誰かを護りたいなどと、思い上がったことをどうして考えたのだろう。
命を奪う事でしか、死神は人とは関われないのに。



「ファイ、話さなければならないことがあるんだ。」
裁判の翌朝、アシュラがファイを自室に呼んだ。
無実が証明されたファイに、もう見張りはついていない。部屋には、アシュラとファイの2人きり。いや、本当は、ファイには見えない生き物がもう一人。
「死神というものの存在を信じるかな。」
「死神・・・ですか・・・?」
昨日まで魔女の疑いを掛けられていた者でも、記憶がない以上、その言葉は唐突だったらしく、ファイは少し戸惑った様子を見せる。
「あの・・・魔女がいるなら死神も・・・いるかもしれないとは思いますけど・・・」
「そうか。」
しかし魔女の存在さえ、疑わしく思っていると、そういうニュアンスを含ませた返事を聞き、アシュラはチラリと黒鋼を振り返った。
黒鋼は、じっとファイを見つめていた。彼の瞳が、もう一度自分の姿を映すのを、あの唇が、もう一度自分の名を紡ぐのを、今か今かと待ち望みながら。

「・・・実は、今私は、死神に取り憑かれている。」
「・・・え・・・?」
驚愕と不安を、同時に表情に滲ませたファイに、アシュラは優しく微笑みかける。
「そんな顔をしなくていい。死神というのは、私達の想像とは違い、取り憑いた者に、自分の力を貸し与えるものらしいんだ。」
「力・・・を・・・?」
「今回の事はすまなかったね。戦場で敵将を殺したのは、神の加護ではなく、私が行使した死神の力だ。」
アシュラは、ファイにノートを差し出した。
「何ですか・・・これ・・・?」
「触れてごらん。触れれば君にも、奴の姿が見えるようになる。」
「・・・・・・」

ファイは恐る恐る手を伸ばした。死神への好奇心より、ただアシュラに命じられた言葉に従わねばならないという意識が体を動かした。死神がいるなんてまだ半信半疑、いや、会話の内容すらまともに理解できていなかった。勿論、そのノートに触れて何が見えるかなどという心の準備は全くなく。

黒鋼は身を乗り出した。ただ、再会だけを切望していた。

赤と、青の瞳が交わる。
「ファイ・・・」
『黒鋼』。そう返されるものと思っていた。
「っ・・・・・・!!」
ファイの瞳は、驚愕に見開かれて、それはすぐに恐怖へと変わる、その反応は、初めて彼の前に姿を現したときに見たものと良く似ていた。
「ファイ・・・?」
そんなはずはない。ノートに触れれば、瞬時に使用していた記憶が蘇るはず。
(使用・・・していた・・・?)
黒鋼ははっとアシュラを見た。彼の笑みが、勝ち誇ったものであるかのように見えた。

そう、彼は言った。シナリオだと。第三王子が死に、ファイが魔女裁判に掛けられた事はすべて、彼のシナリオのうちだといったのだ。
鳥かごの中しか知らない鳥は、鳥かごの中でこそ幸せに生きていける。
一度もノートを使ったことのないファイは、ノートに触れても記憶を取り戻せずに、黒鋼の事など知らないまま、アシュラの腕の中が、唯一幸せを得られる場所だと信じて。
全て、アシュラのシナリオ。
彼は言った。ファイは私が幸せにすると。お前ではなく、私が。
何もかも全て、黒鋼からファイを奪うためのシナリオ。
何もかもが全て、アシュラが描いたとおり。

