「審判の方法が決まったそうだ。」
ノートの所有権がアシュラに移った2日後、アシュラが黒鋼に告げた。
「煮えたぎる聖水の中に手を差し入れて、その手がただれれば魔女とする、だそうだ。」
「煮えたぎる聖水・・・?」
「ああ。邪悪な力は聖水には働かない。ファイが魔女なら、水を拒む事ができずに、手はただれるだろうが、神の加護が働くなら、僅かな火傷もなく手を抜くことができるだろう、と言う事らしい。」
「ちょっと待て、そんな馬鹿なこと・・・!」
黒鋼はうろたえた。それでも、今ファイを取り巻く状況の中では、一番冷静だったかもしれない。
「魔女の力も神の加護とやらも持たない普通の人間でも、手はただれるだろうが!」
ファイは何の力も持たない人間なのに。ここに居るのは、彼を救う神ではなく、彼に救われた死神なのに。
「何とかしろ!こうなったのもお前がっ・・・!」
「私が?」
アシュラはその言葉を聞きとがめて、不敵な笑みを浮かべる。
「私が第三王子を殺したからだとでも言うつもりか?責任をすり替えるな。」
懐から取り出したのは、ノートから破り取られた一ページ。彼が、自分の弟を殺したと言う確かな証がそこにあった。
しかしアシュラは言う。
「力の存在こそが悪だ。ノートを持ち込んだお前が悪い。お前のせいで、ファイは魔女に仕立て上げられ、火炙りにされて死ぬ。きっと、記憶を失わなければ、さぞかしお前のことを憎んで死んだだろうな。」
「っ・・・」
その残酷な言葉は、丁度黒鋼の罪悪感の中央を射ていたから、黒鋼はその言葉に何も反論する事ができない。自分がいなければ、自分がファイの前に現れなければ、確かにこんな事にはならなかったのではないかと。
けれど、こんな事になるはずではなかった。アシュラは、ノートを、ファイを幸せにするために使うのだといったのに。
「一つ・・・答えろ・・・お前は・・・」
「殿下っ!」
不意に、何者かがアシュラの部屋の扉を叩く。
「すぐにおいで下さい!陛下が、突然胸を押さえてお倒れに・・・!」
「!?」
アシュラが僅かに瞠目したのは、それがノートの力によるものではないという事の証だろう。
ノートに魅入られた人間は、忘れてしまうことがある。自分がノートを使わなくても、人は死ぬのだという事を。



「お二人の王子を立て続けに亡くされ、ファイ様のことで心労が限界に達せられたのでしょう。今は落ち着いておられますが、お年もお年ですので、そう長くは・・・」
すぐに王の部屋を訪れたアシュラに、医師は王のとりあえずの無事を報告する。しかし、状態はあまり思わしくないようだ。
「今、話すことは?」
「はい。意識ははっきりしておられます。」
「では、ファイを呼んで来てくれないか。」
アシュラは、自分を呼びに来た兵に命じた。彼はファイ擁護派ではないらしく、一瞬表情に戸惑いの色を浮かべる。
「いいから。今回の事は心労が重なった結果で、魔女のせいではない。それに、万が一ファイが魔女だったとしても、あれ程父上を愛していたあの子が、父上に危害を加えるはずがない。呼んで来なさい。こんなことで二度と会えなくなってしまっては、あまりにもファイが哀れだ。」
「・・・・・御意。」
兵がファイの部屋に向かうのを見送って、アシュラは王の部屋に入る。ベッドに横たわっていた王は、思っていたよりしっかりした眼差しでアシュラを捉えた。
「ああ、お前か・・・ついに死神が迎えに来たのかと思った。」
「父上・・・そのような気弱な事を。」
「いや、死神なら、怒鳴り返してやろうと思っていたのだ。」
良い勘をしていると言うべきだろうか。アシュラに憑いて部屋に入ってきた黒鋼は、小さく肩をすくめる。怒鳴られなくて良かった。
「今、ファイを呼びにやりました。すぐにここへ来るでしょう。」
「そうか・・・こんな時に、心労を増やしてやりたくはなかったのだが・・・」
それでも、ファイに会えるのが嬉しいのか、王の表情が少し和らぐ。
「裁判の事を告げて以来、顔を見ておらんのだ。そうして良かった。あまり頻繁に会っていたのでは、今回のことでまた、ファイに余計な疑いがかかっただろう。」
いや、今回のことも、ファイの仕業だと言う者も、恐らく現れるだろうが。
「魔女の仕業などではない。自分の体のことだ。ある程度は分かる。少し・・・辛いことがありすぎた・・・」
「父上・・・」
「もう長くはないのだろうが・・・もし魔女とやらが本当にいるなら、せめてファイの無実が明らかにされるまで、この命を奪わずにいてくれないだろうか・・・。」
「父上、気を強くお持ち下さい。魔女などおりません。」
アシュラはそう言って王の手を握った。
魔女はいない。いるのは、死神だ。

