せめてもの救いは、ファイの人柄を愛し、頑なにファイ擁護派に回った民が、少なくなかったと言う事だろう。彼らは、戦場での敵将の奇怪な死はあくまでも神の加護だとし、重なった二人の王子の死は、単なる偶然だとした。
万が一、人が命からが働いているのだとしても、ファイが自らの意志でそんな恐ろしい事ができるはずがない。二人の王子の死も、王家に都合の良い有力貴族の死も、神がファイが王位につくことを望まれているためではないかと。

魔女か、神の寵児か。



「どっちにしろ、普通の人間じゃねえってことだな。」
黒鋼は冗談めかしてそう言ったが、それに笑い返せないほど、ファイは憔悴していて、ベッドにうつ伏せになったままぴくりとも動かない。眠ってはいないようだが、3番目の兄が死んでから、食事もろくに摂っていない。葬儀にだけはなんとか出席したものの、その後はずっとこの調子だ。横になっているだけで、睡眠も取れていないかもしれない。
仲の良かった兄二人を立て続けに失って、しかもそれは自分が殺したのではないかと噂される。
並の神経では持たないだろうが、黒鋼にはそれがどれほどの苦痛かはまだ分からない。大切な人を失ったことはまだない。ファイを失えば分かるのかもしれないが、目の取引で半分になっているとは言え、彼の寿命はまだ先だ。
「・・・・・・・・・・」
黒鋼は対応に困って、よくアシュラがそうしているように、ファイの頭を撫でた。ファイは首を回して黒鋼を見ると、気持ち良さそうにゆっくりと目を閉じた。会話はなくても、そんな反応に少しほっとする。拒まれてはいないのだと。

恐怖の原因ははっきりしている。兄の死が、ノートによるものだからだ。彼はまだ、寿命ではなかった。ファイは人の寿命も見えているとは言え、その数字の読み方は分からないだろうから気付いていないだろうが。恐らく、アシュラの仕業だろう。けれど、
(俺がノートを持ち込んだせいだな・・・)
そのことを責められるのではないかと。

「ねえ、黒むー・・・」
「ん?」
「もし・・・オレが処刑されることになったらさ・・・オレの寿命を君にあげる・・・」
ファイの言葉に、黒鋼はファイの頭を撫でていた手を止めた。
ノートに名前を書けと言うのだ。それは出来ないと、いつかの深夜に、睦言のように交わしたあの会話を、裏切れと言うのだ。
「魔女は火炙りにされて殺されるんだよ・・・。それは熱くて苦しそうだから・・・火炙りにされる前に殺して欲しい・・・。ノートなら・・・苦しみは一瞬でしょ・・・?」
「・・・ああ。」
「オレは君の中に入って生き続ける・・・そういうのも・・・悪くないと思うんだ・・・」
「・・・・・・・」
それはもしもの話というより、ファイがそうなる事を望んでいるように聞こえた。人の名前を読む事にも疲れた、もう死にたいと。

ノートによる死は、生を望むものには残酷でも、死を望むものにはこの上なく優しい。けれど、死という現象は、遺される者にとっては、火炙りに勝る酷刑だ。
「馬鹿野郎・・・死んじまったら・・・もう手も握れねえじゃねえか・・・」
握った手の温もりを知らなかった頃には、もう戻れないのに。
「そんな事になったら、俺が抱えて飛んで逃げてやる。魔女も神もいない国まで。」
「ほんとー?それもいいねー・・・」
やっとファイの口元が少し緩んだ。黒鋼はほっと息を吐いて、頭を撫でていた手でファイの手を握る。
「少し眠れよ。こうしててやる。」
「うん・・・ありがとう・・・」

しかしファイが眠りに堕ちる前に、何者かがドアをノックした。そして告げる、
「殿下、陛下がお呼びです。謁見の間ではなく、お部屋の方にと。」
「・・・分かりました、すぐ行きます・・・」
数日振りにまともに動かした体は、指先までがとても重く感じた。



