夢を見た。
ファイは、敵国の兵士の屍が大量に転がる原の真ん中に立っていた。
さびた鉄の臭いと、腐った肉の臭いが満ちている。気分が悪くて、とにかくここから離れようと、屍を踏まないように足を動かす。しかし急に、何者かが、足首を掴んだ。ぎょっと見下ろすと、まだ息のあった兵士が、恨めしそうな目でこちらを見上げていた。その頭上に浮かぶ名に覚えがある。ノートで殺すために、読んだ名だ。
「お前が殺した・・・」
兵はそう言うと、突然胸を押さえて苦しみだし、息絶えた。

「う・・・あ・・・」
怯えて後ずさると、そこにあった屍に足が当たった。はっと振り返ると、見開かれたままの屍の瞳と、目が合った。
「っ・・・」
悲鳴を堪えて目をそらした先で、また別の屍と目が合う。いつの間にか、原に転がって居る全ての屍が、虚ろな目で自分を見つめていた。
「あ・・・あ・・・」
恐怖のあまりその場に崩れ落ちるファイに、何千何万の声が、叫んだ。

「「「「お前が殺した!」」」」




「っ・・・!」
ファイはがばりと体を起こした。そこは屍の原ではなく、いつもの自分の部屋。
夢を見ていたのだ。満月が真南に見える。眠ってから、それほど時間は経っていないらしい。
背中が汗でじっとりと濡れている。呼吸が整わない。
手で、顔を覆って、俯く。
(なんて・・・嫌な夢・・・)
不意に、背後から肩を叩かれる。びくりと振り返ると、黒鋼が驚いたように手を引いた。
「悪い、驚かせたか・・・?」
「・・・・・・黒りー・・・」
初めての『友達』から初めてつけられたあだ名に、黒鋼は少しむずがゆそうな顔をして、指でファイの頬に触れる。
「また泣いてる・・・」
「え・・・あ・・・ごめん、何でもないんだ・・・」
そういってファイは、寝間着の袖でごしごしと涙を拭いた。


初めて参加した戦は、アシュラの言葉通り、あっという間に終わった。ファイは、指示されるままに名を読んだだけ。鎧の造りから判る高将を十数人殺しただけで、敵軍の指示系統は混乱し、ほぼ戦わずして撤退を始めた。
『英雄と名高い将も、ノートの前にはただの人だな。』
アシュラはそう言って笑った。
こちらの兵達は、敵の将の怪死を神の加護だと喜んだ。けれど本当は、アシュラが振るった死神の力。
彼は恐ろしくないのだろうか。自分はあれからずっと、こんな調子なのに。


「黒むーは、今まで何人も殺してきたんだよね・・・」
「・・・まあな。」
「怖くなかった・・・?」
「お前は、肉や魚を食うのに躊躇するのか?」
「・・・そっか、それもそうだね・・・」
死神は、人を殺し、その寿命を貰って生きている。人間が動植物を食べるのと同じ感覚なのだろう。けれど、
「あの人たちの名前を読みながら、いろんなことを考えたんだ・・・。この人たち皆、家族とか、友達とか、恋人とか・・・護りたい人が居るから、ここに来てるんだろうなって・・・・帰りを待ってる人が居るんだろうなって・・・」
けれど皆、40秒後には死んだ。
ノートがなければ、もっとたくさんの兵が、あそこで命を落としただろう。それはわかって居るけれど。
ただ殺すことが怖いのではない。誰かから、愛する者を奪ってしまう事が恐ろしい。
「前に一度、一番上の兄上が、戦場で大怪我して帰ってきたことがあったんだ。死ぬかもなあって覚悟したとき、家族とか、友達とか、大事な人の顔が頭に浮かんで、その人達のために戦って死ねる事が誇らしかったって言ってた。幸いそのときは命を取り留めたけど・・・」
結局戦場で命を落とすことになった兄は、しかし棺の中で微かに笑顔を浮かべていた。ノートのせいで死んだとは言え、彼の死因は戦死。喉に矢を受け、愛する者を想いながら死ねたのだろう。
けれど、あの日ノートで死んだ者たちは、ただ名前を書かれただけ。戦いもしないうちから、傷を負うこともなく、ただ胸を押さえて死んだ。
「一番の罪は、あの人たちに、愛した人たちのことを想う時間さえ、許さなかったことじゃないかと思うんだ・・・」
あの兄が聞けば何と言うだろう。きっと、愛する者のために戦うという戦士の誇りを踏みにじるこの行為を、激しく罵るに違いない。
たった十数人、名前を読んだだけでこの罪悪感。この先もずっと、こんなことを、続けていけるのだろうか。

「お前、死神には向かねえな。」
黒鋼はそういって、ファイのベッドに腰掛けた。
「だが、ノートを使うのが怖いって言うのは、ここに来て少し分かった気がする。お前が言うのとは、少し違うと思うが・・・」
「じゃあ・・・どういう怖い・・・?」
「・・・俺は・・・お前の名前は、書けねえと思う・・・」
人間を殺すことは怖くない。ただ、ファイを失うことだけは、恐ろしいと思う。人間の営みには理解できない事が多いけれど、ファイの側は、心地良い。
「・・・・・・」
ファイは少し驚いた顔で黒鋼を見つめて、背中からぎゅっと抱きついた。
「何だ。」
「えへへー、ちょっと嬉しくてー。」
「何がだ。」
「いつか、自分で解ると思うよ。」
「?」
今はまだ、黒鋼自身、それが好意だとは気付いていないようだから。



