を眺めていた。
近付いただけでも分かる、とても綺麗な魂。

「君は・・・天使・・・?」

『昴流』という名の魂は、やはりぼんやりと神威を見上げた。
まだ意識がはっきりしないのかもしれない。体から抜けたばかりの魂にはよくあることだ。

「俺は神威。神様の命で、昴流を迎えに来たんだ。一緒にエデンに行こう。」
「エデン・・・天国の事かな・・・」
「この国の人間は、そう呼んでたと思う。」
「死んだ人間は・・・皆そこへ行くの・・・?」
「ううん。選ばれた、ほんの一握りの人間だけ。昴流の魂はとても綺麗だから。」
「・・・・・・・」

綺麗だという言葉に不思議そうな表情を浮かべた昴流は、しかし別のことを訊く。

「会いたい人がいるんだ・・・。彼はそこにいるかな・・・。」

告げられた名は、神威の記憶にはなかった。

「エデンに来る魂は、本当にほんの少しなんだ。最近の人なら覚えてると思うけど・・・」
「亡くなったのは、2週間くらい前かな・・・」
「・・・最後にエデンに人が来たのは4ヶ月前だ。」
「・・・・・・そう・・・」

昴流は静かに目を伏せた。

「昴流・・・?」

余程、大切な人だったのだろうか。
けれど、昴流がエデンに召される事に変わりはない。
神威は手を差し出した。

「行こう・・・?」
「・・・・・・天国に行けない人間はどこへ行くの・・・?」
「え・・・地獄・・・だけど・・・」

天使はそれが、間違った知識だとは知らない。
昴流は目を伏せたまま、言った。

「じゃあ、僕は地獄へ行く。」

それは、今までとは違う、はっきりと意志のこもった言葉。
神威は目を見開く。

「な・・何言ってるんだ!?地獄なんて・・・!とても、穢れた邪悪な世界なのに!」
「構わない。迎えに来てくれたのに、ごめんね。」
「無理だ!穢れなき魂は、地獄へは行けない!」
「どうして?」
「どう・・・してって・・・・・・」

言われててみれば、確かに、行けないという確かな理由はなくて。
前例がないだけなのかもしれない。けれど

「地獄の場所・・・分からないだろ・・・?」
「地獄からの迎えは来ないの?悪魔とか。」
「昴流みたいな綺麗な魂は・・・迎えに来ないと思う・・・。」
「・・・ここで待ってる。いつまででも。」
「昴流・・・」


そのときまで、神の言葉は絶対だった。少なくとも、そう信じていた。
だから、確固たる意志を持って神を否定する人間を、どう説得すればいいかなど分からなくて。
神威は途方にくれるしかなかった。



地上で2度、夜が明けた。
エデンには行こうとせず、じっと悪魔を待ち続ける昴流の横で、神威も昴流の気が変わるのを待っていた。
けれど、自分からは一言も発せず、ただ一点だけを見つめ続ける昴流の横顔を伺うたびに、彼の意志の固さを知る。
そしてそれ以上に、エデンに連れて行くことが、本当に彼の幸せになるのだろうかと。
でも、それが仕事だ。
昴流は地獄に行きたがったから、地上に置いて来たとは神には言えない。

「昴流・・・エデンに行こう・・・?」
「・・・ごめんね・・・」

何度も繰り返した言葉に、昴流もまた同じ言葉を返した。

ずっと俯いているのは、もしかすると、地獄を見つめているのだろうか。
地獄もエデンと同じく異界のはずだから、上下の観念で語れるものではないと思うが。

「神威・・・」
「あ、な、何だ?」

不意に声を掛けられて、神威は慌てて意識を引き戻す。
けれど、昴流はまだどこかを見つめたまま。

「魂が綺麗って、どういうことだろう・・・」
「え・・・?」
「僕は・・・自分の魂が綺麗だとは・・・思えないんだけど・・・」
「そんな・・・!こんなに綺麗なのに!!」
「でも、生前、善行を重ねたわけでもない。人を傷付けた事だってあると思う。
 あの人を亡くしてからは・・・後を追う事ばかり考えてた・・・。
 自分で死んだわけじゃないけど、それに近かったと思う。
 死ぬんだって思ったとき・・・悲しむ人がいることは分かってたのに、嬉しかった・・・。」
「その・・・善行とかって・・・人間の基準だから・・・。どう生きてどう死んだかって、あんまり関係ないと思う・・・。」