「失礼します・・・」
部屋に入ると、王がわざわざ立って迎えてくれた。
「大丈夫か?少しやつれたようだ・・・食事は全く摂っていないのか?」
「いえ・・・少しずつは・・・」
「そうか。立っているのは辛いだろう。座りなさい。」
「ありがとうございます・・・」
あんな噂が流れても、変わらぬ愛情に感謝しながら、ファイは用意されていた椅子に腰掛ける。王も自分の椅子に座ると、重々しい口調で切り出した。
「早速だがファイ・・・お前を・・・裁判に掛ける事にした・・・」
「・・・・・・・はい。」
やはりか、と思った。覚悟は出来ていた。
「すまぬ・・・城内でもお前への意見が分かれていてな・・・何らかの形ではっきりと結論を出さねば・・・私の力でももう、抑えきれん・・・。公正な裁きの下、皆が納得する形で無実を証明するしかない。」
「無実だと・・・信じてくださるんですか・・・」
「信じているからこそ、裁判に出せるのだ。」
「・・・ありがとうございます。」
良かった。それだけは、自信がなかった。

「裁判の日時は決まっておらん。なんでも、どうやって魔女かどうかを判別するかも、確立されておらんそうだ。数日は待たねばならぬだろう。その間は、お前の体調も考えて、自室で待機ということになった。」
確かに、今の体では、投獄には耐えられないだろう。普通は魔女と疑われただけで拘束されるのに、ここまで気を遣ってくれるなんて、何と有難いことか。
「見張りは常に二人、部屋につけることになるが、食事は普段と変わらぬものを運ばせる。他に何か必要なものがあれば、いつでも言えば良い。部屋の外に出るときも見張りと共に、それも、必要最低限のときに限られるが・・・数日間だけだ、我慢して欲しい。」
「はい、大丈夫です。」
「それと、こんな状況では無理もないことかもしれんが、きちんと食べて、しっかり眠りなさい。三人も続けて息子を亡くすような事になっては、私も耐えられん。」
「父上・・・」
そうだ。悲しんでいるのは、自分だけではないのだ。しっかりしなければ。
「はい、ありがとうございます。」
ファイは心に誓った。父王のためにも、絶対に処刑などされるわけにはいかない。



問題はノートだ。何かの拍子に見張りの兵にでも見つかってノートに触れられれば、黒鋼の姿が見えてしまう。
(兄上に渡せるといいんだけど・・・)
黒鋼に預けて届けてもらう事も考えたが、見張りの前で彼と口をきくわけにも行かない。
どうしたものかと考えていると、アシュラの方から部屋を訪ねてきた。
「少し様子を見にね。顔色が少し良くなったかな。夕食はちゃんと食べたって聞いたけれど。」
「はい。いつまでも落ち込んでたら、父上にも心配をかけてしまうので・・・」
「そうだね。それに、ファイには笑顔の方が良く似合っている。」
そう言って頭をなでると、アシュラは見張りの兵に少し部屋を出ているように命じた。兵は、戸惑った様子で反論しようとする。
「しかし殿下・・・」
「いいから。何かあっても自己責任だ。君たちに聞かれていては、ゆっくり話も出来ない。」
「・・・はっ、かしこまりました。」
意外にあっさり退いて、二人の兵は部屋を出た。驚くファイにアシュラは笑って説明する。
「見張りは、君が魔女ではないと信じている者達から選んだそうだから。」
「そうなんですか・・・。」
そんな所まで、王は気を配ってくれたのか。

