初め、全ては闇であった。
神は『世界』と名付けた場所を、支配の光で満たされた。





Hakenkreuz V.悪魔ガ 語ル 過去





「あ・・・・・あ・・くま・・・」

神威は怯えて目を見開く。

「呼び出しておいてその態度はないだろう。せめて名で呼べ。」
「よ・・・呼び出す・・・つもりじゃ・・・」
「だが名を呼んだ。確かな願いを込めて。契約の第一段階だ。」
「契・・・約・・・?」
「悪魔は代価と引き換えに、呼び出した者の願いを叶える。
 俺はお前の声に応えた。まずは代価としてお前の名を。」
「・・・・・」

人は時に、悪魔と契約を結ぶ事があるという。
けれど天使が悪魔と契約なんて。

「神様への・・・裏切りだ・・・」
「お前、その姿でまだ、神に義理立てするのか?」
「っ・・・」

悪魔は知っているのだ。黒く染まった翼の意味。

「さあ、お前の名を。」



「神威・・・?」



「っ・・・!スバル・・・」
「どうした?何かあったのか?」

眠りから覚めたスバルが、神威の膝に乗る。
封真は、思いがけない場所から手に入れた響きを、満足気に繰り返した。

「『神威』」
「あ・・・」
「願いを。ただし悪魔への代価が願いと同等だと思うな。命か、血か肉体か。何を求められても後悔はするな。」
「っ・・・・・・」

脅す言葉にごくりと喉が鳴る。
しかし、今更何を怯える事があるだろうか。
悪魔になればもう、エデンに戻る事はないのだ。
地獄は、最初の悪魔が創った、神の怒りの届かない国。
神の罰に比べれば、悪魔への代価ぐらい。

「悪魔になりたいんだ・・・」

神威は、覚悟を決めて封真を見据える。

「最初の悪魔が、どうやって悪魔になったのか教えて欲しい。」
「・・・相変わらず、変わった事を言い出す天使だな。何のためにそんなことを?」
「スバルを・・・使い魔にするんだ・・。」
「スバル・・・その猫の事か?」

封真は神威の膝の上の猫を見下ろす。
スバルは、神威を見上げて訊いた。

「悪魔がいるのか?」

「・・・・・・え・・・?」
「悪魔を、呼び出せたのか!?」

何を言っているのだろう。困惑する神威を嘲笑って、封真がスバルに手を伸ばす。

「猫に俺が見える筈がないだろう。」
「っ!何をっ・・・」
「見えるようにしてやるだけだ。」

封真がスバルの頭上に翳した手を引くと、スバルは何かの気配を感じ取ったのか振り返って、初めて封真の姿を瞳に映し、大きく目を見開いた。

「見えたようだな。」
「スバル!大丈夫か!?」
「あ・・・ああ・・・」

体に異常はないらしい。ただただ、初めて見る悪魔の姿に驚いただけ。

「でも・・・見えないって・・・どうして・・・?」

神威が疑問を口にすると、封真はそれが当然だといった。

「地上のもので悪魔が見えるのは、地獄に行ける魂だけ。天使が見えるのは、エデンに行ける魂だけだ。」
「でも、スバルは俺を見たっ!」
「お前が望んだんじゃないのか?誰かに見つけて欲しいと。」
「あ・・・」

確かにあの時は、地上に堕とされたばかりで、孤独への恐怖に震えていて。
それが今封真がしたように、たまたま側を通りかかっただけのただの猫に自分の姿を。

「で・・・でもっ!俺は力をなくしてるんだ!魂も見えなかった・・・!」
「何も知らないんだな。天使が見るのは、エデンに連れて行くべき魂だけだ。」
「え・・・?」
「悪魔も同様。俺達は『高等な生き物』だから、不必要なもの、見る必要がないものは、見えないように出来ている。」
「・・・・・・」

確かにこれまで、迎えに行くように神に指示された魂にしか、会ったことがなかった。
何人もの人間が一度に死ぬような場所に降りていったこともあるのに。
自分が用のない魂には一度も。

「じゃあ・・・悪魔が・・・猫を使い魔にするって言うのは・・・?」
「悪魔を見ることも出来ない生き物がどうやって悪魔に仕えるんだ。
 それは人が創った物語だろう。そんな事実はない。
 猫、お前は知っていたんじゃないのか?自分が使い魔になどなれないこと。」
「スバル・・・?」