そう言いながら、エデンでの善行の基準を考えてみた。
何も分からなかった。
ただ、いくつかの罪を知っている。
エデンで、絶対にしてはならないいくつかのこと。

「少なくとも・・・昴流の魂は、罪に穢れてないから・・・」
「・・・罪に穢れたら地獄に行ける・・・?」
「え・・・」
「天国では、何が罪になるのかな・・・」
「昴流、それはっ・・・」
「神威・・・僕は地獄に行きたい・・・。穢れたいんだ・・・知ってるなら・・・お願いだから・・・」
「昴流・・・」

こんな、苦しそうな顔をするなんて。

「エデンには、悲しみも苦しみもない。絶え間なく、幸福だけが与えられるのに・・・」
「それでも、あの人が居ないなら、地獄と同じなんだ・・・」


そのときまで、神の言葉は絶対だった。少なくとも、そう信じていた。
けれど、神が定義する幸福は、昴流の幸福ではないのだ。


「・・・最大の罪は・・・神様に逆らう事・・・」

叶えてやりたいと思った。こんなに、苦しいのなら。

「2番目の罪は・・・天使を傷付ける事だ・・・。」

神が作り上げた世界秩序の中で、神の使いたる天使は、神に次いで高貴な存在。
今ここで昴流が犯すことの出来る最大の罪は、それを傷付ける事。

神の使いは、他者を傷つけるための凶器を持たない。神威は衣服の装飾品の金具を外した。
釣り針のような形状の鋭く尖ったそれなら、皮膚を裂き、血を流す事くらいなら可能だろう。

「神威・・」
「天使の傷は、神様の加護の力ですぐ塞がるんだ。痛みは、一瞬だけだから。」
「・・・・・・・・・ごめんね・・・」

昴流は神威から金具を受け取った。
そして、神威が差し出した腕に、当てる。

「深い方がいいと思う。思いっきり。」
「うん・・・ごめんね・・・」

ぶつりと、金属が腕に刺さった。そしてそのまま肉を裂く。
そのために作られたものではない物体による切り傷は、想像以上の激痛を伴い、神威は歯を食いしばった。
一筋流れた血が昴流の指を――魂を、穢す。
この時だけは悪魔に祈った。迎えに来てやって欲しいと。
その祈りが通じたのか、突然、二人の上に黒い影が落ちる。

「っ!!」

見上げると、いつか本で見たとおりの、黒い翼を持つ生き物がいた。

「悪・・・魔・・・・・」

初めて現実に目にしたその姿に、神威は怯え後ずさった。
悪魔は、それまでの状況をすべて見ていたかのような顔で笑う。

「その血で魂を穢すとはな。この魂、俺が地獄へ導こう。」

そして、鋭い眼差しを神威に向けて、神威に名を求めた。

「お前の名は?」
「あ・・・悪魔に教える名前なんてないっ!」

神威は拒んだ。
刹那、祈りを捧げはしたけれど、悪魔は宿敵、神に仇なすものだ。

「そうか。それなら、俺の名前を教えてやろう。俺の名前は・・・」
「悪魔の名前なんて知りたくもない!!」

そう叫んで舞い上がる。
これでもう、地上で成すべき事はない。
昴流はもう、エデンには行けないから。

しかし自分の声の中に、確かに彼の言葉を聞き取る。
『封真』
その名は、無意識に記憶の奥底に刻まれた。

飛び去ろうとする神威の背に、昴流が一言、叫んだ。

「ありがとうっ!!」

振り返ると、出会って初めて、昴流が笑っていた。
だからきっと、これで良かったのだ。



しかし神は、天使の帰還を許さなかった。



『私の意に逆らい、魂を故意に穢したな。』

神に逆らうのは、最も重い罪。

『罪に穢れし天の使いよ。この聖なる地に踏み入ることはならぬ。
 罪の証の黒き翼を背負い、その罪が浄化される日まで、人の世界で生きるが良い。』

神は、声だけでそう告げた。






目が覚めると、また封真の腕の中にいた。

「どうした?まだ夜中だぞ?」
「・・・昴流は・・・・・・」
「ん?」
「昴流は・・・会いたかった人に・・・会えたのか・・・?」
「ああ。」

封真の手が髪を撫でる。大丈夫だと。

「そうか・・・良かった・・・・・・」

ほっと小さく息を吐いて、神威はまた目を閉じた。

間違ってはいない。たとえ罪でも。
何度やり直しても自分は、また同じ道を選ぶだろう。
だから、赦しなど、永遠に訪れないと思う。

逆らうつもりなどないのに、変われない自分を懺悔する。



「ごめんなさい・・・神様・・・・・・」






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