『高等な生き物』には不必要な物は見えない。
それは誰にとっての不必要で、誰が強いた盲目なのだろうか。




Hakenkreuz Y.悪魔 ガ 見タ 夢




月が昇った。
封真が目覚めるのと入れ替わるように神威が眠りに落ちて、体はまだ封真の腕の中。
規則的な寝息が不意に乱れる。

「う・・・・」
「神威・・・?」
「・・・め・・・なさ・・・ごめ・・・なさい・・・・・・神様・・・」
「・・・・・・」

また、同じ夢を見ている。神に謝罪し続ける夢。
何を謝っているのだろう。
過去に犯した罪か。
それとも現在の裏切りか。

「・・・大丈夫だ・・・お前は悪くない・・・」

そう言って背を撫でてやっても、今日は呼吸が落ち着かない。
封真はそっと神威の体を抱き上げると、静かに宙を舞って、音もなく室内に着地した。
部屋の主である少女のベッドに連れ込まれていたスバルが、少女の眠りを妨げないように、そっとベッドから抜け出してきた。

「どうかしたのか?」
「寝苦しいらしい。この家、どこか横になれる場所はあるか?空いたベッドか・・・ソファでもいい。」
「ソファなら一階にあったが・・・」
「案内しろ。」

封真は神威を抱いたまま器用に部屋の扉を開けた。
先に立って階段を下りながら、スバルが後ろを振り返る。

「天使に寝苦しいとかあるのか・・・?」
「さあな。だが、横になって寝た方が、楽な気がしないか?」

悪魔の価値観に同意を求められてもと困惑すると同時に、スバルはそれが、それほど突拍子もないものではないことに気付く。
思えば封真はいつもそうだ。
神威に比べれば、ずっと、共感を持てることを言う。

「人間じみてるよな・・・悪魔のくせに・・・。」
「俺は、元は人間だからな。」
「そうなのか・・・?」
「ああ。天使も悪魔も、人の魂から作られるんだ。この部屋か?」
「あ、ああ。」

封真は扉を開けて部屋に入った。
神威と二人だけなら現世の物質はすり抜けられるだろうに、わざわざ開けたという事は入って来いと言うことなのだろう。スバルも後に続く。
リビングの壁際に、長めのソファがあった。
封真はその上にそっと神威を降ろす。
この世の質量の概念から外れた体はソファに沈むことはなかったが、横になると神威の寝息が少し穏やかになった気がした。
その眠りを妨げないように、スバルはそっと口を開く。

「じゃあ、神威も元は人間か・・・?」
「ああ。だが天使は忘れてしまう。神の使いになるのに、人として生きたときの想いは必要ないから。
 迎えに行った魂が天使になっても、姿も名前も同じなのに、それにすら気付かない。
 古の堕天使が天使の作り方を知っていたから、昔の天使はここまで無知ではなかったんだろうが・・・。」

以前封真は言った。
『高等な生き物』は、不必要なものは見えないのだと。

「一度の裏切りの後、神は天使を変えてしまった。
 より盲目に。より鈍感に。
 神に不信の念など抱かないように。
 世界の秩序に疑問など持たないように。
 与えられた幸せを享受して、神に忠誠を誓う様に。」

悪魔は知っている。人も天使も知らない魂の歴史。



昔、エデンには住人がいた。彼らがどんな姿をしていたのかは知らない。
ある日彼らは神の言いつけに背いた。それがどんなものだったのかも知らない。
だが、人が創った創世記で語られるような、ほんの些細な事だったのだろうと思う。
彼らはエデンを追われ、地上に堕とされ、老いと死に怯えながら短い生を生きる肉体を与えられた。
何度も生を繰り返し、過去の罪が清められたものだけが、赦されて天に還り再び永遠の命を与えられる。

或いは人も、知っているのかもしれない。
人が創った創世の物語が神の楽園をエデンの名で語るのは、遠い記憶が、魂に刻まれているからではないだろうか。
だとすれば、何も知らないのは天使だけだ。



「天使たちは罪のことまで忘れてしまったから、綺麗な魂の人間が天に召されると言う。神は夢を見せるのが上手いんだ。」
「悪魔は忘れないのか?人だった時間を。」
「ああ。最後に生きた生は覚えている。
 悪魔は、もう少しでエデンに行けた魂から作られる。
 天使の言葉で言うなら、ほんの少しだけ穢れた魂といったところか。
 地獄を選んだことで、もう二度と、エデンには行けないが。」
「選んだ?」
「ああ。天使は強制だが、悪魔は拒む事ができる。
 もう一度やり直せば、エデンに行けるかもしれないんだ。そっちを選ぶものも多い。」
「神威は、天国に行かない人間は地獄に行くと言っていた。」
「エデンの作り話だろう。地獄にいける人間も、エデンに行ける人間と同じくほんの僅かだ。
 殆どの人間は、エデンにも地獄にも行けずにやり直しだ。」