二人きりになると、アシュラは早速本題に入った。
「ノートを私に。所有権も、裁判が終わるまで手放した方が良い。」
「所有権も・・・ですか・・・?」
しかしそれでは、死神の目も失ってしまう。
「この裁判、勝てば君は、神に愛された王子だ。戦を仕掛けてくる国もなくなるだろうし、あったとしても、その目無しに勝ってみせるよ。」
「・・・・・・所有権を手放すと、具体的にはどうなっちゃうのー?」
ファイは黒鋼に尋ねた。
目を失うだけなら良いのだが、さっきから黒鋼がずっと寂しそうな目をしている。
「・・・所有権を手放すと、ノートに関する記憶が全て失われる。死神に関してもだ。勿論、俺の姿も見えなくなる。」
「え・・・」
アシュラは知っていたのだろう。ノートのルールに書いてあるのかもしれない。自分で使うことはないからと、読んだ事はなかった。
「記憶がなければ、辛い状況になっても、自白する事はないだろう?」
「でもっ・・・」
「うっかり死神と話している所を、聞かれる心配もない。大丈夫、またノートに触れれば、見えるようになるから。」
「・・・・・でも・・・」
それでも黒鋼の事を忘れるなんて。彼をまた、独りにするなんて。
「大丈夫だ。」
黒鋼は言った。現状がアシュラの行動の結果でも、今のアシュラの提案は、ファイを護るためには正しいものであるように思えた。
「ノートにまた触れれば、使ってた頃の記憶は全部戻る。ただ、所有権も取り戻さねえと、ノートに触れている間しか記憶は保てねえが・・・」
「ああ。それなら、裁判が終わった後は、所有権はまたファイに。」
ほんの数日、忘れるだけだ。ほんの数日、寂しいだけだ。
「また、 会えるんだよね・・・?」
友達になった記憶も、手を握り合った記憶もそのままで。
「ああ。」
必ず二人はまた、この関係に戻れる。
「・・・・・・・」
ファイは立ち上がり、机の引き出しの奥に隠していたノートをアシュラに渡した。
そして、一度だけ黒鋼を強く抱きしめる。そして体を離すと、赤い瞳を見つめたまま、宣言した。

「所有権を放棄します。」

瞬間、黒鋼の姿は視界から消え、記憶に若干の混乱が生じる。
「あ・・・あれ・・・?オレ・・・」
どうしてこんな、何もない方向を見ていたのだろう。今、何をしていたのだったか。
そうだ、偶然自分の周りで色んな人間が死んだ事で、自分に魔女の疑いが掛けられて、それなのにアシュラは、臆する事もなく、様子を見に来てくれたのだった。
「少し、疲れているんだろう。」
アシュラはファイの手を取り、ファイをベッドへ導く。
「今夜はゆっくり休みなさい。見張りは、部屋の前に待機して部屋には入らないように言っておくから。」
「はい・・・ありがとうございます・・・」
ベッドに入ると、アシュラが額に口付けた。
「お休み。良い夢を。」
「はい・・・兄上も・・・。お休みなさい。」
照明が消えて、アシュラが部屋を出て行く音がする。見張りの兵は本当に外で待機してくれるようだ。
良かった。見張られたままで、どうやって眠ろうかと思っていた。
けれどいざ目を閉じてみると、余計な事ばかり考えてしまう。なくした二人の兄のことや、これからのこと。不安に胸が高鳴って、とても眠る事など出来そうに無い。
それでも、今日父に呼び出される前に、自分は眠りに堕ちようとしていなかっただろうか。とても安らかに、何故かひどく落ち着いた気分で。
「オレ・・・今までどうやって寝てたんだっけ・・・」
独り言がやけに大きく響く。この部屋はこんなに、広くて静かだっただろうか。




ファイからアシュラに所有権が移ったので、黒鋼はアシュラに憑いて部屋を出た。自分の姿が見えないファイの側にいても、切ない思いをするだけだっただろうから、それは良かったのだが、不安と孤独は、ファイの記憶が戻るまでは、消えることはなさそうだった。
廊下を歩いている途中、アシュラのノートから、何か紙が落ちた。黒鋼が拾い上げると、それは以前、ファイが黒鋼のノートから破り取った一ページだった。書かれた名前を消してくれた後もそのまま。
(まだ持ってたのか・・・)
「ノートの切れ端か?」
アシュラが足を止めて問う。
「いや、何でもねえ。」
黒鋼はそう言って、そのページを自分のノートに挟んだ。
(忘れれば良い、か・・)
忘れられるわけがない。ファイが名前を消してくれたお陰で、悲しかった記憶は、何よりも嬉しい思い出に姿を変えたのだから。見るのも辛かったこのページが、今は何よりの宝物に変わったのだから。
ファイの記憶が戻ったら、もう一度彼に礼を言って、あの夜より長く、彼を抱きしめよう。

早く裁判が終われば良い。
人の寿命を喰らって何世紀という時を生きる死神も、この時ばかりは、たった数日を限りなく永く感じた。





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