困惑の二重結合



「あいつはまだ戻ってねえのか?」
昼休み、化学準備室を覗いた黒鋼は、そこで一人待っていたユゥイに尋ねた。
「うん。質問でもされてるのかな?長引いてるみたい。」
「そうか。」
仕方がないので、一人先に弁当を広げる。午後の準備をしなければならないから、待っている時間がない。
「お前はくわねえのか?」
「うん。ファイを待つよ。オレは午後の授業ないし。」
どうぞお先に。そう勧めて、ユゥイはじっと黒鋼の顔を見る。
「なんだ?」
卵焼きを口に運びながら、黒鋼が問う。
「最近、ファイと上手く行ってる?」
「・・・・」
痛いところ突かれて、黒鋼はまだ殆ど噛んでいない卵焼きをごくりと飲み込んだ。たしかに最近ずっと避けられてる気がしている。顔を合わせても、あまり言葉を交わさない。
「うちの可愛い兄に何したんですか、黒鋼先生。」
「何って・・・」
思い当たる事といえば、この間映画の約束を断ったくらいだが。それはちゃんとフォローしたつもりだ。ファイが体調を崩したせいで、したとはいえない形になってしまったけど。
(そんなことをいつまでも引きずるか・・・?)
どうしてこんなにギクシャクしてしまったのだろう。
正直、理由がさっぱり分からない。避けられてるとは言っても、何か怒っているという風でもないし。
「あいつに限って・・・浮気とかねえよな・・・」
「それはないでしょ。悔しいけど、ファイが君にぞっこんなのはオレが保証するよ。」

「黒鋼先生の方はどうなのー?」
突然窓から登場したのは、理事長・侑子先生。
「いらっしゃい、侑子先生。」
「うふふー、良いにおいに誘われてやってきたわよ、この匂いはマドレーヌね!」
「はい。さっき実習で作ったんです。侑子先生もお一つどうぞ。」
「きゃー、ありがとー!」
ユゥイに差し出されたマドレーヌに手を伸ばす侑子に、黒鋼が悪態をつく。
「犬かお前は。」
「あーら、犬はどっちかしらー?こんな薄暗い部屋で恋人以外の人と過ごすなんて、黒鋼先生ったら盛っちゃって汚らわしーv」
「薄暗いのは蛍光灯が一つきれてるせいだ!」
「あらあら、ごまかさなくても大丈夫よ?私、三角関係とか大好物だからv」
「だから違うっ!!」


丁度その頃。
「はーあ・・・」
中庭の木下の座り込んでファイは大きな溜息をついていた。今化学準備室に戻れば、恐らくユゥイと黒鋼が二人でランチタイムだろう。いや、黒鋼は5時間目の授業があるからともかく、ユゥイは自分が戻ってくるのを待っているかもしれない。でも、心の中ではどう思って居るのだろう。
(戻ってこなきゃ良いって思われてるんじゃないかな・・・)
ユゥイが黒鋼を好きなんじゃないかというファイの思い込みは、絶好調続行中。
(戻りづらい・・・いいや、5時間目ないし・・・黒むーがいなくなる時間までここで・・・)
本当に、それで良いのだろうか。もしも黒鋼とユゥイが付き合うことになってしまったとして、自分はずっとこんなことを続けるのだろうか。ユゥイのことも黒鋼の事も避け続けるのだろうか。
(・・・オレも黒様と一緒に居たい・・・)
「ファイ先生?」
不意に、頭上から声が降ってきた。
「何してるんですか?」
見上げると、同じ顔が揃って自分を覗き込んでいた。
「小狼君・・・小龍君・・・」
「お昼ご飯、良かったら一緒に食べませんか?」
「この辺、日当たりが良くて暖かいし。」
「あ、そ、そうだよねー。オレもちょっと日向ぼっこー。」
でもご飯はもう食べちゃった、と笑って誤魔化す。お弁当を取りに、化学準備室に戻る気にはなれない。
「今日はサクラちゃんは一緒じゃないのー?」
「え、えっと・・・」
頬を染めた小狼の代わりに、小龍がはきはきと答える。
「前の時間の美術の作品がまだ仕上がらないみたいで、昼休み返上で塗ってます。」
「そっかー。大変だねー。小狼君は寂しいねー。」
「そ、そんなことは・・・か、帰りは一緒に帰れますし・・・」
「へえー、一緒に帰るんだー。」
「あああああの、それはっ・・・!」
墓穴を掘って耳まで真っ赤にする小狼の横で、小龍が黒い笑みを浮かべている。いつ見ても、ここの双子は微笑ましい。
「いいねー、平和で。」
「ファイ先生は?」
「え?」
「平和じゃないんですか?」
「・・・・・・」
小龍の鋭い問いにファイはしばし言葉を失う。
「うーん・・・どうなんだろう・・・ちょっと、平和じゃないかなあ・・・」
「どんな風に?」
「・・・たとえば・・・たとえばだよ?君たちの好きな人を、もう一人が好きになっちゃったら、君たちはどうするー?」
こんな質問を生徒にして良いんだろうか。そう思いながらも、ファイは二人にそう尋ねてみた。小狼は何かリアルな想像をしてしまったのだろう、途端に悲しそうな顔で小龍を見る。が、小龍は何を考えて居るのか、唇に指を当てて、難しい顔をしている。と思ったら、突然顔を上げて、ファイを真っ直ぐに見つめ、訊いて来た。
「どうしてそんなことを?」
「え・・・ど、どうしてって・・・ちょっと、自信なくしちゃったっていうか・・・ううん、最初から、自信なんてなかったのかな・・・」
「自信?」
「恋愛って・・・パイ結合だと思うんだ・・・。あ、シグマ結合とパイ結合の話はしたっけ?」
突然飛び出した化学用語にも怯まず、化学が得意な小龍が答える。
「シグマ結合はパイ結合より強い結合でしたよね。」
「そう。パイ結合すると二重結合になって分子間距離は小さくなる・・・」
きっと、最初に、友達とか、仲間とか、強いシグマ結合があって、そのうち恋心が芽生えて、弱い結合でもう一度繋がるのだ。二人の距離を近づけるために。
「でも、パイ結合は・・・切れやすい・・・」
ほんの些細な衝撃で、恋が終わってしまうように。