「ねえ、それ黒むーのデスノートだよねー?」
ファイは黒鋼の腰に下げられているノートを指差す。
「ん?ああ、まあな。」
「中、見ても良い?」
黒鋼はノートをファイに渡した。
開くと、様々な言語で多くの人の名前が書かれている。
「凄い・・・こんなに・・・」
けれど、不思議と、自分が持っているノートのように、嫌な感じはしなかった。読めない言語が多いからかもしれない。或いは、人間と違って、死神は生きるためにノートを使ってるのだと、解っているからかもしれない。

「本当はそれが拾ったノート。お前が持ってるのが、本来の俺のノートだ。長く生きてる奴ほど多く殺してる。こいつば随分、生きたみたいだな。」
「何で死んじゃったんだろう・・・」
「さあな。寿命が切れることを忘れてたか、生きてることに飽きて書くのをやめたか・・・或いは・・・」
「或いは?」
「・・・いや・・・それはねえな・・・」
人の命を奪う存在である死神は、特定の人間に好意を持ち、その人間の寿命を延ばす目的でノートを使うと死ぬという話を聞いたことがある。しかしこの死神が、人間に好意を持っただろうか。
「こいつは多分、人間を殺す対象だとしか思ってなかった奴だから・・・」
誰だったのかまでは判らない。ただ、ノートの中にある名前を見つけた。彼が”ニンゲン”と呼び、蔑んだのであろう死神の名を。

「ねえ、これ、変わった文字だねー。」
ノートをぱらぱらとめくっていたファイが、ある名前に目を留める。様々な国の文字で書かれた名前の中には、見たこともない文字も多数あったが、その中でも極めて異様なそれに、黒鋼は僅かに表情を歪める。
「死神界の文字だ。」
どうして数ある名の中からそれを見つけ出したのか。何か、感じるものがあったのだろうか。
「俺の名だ。」
「っ・・・」
ファイははっと顔を上げ、黒鋼は目をそらした。
ノートで死神は殺せない。それでも、消えない文字は、今も心の傷を抉り続ける。

「・・・・・」
ファイは、しばらくその名をじっと見つめて、突然ノートからそのページを破り取った。そして机に向かって、その上にあったペンで黒鋼の名を消す。
「おい・・・」
黒鋼がファイの隣に立ったときには、ページは引き出しの中へ。
「忘れちゃえばいいよ!」
ファイは真っ直ぐに黒鋼を見上げて、強い口調で言う。
「もう独りじゃない!これからいくらでも、ここで楽しいことがあるから!だから、悲しかったことは、全部忘れちゃえば良い!」
「・・・・・・」
黒鋼は戸惑いながら、ファイに手を伸ばした。そして、ファイをそっと、抱きしめる。
「く・・・黒むー・・?」
「嬉しかったら、こうするんだろ?」
「え・・・あ、そ、そうか・・・そうだね・・・」
さっき自分がしたことだ。けれど黒鋼の抱擁があまりにも優しくて、壊れ物を抱きしめるみたいにそっとするから、アシュラに抱きしめられたときみたいに、鼓動が早くなる。
これが本当に、友達の抱擁だろうか。

「あ、あの・・・オレ、もう少し寝るよ!まだ夜中みたいだしー。」
そう言い訳してファイは黒鋼の腕から逃れた。顔が赤くなっていないようにと願ったが、黒鋼は特に違和感は感じなかったらしく、ベッドに潜り込むファイを引き止めることはしなかった。
その代わりに、優しい言葉を掛けてくれる。
「今度は、嫌な夢見ねえといいな。」
「うん・・・ありがと・・・」
なんだろう。変な感じだ。自分から離れたくせに、物足りないような。同じ部屋の中にいるのに、心細いような。
「ねえ、黒みゅー・・・」
「ん?」
「手を・・・握っててくれる・・・?」
「握手とか言うやつか?」
「ううん・・・そうじゃなくて・・・」
おかしいだろうか。ただの友達なのに、もっと近くに来て欲しいなんて。
死神に手を握ってもらって、安心する気がするなんて。
「良い夢見れるように・・・おまじない・・・。」
黒鋼はこんなことで夢見が良くなるのかと不思議そうな顔をしたが、ファイの要求は叶えてくれて、ファイは久し振りに朝までぐっすり眠った。

ファイが眠りに落ちてすぐ、アシュラが部屋を訪れた。調べ物をしていて、これから眠るところだという。最近あまり眠れていない様子のファイを心配して様子を見に来たらしく、ファイが良く眠って居るのを確認すると、静かに部屋を出て行った。
死神と繋がれた手には、僅かに目を細めただけで何を言うでもなく。
人の情に疎い死神には、その瞬間アシュラが抱いたどす黒い感情を察する事ができない。



ノートは悲劇を紡ぎだす。



その後、ファイは何度かアシュラに連れられて戦場に赴き、ノートの力で勝利を収めた。
次第に、セレス国に挑む国は減り、同時に、近隣諸国に不吉な噂が流れ始める。

「あの国には魔女がいる。」




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