神威が顔を向けるとスバルはしばらく俯いて。
そして悲しそうな瞳で神威を見上げた。

「・・・お前に出会う前、何日もここにいた。何人も人間が死んだが、一度も悪魔は来なかった・・・。
 もしかしたら来ないんじゃなく、俺には見えないだけかもしれない。
 俺には使い魔になるための力がないのかもしれない。
 諦めかけたとき、お前に会ったんだ。
 どうせ悪魔が見えないのなら、天使に賭けてみるのも良いかもしれないと思った。」

だから、あんな突拍子もない提案に乗ったのだ。
天使が悪魔になれるなら、ただの猫も悪魔の使い魔になれるかもしれないと。

けれど、微かな希望も、悪魔は容易く打ち壊す。

「もう一つ、天使が悪魔になったという事実もない。」
「えっ・・・!?」
「お前が聞きたいのは、神に逆らい地に堕ちた天使が、悪魔になったという話だろう?
 その天使は悪魔になる前に、地獄の原型となった土地に辿り着く前に死んだ。」

それは、地獄に伝わるもう一つの物語。

「天使は神に逆らい地に堕とされた。しかし天使は、己の所業が過ちだとは思わなかった。
 天使は逃げた。地よりももっと深い場所。神の手から逃れ自分の想いを貫ける場所へ。
 堕ちれば堕ちるほど空気は穢れ、体は侵され、羽根は焼け焦げ、天使は途中で息絶えた。
 だが、天使は自分の遺志を継ぐ者を遺していた。
 神が天使を作るのを真似て、罪に染まった自分の翼と同じ黒い翼を与えた、彼にとっての天使。
 彼らは天使の亡き後も逃げ続けた。そして逃げながら繰り返した。
 最初の者達は天使と同じく息絶えても、神が許さなかった天使の願いを、叶えられる世界を目指して。
 穢れた土地に適応できるように姿を変え、今の悪魔が出来たころ、彼らはついに『理想郷』に辿り着いた。
 神の創った世界の外側。神が創った光が、一切届かない場所。それが、地獄だ。」

エデンに満ちる幸せは全て放棄して、人の世より更に穢れた、けれどたった一つの願いだけは叶う世界。

「天使から悪魔は生まれていない。天使は悪魔にはなれない。」
「そんな・・・じゃあ、エデンに伝わる伝説は!?」
「それは、誰が伝えたものだ?」
「そんなの・・・だって、凄く古い伝説で・・・」
「お前達にとっては伝説でも、神にとっては記憶だろう。」
「・・・・・・何が・・・言いたいんだ・・・」
「覚えておけ。神はこの世で一番、夢を見せるのが上手い。」

「神様を愚弄するなっ!!!」

神威が思わず荒げた声にスバルがびくりと身を竦めたが、封真は微動だにせずただ小さく鼻で笑った。

「悪魔になりたい天使が神の擁護か。」
「っ・・・!!」

確かに矛盾する行動を指摘されて、神威はぐっと言葉に詰まる。
興奮で顔が赤くなっていた。
かまわず封真は繰り返す。

「願いを。天に戻る方法でも教えてやろうか?戻って自分で聞いてみたらどうだ。
 『神様、貴方は嘘つきなんですか』と。」
「っ・・・もういい!悪魔になる方法は俺たちで探す!」
「神威・・・」

「そうか、残念だ。だが何か願いを叶えるまでは、俺はお前から離れないぞ?」
「なっ・・・」
「そういう決まりなんだ。呼び出した以上は、何か願え。」
「・・・地獄に帰れ。それが願いだ。」
「では代価にお前の命を。」
「っ・・・・・・」

あまりに理不尽な要求に神威は言葉をなくした。

「悪魔への代価は願いに同等ではないと言っただろう。俺が気に食わない願いなら、代価も重い。」
「そんなっ・・・」

封真が神威の頬に触れる。
逃げたいのに足が竦んで動かなかった。
封真は察してか、笑みを崩さない。

「何も邪魔をするとは言っていない。ただ側に居るだけだ。
 お前が願うなら、協力も惜しまない。どうする?」

笑っているのに、瞳には有無を言わせぬ威圧感。

「か・・・勝手にしろ・・・」

喉の奥から搾り出すようにやっとそれだけ答えると、封真はすぐに手を離した。




やはり神は嘘などついてはいない。
悪魔は恐ろしくて冷酷な生き物だ。


けれど一つだけ意外なことに


悪魔の掌は温かかった。






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