「誰と誰の話をしてるんですか・・・」
「・・・小龍君・・・?」
「ユゥイさんが黒鋼先生に惹かれてて、ファイ先生と黒鋼先生の結合が切れかけてるって言う事ですか。」
「・・・え、ええええ!な、何で知ってるの!?」
生徒には知られていないと思っていた。思っているのは本人達だけだけれど。まあ、何人かの疎い生徒は気付いていないのだが。ちなみに、そのうちの一人は今まさに小龍の横で目を点にしている。
しかしファイの動揺と小狼の驚愕を他所に小龍はただ真剣な顔で何かを考えこんでいて、ファイの質問に答えることはなかった。


「それで、ユゥイ先生は気になってる人はいないのー?」
侑子先生の詮索の矛先はユゥイに向いた。この際、ユゥイに別の相手がいれば、三角関係疑惑はすっきりと解消されるのだが、。黒鋼の期待の眼差しを裏切って、ユゥイは軽く首を振る。
「今のところはそういう人は。」
「ふーん、じゃあ、どういう相手が好み?」
「そうですね・・・好みって言うわけじゃないですけど、昔から、恋をするなら、オレとファイを見分けられる人にしようと決めてます。」
「それって黒鋼先生じゃないー!」
「いいえ。黒鋼先生は、多分、ファイかそうじゃないかが分かるだけだから。ね?」
ユゥイが黒鋼を振り返ると。黒鋼は気まずそうな表情を浮かべた。それが、確かにそうだという証拠だ。
「どんなかっこしてたって、絶対見分けちゃうもんね。ファイが惚れるだけのことはあるよ。」
「そ・・・そうか・・・?」
「やーん、黒鋼先生ったら赤くなっちゃって可愛いーv」
「うるせえ!!」
「ねえ、どうやって見分けてるの?コツみたいなのがあるんでしょ?」
「そんなものねえよ・・・。強いて言うなら・・・」
「言うなら?」
「・・・・・・惚れたから分かるんじゃねえのか・・・。」
「・・・きゃー!ちょっと何恥ずかしいこと言ってるのよ!それ来週の学園新聞の見出しね!!」
「ちょっと待てー!!」

侑子と黒鋼が騒ぐ横で、ユゥイは頬が次第に熱くなるのを感じていた。
(あれ・・・どうしよう・・・)
耳に、鮮明に蘇る言葉がある。
『おれ、ユゥイさんが分かりますよ。』
惚れたから、分かるのだろうか。
(違う・・・小龍君のは・・・そういう意味じゃ・・・)
でもどうしてあの時気付かなかったのだろう。いつか恋をするなら、二人を見分けてくれる人にと、ずっと思っていたのに。彼がまさにそうだ。それなら、
(違う・・・そんな・・・だからって・・・)
「ユゥイ先生?顔が赤いわよ?」
「え、ち、違っ・・・これは、そんなんじゃっ・・・!」
「何が違うんだ?」
「え、いや・・・だから・・・その・・・」
「ははーん・・・」
侑子がずいっと顔を近づけてくる。
「ユゥイ先生、相手は誰?」
「っ・・・・・・」
どうしよう、だって自分でもまだ信じられないのに。
声に出してその名を言ってしまったら、もう後戻りできない気がする。
彼が自分を想ってくれている保証なんてどこにもないのに、自分だけ堕ちて行きそうな気がする。
「ほらほら、吐けば楽になるわよー?」
「おい、もうその辺にしてやれ・・・」

黒鋼が侑子の肩を叩いたとき、それぞれの交錯する心を救うかのように、午後の予鈴がなった。






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