王はじっとアシュラの目を見つめ、そして何か言おうと口を開いた。そのとき、
「父上!」
ノックもなしに血相を変えたファイが部屋に飛び込んで来た。話を中断して、アシュラはファイのために場所を譲った。
「父上・・・ごめんなさい、オレのせいで・・・」
ベッドの脇に膝を付き、王の手を握り締めて涙ぐむファイに、王は優しく微笑みかける。
「何を謝る。お前は何も悪くない。大丈夫だ。年には勝てぬとは言え、お前の裁判が終わるまでは、何が何でも生き延びて見せよう。」
「嫌です、もっと・・・もっと生きててください・・・」
「ファイ・・・」
二人の兄に続けて父親まで失うのは、この心優しい王子には酷だろう。しかし、避けられない運命に王は静かに目を閉じる。
「魔女とやらの気まぐれなら抗いもするが、運命ならば仕方がない。」
「父上・・・!」
「しかし、お前のためにも、一日でも長く生きていたいものだ・・・」
こうして頭を撫でてやれるのも、後何回だろうか。
「魔女は、人に命を与えはしないのだろうか。」
王はアシュラを見上げて言った。
「噂に聞く冷酷な生き物なら、ただ奪うだけでしょう。」
そう答えると、アシュラは一歩下がり退室を申し出た。
「あまり長居するとお疲れになるでしょう。私はこれで。また参ります。」
「ああ・・・」

アシュラは、ファイを残して部屋を出た。黒鋼もアシュラに続く。ファイは、一度も黒鋼に視線を向けようとしなかった。
分かっていることなのに、期待してしまう。扉が閉じられる最後の瞬間まで、ファイの背中から目が離せない。叶うはずがないのに。
「・・・裁判は3日後だ。終われば、また会える。」
アシュラが、黒鋼に言葉をかける。
「だが・・・あんな裁判・・・勝てるわけがねえ・・・」
熱湯に手をつけるなんて。アシュラも言った。ファイは、黒鋼のせいで魔女に仕立て上げられ、火炙りにされて死ぬのだと。
「希望がないわけではない。」
「あ・・・?」
「来い。」
アシュラは黒鋼をつれて部屋に戻った。そして、窓辺に置いてあった小瓶のふたを開け、中の液体を黒鋼にかける。
「・・・?何だ・・・?」
「聖水だ。死神には、何の効果もない様だな。」
「・・・・・」
聖水といわれても、普通の水とどう違うのか分からない。これが熱湯になっても、死神の自分に何の影響も及ぼさないだろう。
ファイを、救えるかもしれない。

