裁判は、城内の大広間で行われることとなった。余計な疑いを避けるため、当日は一般人の入場も許可された公開裁判。何もかもが異例のことだった。 ファイは、審判法をその日の朝になって初めて聞かされた。 煮えたぎった湯に手を入れる。その残酷な方法に恐れを抱いても、開廷の鐘は無情に鳴らされる。 尋問なら、どんなに厳しく問い詰められようとも耐え抜く覚悟でいたのに、こんな方法で本当に無実が証明できるのだろうか。 (父上・・・) 信じてくれたのに、信頼に応えられないかもしれない。 罪人として殺されるよりも、今すぐここから逃げ出したいと思った。 (神様・・・本当にいるならどうか・・・) 世間では噂されても、自分では感じたこともない神の愛に縋り祈る。 (オレを・・・どこか遠くへ・・・) 願わくば、神も魔女もいない世界へ。 (抱いて逃げるって約束したのにな・・・) あの日の睦言のような会話を思い出しながら、黒鋼はアシュラの側でファイを待つ。 あの日の約束は守れそうにない。連れて逃げるよりも、この場所でファイを守りたい。 (お前の大事なもんは、全部ここにあるんだろ・・・?) 大切な人の側に居ることが、彼の幸せなのだから。 2人の兵に連れられ、ファイは大広間に入った。 普段は、パーティーなどか開かれる場所だ。少し前にも、ダンスパーティーが催された。 戦が続き、疲労と罪の意識からふさぎ込んだファイを元気付けようと、兄が企画してくれたものだった。けれどファイは、ワルツを踊る気分にはなれなくて、結局参加はせずに部屋にこもっていた。 (でも・・・部屋で踊ったんだっけ・・・) 思い出して、疑問を抱く。確かにあの日、この大広間から漏れて来る音楽に合わせて、自分は部屋でワルツを踊った。 (あれは・・・誰と・・・?) その手を取った事は全部覚えている。 一度目は友達の握手。二度目は眠れない夜のおまじない。そして三度目が、ファイの部屋での密やかなワルツだった。 ダンスパーティーが開かれているのに、気分が乗らないからと部屋から出ないファイに憑いて、黒鋼もファイの部屋で聞こえてくる3拍子の音楽にただ耳を傾けていた。人間のことをまだあまり知らない黒鋼は、ダンスがどんなものかは分からない。しかしふと窓から庭を見ると、そこに1組の男女が音楽に合わせてくるくると回っていた。大広間の人ごみから抜け出してきた恋人達だろうか。女性のドレスの裾が軽やかに翻って、2人は時々無邪気な様子で唇を重ねる。楽しそうに踊る二人を見ているうちに、黒鋼の指は、無意識に音楽に合わせて3拍子を刻んでいた。 『・・・踊ってみる?』 不意に、ファイが尋ねる。 『踊りたくねえんじゃなかったのか。』 『うん・・・でも・・・君が相手なら良いかなって・・・』 ファイが立ち上がって、黒鋼に手を差し伸べる。 『ねえ、踊ろう?』 人間のものとは異形のその手で、触れることですら黒鋼はまだ躊躇していた時期に、ファイは何の恐れもなくその手を取って。 『俺は・・・ダンスなんて分からねえぞ・・・』 『大丈夫、簡単だよ。ほら、1、2、3。1、2、3。』 規則的なリズムに従って、ファイに導かれるように体を動かす。人間はこんな事の何に、そこまで夢中になれるのだろうかと思った。当たり前に触れ合える彼らに、この喜びなど分かるまい。こんなに近くに、触れることを許される。広間に集まった多数の人間ではなく、死神のこの自分が。 嬉しいとは伝えなかった。けれど、広間から流れてくる音楽がやむまで、何曲もファイの手を握り続けた。 「また、俺が見えるようになったら、もう一度、踊ってくれないか。」 曲なんていらない。互いの手があれば良い。今度はちゃんと伝えよう。たったそれだけの事がどんなに嬉しかったか。 ファイの前に舞い降りて、黒鋼は手を差し伸べる。 「今度は俺から誘うから。」 広間の中央には、煮えたぎった湯で満たされた釜が置かれていた。その前に立たされたファイに、裁判官が手を湯に入れるように命じる。 緊張と恐怖にごくりと唾を飲むが、それ以上の時間は許されない。 被告とは言えど王子であるファイに野次を飛ばすような愚か者はなく、周囲はしんと静まり返っている。無実を信じるものたちは、指を組み神に祈りを捧げていた。まるで教会の中であるかのような凛とした空気が、逆にファイを急き立てる。 ファイは、おそるおそる湯へと手を伸ばした。 (熱い・・・) 湯気だけで、火傷しそうだ。 一度、アシュラを見上げる。彼は、大丈夫だと言うように、いつもの優しい笑みを浮かべた。いつもは心を落ち着かせてくれるその笑顔に、今は何の効果も見出せない。それに、神の力はないのだから。 最愛の人より、見たこともない神を求めているなんて。自分を嫌悪しても、今は他に呼べる名がない。 (助けて・・・神様・・・) 初めて手を握った日、ファイはこの不気味な手に臆する事もなく、こう言ってくれたのだった。 『たくさんのものを包めるでしょ?』 (本当だな・・・) 小さく笑って、黒鋼はファイの手を取る。 (え・・・?) 急に、湯気の熱さを感じなくなった。何か、冷たいものに包まれたかのように。 異変に気付いたものは他にいないらしい、しかし、戸惑うファイの手を、確かな力が、熱湯の中へと導いた。 「っ!!」 手が熱湯に張る瞬間、恐怖に思わず目を閉じる。けれど、その目はすぐに驚愕に見開かれた。 (熱くない・・・) 手を包み込んだ冷たい感触は、湯の中でも護るようにファイの手を覆ったまま。 水面には波紋が広がっているけれど、手には湯が触れていない。 (オレの力・・・?) 自分が本当に魔女なら、魔術で手の周りに膜のような物を張って、熱湯を防いでいるのだろうか。けれど、こんな想像もしなかったようなことを、無意識に出来るものだろうか。 (神様・・・?) 本当に神の加護の力だろうか。数秒天を仰いで、ファイはそれも違うと思い直す。 神の力にしては、この感触は切ないほどに冷たくて。見えない何かがこの手を包んでくれているのだとすれば、それはもっと悲しい生き物なのではないかと思った。 悲しくて寂しい、けれど、優しい。 「誰か居るの・・・?」 観衆に口元が見えないようにだろう、ファイは俯いて呟いた。黒鋼だけがその声を聞き取る。 「ありがとう・・・」 記憶などないはずなのに。見上げた方向も的外れで、自分の姿が見えていないことなど良く分かっているのに。 囁かれた温かい言葉に、黒鋼はファイの手を包む手に少し力を込めた。 命じられて、ファイは熱湯から手を抜く。入れる前と何ら変わらぬままの白く滑らかな肌に人々がどよめく。 アシュラだけが、結果を見通していたように薄く笑んで、判決を聞かずに席を立つ。 聞かなくても、分かりきった事だ。手はただれなかったのだから、魔女の疑いは晴れて、人々はファイに与えられる神の加護とやらを、信じざるを得ない。 「良くやった、死神。」 報告のために王の部屋へと向かいながら、自分に憑いて広間を出てきた死神にアシュラは労いの言葉をかける。 「これでファイへの信頼は回復し、王家の権威も増す事だろう。 「・・・まさか、それが狙いだったのか?」 アシュラにとって都合の良過ぎる展開に、黒鋼はそんな疑念を抱く。最初の王子の死からファイの魔女裁判まで、本当は全て、アシュラが権力を手にするためのシナリオだったのではないかと。 「まさか。そんなことのために、愛しい者をあんな危険な目にあわせるはずがないだろう?」 アシュラは否定し、冷たく笑う。 「ノートは、ファイの幸せのために使う。私は、あの子との約束は破らないよ。」 死神でも背筋にぞくりと震えが走るようなその笑みは、言葉とは裏腹にもっと壮大で、残酷なシナリオがあるのではないかと、そんな不安を抱かせた。 けれど、そんなことは今は重要ではないのだ。たった一つ確かな事、それだけが黒鋼にとってはすべてだった。 「これで、所有権はあいつに戻せるんだな。」 「ああ。」 もう一度会える。この先にどんなシナリオが待っていようとも、今はそれだけで十分だった。 もう一度あの手を取って、そして伝えたいことが幾つもあるのだ。 彼と言葉を交わせない時間がどれだけ孤独だったか。 今までに貰った言葉の一つ一つがどんなに嬉しかったか。 これから貰えるだろう言葉の全てがどれほどの楽しみか。 ファイという存在が、自分にとってどれほどの喜びか。 (お前の言ってた幸せって奴が、分かりそうな気がするんだ。) だから早く、ファイに会いたい。 「だが、今日はあの子も疲れているだろう。ノートの事は明日にでも。」 そう言って、アシュラは思い出したように付け加える。 「そうだ死神。父上はいつ亡くなられる?」 「・・・?死神は、人間に寿命を教える事はできねえ。」 「それほど細かくなくていい。今夜、などということはないな?」 「・・・ああ。」 何故そんなことを聞くのかと、疑問を抱くより先に、確信にも似た不安が頭をよぎる。 「お前・・・自分の父親まで殺すつもりなのか・・・?」 家族を持たない死神には、その存在の大きさがどれ程のものなのかは解らないのだけれど、その人が死ねば、きっとまた、ファイは嘆き悲しむのだろうと。 しかしアシュラは穏やかに目元を緩める。 「こんな日に父上が亡くなられたら、ファイにはあまりにもきついだろう。死が人にとって避けられぬ運命でもせめて、もう少し、落ち着いてからの方が良い。そう思っただけだ。」 肯定も否定も含まれてはいないその言葉が、表面上は示したファイへの愛情に、黒鋼はとりあえずの安堵を覚えた。父親の死を笑顔で語るその異様さには、家族を持たぬ死神ゆえに気付く事が出来ぬまま。 ファイの無実が証明されたことを伝えると王はほっとした表情を浮かべ、その後すぐに駆けつけたファイは、その夜王の隣で眠ってしまってアシュラに部屋へ運ばれるまで、ずっと王の側で過ごした。 黄泉の列に加わる前に王が過ごした時間は、確かに幸福なものであっただろう。 たとえその列が死神のノートの上にある名前の羅列であったとしても。 BACK NEXT |