呆然と、しかし救いを求めるように、黒鋼はファイに手を伸ばした。けれど、以前のようにファイがその手を取ることはなく、ただ異様に大きなその手と、鋭い爪に恐怖し息を呑んで後ずさられただけ。
触れることは、もう許されないのだ。
話せばまた、戻れるのだろうか。自分がここに来た理由。ファイが、友達になってくれたこと。貰った言葉の一つ一つ、過ごした時間の一分一秒まで。話せば、もう一度友達になろうと、手を差し出してくれるだろうか。
けれど、思い出してくれるわけではない。また一から、2人はやり直さなければならない。そして、アシュラはまた忘れさせるのだろう。そのたびにファイは、望まぬ死を見届けて、大切な人を失っていく。
理解・喪失・忘却。そんな終わらないワルツをいつまでも踊り続けて、何度も、ファイの中で自分が削除されるのを見続けなければならないのなら、全てを胸に秘めて、何もなかったことにしてしまうべきなのかもしれない。
「オレは黒鋼。死神だ。」
絞り出すように吐き出したいつかと同じ言葉に、既視感を覚える反応が返される。
「死・・・神・・・」

「大丈夫、怯える事はないよ。」
アシュラが、ファイの肩を抱いた。
「これは死のノート。ここに名前を書かれた人間の命を奪う、死神のノートだ。この死神は、ノートの所有者となった人間に憑いているだけ。危害は加えない。」
けれど、ノートの周りでは、必ず人は死ぬ。
「これまでの経緯を君に話しておかなければならないと思う。魔女裁判にまで掛けられた君には、知る権利があるはずだから。」
アシュラはファイを、椅子に座らせた。
「落ち着いて聞いて欲しい。兄上を殺したのは私だ。」
「え・・・?」
「ノートを拾い、まさかこんなものが本物だとは思わずに、戯れに兄上の名を書いてしまった。この死神が現れ、ノートが本物だと知らされたのは、兄上が戦死したという知らせが入った後だった。」

アシュラはファイにこれまでのことを話した。
ノートのルールの事。死神の事。そして戦でノートを使った事。
しかしファイがノートの事を知っていたという事実は伏せられ、そして勿論、黒鋼とファイが以前は親しい間柄であったという事も話されることはなかった。
アシュラの都合のいいように、曲げられた事実は、黒鋼にとっても都合が良かった。友達になってくれたあの日のファイにはもう出会えないなら、知って欲しくはなかった。
最初から、不釣合いだったのだ。人間の命を介してしか人間と関われない死神と、誰の死をも望まない心優しい人間なんて。

第三王子の死や有力貴族の死は、偶然として話された。しかし、それに黒鋼が無関係だという証拠はない。
最初は、怯えるように黒鋼を見ていたファイの瞳に、次第に憎しみの炎が宿る。
その色を知っている。『オレ、君が嫌いだよ。』かつてそう言われたあの夜に見た色だ。しかし今はあの時よりずっと、黒鋼が人間界を訪れた事で奪われた命の数が多い。今ファイの目に映っているのは、仲間を求めて死神界からやってきた友達の姿ではなく、悪戯にノートを人間界に落とし、ノートが引き起こした結果など知った事ではないと笑う、冷酷な死神の姿だろう。
弁明を、するつもりもなかった。2人の兄が死んだのも、王が心労で倒れたのも、ファイが魔女裁判に掛けられたのも、元を辿れば全て、自分が落としたノートのせいだ。
「この・・・死神のせいで・・・」
優しく名を呼んでくれた声が、今は抑えきれない憎悪に震える。
「兄上は・・・亡くなられたんですね・・・」
共に居ることで癒されたはずの悲しみが、今はこうして目の前に居ることで蘇る。
流れ落ちる涙の理由を、今なら理解できる。大切な人を失う悲しみ。
あの日、憎しみをぶつけられた理由も、今ならはっきりと解る。胸に広がる虚無感の中に確かに、ファイを奪ったアシュラへの憎しみの炎が灯っている。けれど、それをぶつける事を、きっとファイは望みはしないだろうから。