それが本当なら、悪魔は決して邪悪な存在ではない。
とても天使に近くて、彼らより少しだけ、人に近い。
それなのに、どうしてこんなにかけ離れてしまうのだろう。

「やり直せば天使になれるかもしれないと、分かっていて悪魔を選んだのか・・・?」
「ああ。悪魔の事、天使の事、人の事、神の事。地獄へ迎える前に全て説明するのが俺たちのルールだ。」
「じゃあどうして、悪魔を選んだんだ・・・?」
「・・・・・・忘れたくない奴がいたんだ。」





死の瞬間のことはよく覚えていない。しかしその寸前までは、とても幸せだった事を覚えている。
一生で最も深く愛した人と一緒に居た。その筈だったのに。

『封真君?目を開けてくれないかな。もうどこも、痛くないはずだよ?』
『・・・・・・?』

いつの間に眠ったのだろう。柔らかい男性の声に目を開けると、自分を覗き込んでいたのは見知らぬ男。
背中に、黒光りする大きな翼が生えていた。

『っ・・・!』
『ああ。怖がらないで。確かに僕は悪魔だけど、きっと君達が思っているようなものじゃない。』

男は、封真が悪魔に抱いていたイメージには程遠い、優しい笑顔を浮かべる。

『僕は遊人。君を迎えに来たんだ。
 でも君には二つの選択肢がある。
 どちらを選ぶか、これから僕の話を聞いて、よく考えて決めて欲しい。』
『ちょ、ちょっと待って下さい、俺は・・・死んだんですか・・・?』
『覚えてない?酷い事故だったから、ショックで忘れてしまったのかな。』
『事故・・・』

言われてみればぼんやりと思い出せる。
あの瞬間、何が起きたのか分からなくて。
それでもとっさに、

『抱きしめた・・・』
『ん?』
『あいつはっ!?俺と一緒に居た・・・無事なんですか!?』
『・・・僕達は連れて行ける魂しか見えないから。たくさんの人が死んだけど、連れて行けるのは君だけだった。
 捜したいなら探すといい。時間はある。僕の話を聞くのは、落ち着いてからでいいよ。』





「生きてたのか・・・?」
「ああ。病院のベッドの上にいた。俺が庇ったから即死は免れたが、意識は戻らないまま3日後に。」

その間、枕元で遊人の話を聞きながら、一緒に地獄に行けるようにと願っていた。
生きている時は何があっても守りたいと思っていたのに、自分が死んだ今は引き離される事が何より辛くて。
もしも立場が逆だったら、自分は無事に生きて幸せになるようにと願われただろうに。
永遠の愛を求めて地獄に手を伸ばす。
そんな自分だったから、エデンには行けなかったのだろう。
そして、願いも叶わなかった。




『天に召される魂は極稀だ。もう一度地上に生まれ変わる確率のほうが高い。
 ただ、どちらにしても、記憶はなくしてしまうけど。
 魂の絆を信じるなら、悪魔になって探して見るのもいいかもしれない。
 強く想えば、姿が変わってしまっても判るはずだ。
 人になれば君も忘れてしまうから、悲しみも消えるけれど・・・』
『・・・連れて行ってください・・・。俺は・・・もう一度あいつに会いたい・・・』
『・・・後戻りは出来ないよ?』
『それでも・・・忘れたくないんです・・・。』




「・・・・・今も捜しているのか・・・?」
「・・・・・・いいや。」

封真は神威の手を引き寄せて口付けた。
その動作で、スバルは初めて、封真がずっとその手を握っていた事を知る。

「・・・まさか・・・」
「もしも立場が逆だったら・・・こいつはあの日枕元で、俺の無事を願っただろう・・・。
 想う気持ちは同じなのに、俺たちは決定的に違った・・・。」

その違いが、天使の言う魂の美しさの違いなのかは分からない。
そしてたとえその差が、二人を別ったのだとしても。

「天使は忘れてしまうんだ・・・・」

封真は握り締めた神威の手を、自分の額に押し当てた。
神への祈りに似た姿は、あの日、地獄を求めるという罪を犯したことへの懺悔。

「話せば、思い出すかもしれない・・・」
「神の力がそんなに甘いはずがないだろう。
 良いんだ。話して、思い出せなければ、苦しめる事になる。」

天使は忘れてしまうから。
引き離された事で、彼が苦しんではいない。

「だから・・・良いんだ。」

封真は顔を上げてスバルを見る。
泣いているのかと思ったが、その目に涙はなかった。

「そろそろ戻れ。あの子が起きると、大騒ぎするぞ。」
「・・・・・・ああ。」

封真に促されて、スバルは静かに部屋に戻った。




神威と二人になった封真は、そっと神威の額に口付けた。
神威の寝息は今は完全に落ち着いて、意識は深い眠りの中。

聞こえていないからこそ口にする。

「お休み・・・愛してる・・・。」



もしもこれが、あの日の罪に神が与えた罰だとしても。
懺悔するなら神にではなく、何よりも愛しいこの天使に。







               BACK           NEXT