しかし一つ、疑問に思うことがある。さっきも聞こうとして、叶わなかった事。
「お前は・・・何がしたいんだ・・・。」
ノートはファイを幸せにするために使うのだと言った。しかし現実は、2人の兄弟が犠牲になり、今、ファイまで辛い状況に置かれている。
この行動の先に、アシュラはどんな未来を見出しているというのだろうか。
「この裁判もシナリオのうちだ。これさえ無事に終われば、ファイは必ず幸せにする。私が、な。」
アシュラは黒鋼に挑むような視線を向ける。人の感情が理解しきれない黒鋼には、その意味が分からない。
当たり前ではないか。幸せとは、好きな人と一緒に居ること。ファイにとってはアシュラが、何よりも大切で、大好きな人なのだと、何度も何度も聞かされてきた。彼を幸せに出来るのはアシュラしかいないのだと、そこまでははっきりとは口に出されなくても、死神でも理解している。
何を今更、そんなことを確認する必要があるのだ。
しかしアシュラが黒鋼に向ける視線は、どこまでも攻撃的で冷たい。
「覚えておけ、死神。」
さっきは、また会えると言ってくれた。けれど今思えば、あの言葉も、表面上は優しかっただけで、声音はひどく冷たかった。
「鳥かごの中しか知らない鳥は、鳥かごの中でこそ幸せに生きていけるのだ。」
その言葉の真意など、今の黒鋼はまだ知る由もなく。

ただ先程の王の言葉が、まるで魔女の正体を知った上で、懇願しているようだったような気がして、そればかりが気になった。気の毒だが、彼の寿命は残り少ない。しかし裁判が3日後なら、その前に死ぬことはない。アシュラが、ノートを使わなければの話だが。
「お前は、父親まで殺す気なのか?」
親子の情など理解できない。ただ、王が死ねば、ファイはまた悲しむのだろうと、それがひどく苦しくて。
「父上が仰っていただろう?裁判が終わるまでは死なないと。」
全ては、裁判が終わってからだ。アシュラは、そう呟いて冷たく笑う。彼の心に巣食う魔女は、死神などよりずっと冷徹で、残酷なのかもしれない。
死神にはどうしても理解できなかった。ファイとは対極に位置するようなこの男を、どうしてファイは、何よりも大切だというのだろう。



王は、ファイの目を見つめて言う。
「私が死んだ後は、アシュラが後を継ぐことになる。あの子なら一人でも上手くやっていくだろうが、お前もしっかり支えてやりなさい。」
「父上・・・そんな遺言みたいな事・・・」
「そうなるかもしれん。だからちゃんと、聞きなさい。」
現実から目を逸らし、言葉に耳を塞ごうとするファイに、王は困ったように笑う。
どうしてこの子が魔女などということがあるだろうか。ほんの数分、言葉を交わすだけでも、きっと誰にでも分かる事だ。まして、何年も生活を共にしてきた父親に、分からない筈がない。
分からない筈が、ない。
「アシュラはお前のことが特に気に入っているようだから、悪いようにはしないだろう。だが、盲目的に相手を信じ、護ることだけが愛すると言うことではないのだ・・・。あの子も道を間違う事はある。そのときはお前が、正してやらねばならない。いや・・・引き返そうと提案してやる事こそが、お前の役目なのかもしれないな。」
「兄上が・・・?」
そんな事、疑った事もなかった。彼が 、世界の絶対の法則であるかのような気さえしていた。
「信頼は時に人を盲目にする。だが、これだけは覚えておきなさい。」
王は、手を伸ばしてファイの頭を撫でる。
「何を信じるのか。何を想うのか。本当に大切な事は、自分で決めるものだ。」
「本当に・・・大切な事・・・?」
どうして王は今更、そんなことを言うのだろう。そんなもの、一つに決まっている。
「オレは・・・兄上を・・・」
「そう思うのなら、それも良い。」
(あ・・・れ・・・?)
ファイは奇妙な感覚に戸惑いを覚えた。

王は優しく微笑んだのに。どこかで誰かが、ひどく悲しい顔をしているような気がした。




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