そのとき突然、部屋の扉が大きく叩かれた。
「殿下!すぐにお越し下さい、陛下が・・・!」
「っ!!」
事態の急を告げた兵の声に、ファイが弾かれたように部屋を飛び出す。
黒鋼は、ただ驚愕していた。確かに王は死期が近かった。けれど違う。この瞬間では、ない。
ゆっくりと、アシュラを振り返る。彼は、急の知らせに慌てる様子もなく、不気味なほどに落ち着いた表情で黒鋼を見返す。
「お前・・・どうして・・・」
「王は、自らの死期を悟り二人の息子を部屋に呼ぶ。一番目に部屋に来た息子に最後の別れを告げ、そして、二番目に部屋に入ってきた息子を見て、ある言葉を呟き、息を引き取る。さあ、どうなると思う?」
「ある言葉・・・?」
それは、シナリオ。王の死を効果的に使うために、アシュラがノートに記した筋書き。
「行こう。最後の別れに、それほど時間は必要ないだろう。」
アシュラは、足を踏み出して、そして思い出したように付け加える。
「そうだ、約束だったな。所有権は、後でまたファイに戻そう。ファイの元に戻るといい。ノートは、このまま私が持つがな。」
それが今の黒鋼にとってどんなに酷な事か、分かっていてもそれでも、
「また、手を握ってやるといい。」
そう言って、アシュラはぞっとするほど冷たい目で、柔らかく微笑んで見せた。



「父上!」
部屋に飛び込んできたファイに、王はうっすらと目を開けて、弱々しく微笑む。
「ファイ・・・すまない・・・もう時間のようだ・・・」
「嫌です!どうして・・・」
ファイは王のベッドの脇に膝を付き、祈るような姿で王の手を握り締める。
「仕方がない・・・人は皆・・・いつか必ず死ぬ・・・私の順番がやってきた・・・それだけのことだ・・・」
「父上・・・」
王は、ファイの頭をなでた。これが最後になるのだと、その掌から、覚悟が伝わってくる。ファイの頬を、涙が伝った。
「お前に泣くなというのは酷だろうな・・・少し先に行っている・・・また会える日が来たら、その時は笑顔を見せてくれ・・・。」
「・・・・・・」
ファイは、もう言葉を詰まらせて、頷く事しかできない。けれど、次に王が発した言葉には、はっと背後を振り返る。


「ああ・・・死神が来た・・・」


「っ・・・」
王が見つめていた先には、アシュラと、そして、その背後に、黒鋼がいた。
視線を戻すと、王の目が、静かに閉じられていた。
「父上・・・?」
その王の顔は、その直前までとは、何かが決定的に変わってしまったのだということを、直感的に感じさせた。
「父上・・・父上っ・・・!」
ファイが体を揺すっても、もう返される反応はない。
アシュラが、ファイの肩に手を置く。ファイは、王のベッドに顔を埋めて、声を上げて泣いた。


『死神が来た』。黒鋼の姿が見えるはずがないから、王はアシュラを見てそういったのだろう。それが、アシュラがノートに記したシナリオだ。けれど、黒鋼が見えてしまうファイには、その言葉は、黒鋼に対して発せられたものに聞こえただろう。黒鋼の姿は、王の魂を狩りに来た者のように見えただろう。
『また、手を握ってやるといい。』
そう言っておきながら、アシュラは、絶望的なまでの溝を2人の間に作った。
死神よりも巧妙に、ノートを使いこなして、最も効果的に、黒鋼をファイから遠ざける。けれどそれは同時に、ファイが最も苦しむ方法だ。
次にファイが顔を上げたとき、自分に向けられる視線がどんなものなのか、それに怯えながら、黒鋼は、ある決意を抱かざるを得なかった。






「・・・王様・・・?」
「んー?」
物語を遮って、幼い王子が王を見上げた。
「泣いてるの・・・?」
「え・・・?」
問われて、王は自分の目元に触れた。そこには確かに、流れ落ちる雫があった。
「・・・大丈夫、なんでもないんだー。」
王は、袖で涙を拭って、王子に笑顔を見せる。
「さあ、続けよう。死神は、大好きな王子様をこれ以上苦しめないために、彼の元を去ることを決めたんだ・・・」





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