『聖書にしるされた大洪水』。
封真がそう言ったとき、黒鋼は別の話を思い出していた。
『次の地球の君達へ No.099』。あの中でも、雨が人を殺した。人類が滅びたのは空が落ちたせいだったが、雨も確かに、人を殺したのだ。
「人類はどうやって滅びると思う?」
思わず口をついた質問に、ファイが驚いた顔をする。
「どうしたのー。そんな質問、黒みゅーらしくないよ?」
「・・・そうだな。」
黒鋼は、ベッドに横になった。

今は疲れてるだろうから休めと与えられたのは、研究員が仮眠をとるための部屋らしく、さほど広くはないスペースにベッドが二つ並べてあるだけの部屋。バベル移住後は使われる機会もなかっただろうが、手入れは行き届いていた。
「電気、消すね?」
「ああ。」
壁際に立ったファイは、そこに二つのスイッチを見つける。一つは照明のためのもの。もう一つは、横に字が書かれているが、かすれていてよく分からない。
「sk・・l・・t?」
読めない部分を補完することはできなくて、ためしにスイッチを入れてみる。すると、天井の一部がスライドして、そこに窓が現れた。勿論、外の空気が入り込まないように、ガラスは張られている。
「なんだ?」
「skylight(天窓)かー。」
窓の下に移動してファイは空を見上げた。雲に覆われた真っ暗な空。窓があっても、差し込む光はない。今が何時なのかは分からない。地下都市では、時計はバベルごとに定められた時間を刻み、その時刻に合わせて太陽は空に映し出された。地上には、定められた時間はない。地球は回り続けても、昇っては沈む太陽を、人が感じる事は出来ない。
「この向こうに、青空はあるんだよね・・・」
「・・・・・・」
本当にあるのだろうか。あったとしても、この分厚い雲が、晴れることなどあるのだろうか。口を閉ざした黒鋼を、ファイは覗き込む。
「そんな顔しないで。」
黒鋼の不安を、感じ取ったのだろう。そっと頬に手を添えて、柔らかく微笑む。

「オレの瞳を、青空だって言ったね。」
「・・・ああ。」
「だけど、スカイペインターに、太陽は描けないんだ。」
空を描くファイが出来るのは、空の色を伝える事だけ。
「でも・・・君がオレの目を見つめると、オレの空に太陽が宿る。」
青の中に浮かぶ赤い輝きは、いつか作った太陽より、暖かく優しく、自分を照らしてくれる。
「一緒に空を目指したのが君で良かった・・・。」
人類滅亡のシナリオより、強い運命を感じている。
「雨が降っても、空が落ちても、君と一緒なら青空を目指せると思うんだ。」
一人の願いは弱いかもしれない。けれど、集まった願いは、必ず空へと届くだろう。
「きっと、信じる者の上に、光は差すと思うんだ。」
「・・・・・・」
黒鋼はじっとファイの目を見つめ、眩しそうに、目を細めた。
「目を、逸らさないで。」
「・・・駄目だ・・・。」
ファイの向こうに見える天窓に、とても目を開けていられないほど、目映い青空の幻影が見えた。
いつの時代もきっと人がそうしたように、黒鋼は両手を伸ばした。
「抱きしめたい。」
「・・・・・・」
ファイは少し驚いたように目を見開いたけれど、拒む理由など何もなかった。人は空に手を伸ばし、太陽の温もりを求めるもの。その行為に、理由など要らない。

今手にしたこの空を、自分達は決して失くさない。




「さて、小狼だったな。」
「はい。」
黒鋼とファイを部屋に案内した後、封真は建物に入ってすぐの部屋に小狼を通した。そこは、機械や薬品が無造作に並べられた研究室。
「寝る前にエネルギー摂取が必要だろう。動力は電気か?」
「あ・・・」
サイボーグには食事は必要ないが、代わりとなるエネルギーは必要だ。そういえば、施設を抜け出してから、一度も補給を行っていない。内臓電池は、通常の活動状態なら数ヶ月はもつものだが、施設からの脱走後の自己修復機能の作動により、かなりのエネルギーを消耗している。
「ここの電気は全て自家発電で賄ってる。一度にあまり大きな電気は使えないから、こまめに充電しないとな。」
「じゃあ、お願いします。」
「外部電源からの接続端子は首の後ろか?」
「あ、はい。」
驚いた。封真は、工学系に強い人だということは黒鋼とファイから聞いて知っていたが、サイボーグについてもここまで詳しいとは。
「サイボーグ研究に関わった事があるんですか?」
「いや。長生きしてれば、その分余計な知識も身につくんだ。ああ、このコードが使えそうだな。ここに座って。」
長生きといったって、ファイや黒鋼と年はそう変わらないだろうに。そう思って、だがこの人は14年も一人でこの地上にいたんだったと思い出す。人の主観は、言葉の定義を揺らめかせる。機械脳は違和感を感じても、生体脳では理解が可能だ。
充電用のコードにつながれながら考える。一人で過ごす14年、どんなに、長い時間だっただろう。何が彼に、そこまでのことをさせたのだろう。
「貴方は、どうして・・・」
「充電を開始する。意識はダウンするだろうから、話の続きは目が覚めてからにしよう。」
「あ、はい・・・」
「じゃあ、お休み。」
充電が始まる直前、正面の壁に、青空の絵が貼ってあるのを見つけた。
与えられた情報はほぼ皆無だったが、何故か、ファイが描いたのだと思った。


小狼が眠りに付いてから、封真は充電器のメーターを確認した。予想を少し上回る速度で回っている。
「思ったより食うな・・・。『箱舟』がダウンしなきゃ良いが・・・。」
駄目なようなら途中で止めるかと呟いたとき、突然喉の奥から何かが競り上がってくる。
「ぐ・・・・ごほ、ごほっ・・・」
咳き込んで封真は床に膝を付く。同時に床が紅く濡れた。
無機質な研究室の中に、血の臭いが漂う。不快な臭いではない。この地上では、それだけが自分に許された生き物の気配だったから。
「まあ、気持ちの良いものではないけどな・・・」
苦しげにそう呟いて、机の上にあった薬のビンを手にとる。
「残り4錠か・・・。効き目も薄れてるな・・・。どうにもならないくらい進行してるのか・・・。」
呟きながら、最後に降りたバベルで会った、古い知人の顔を思い出す。
「星史郎さんと昴流さんはもう、逝ったんだろうな。」
次は自分の番。覚悟はしていた事だ。それに、黒鋼とファイは間に合った。
「もうそんなに、するべきことは残ってないか・・・。」
封真は、残った薬を全て、一度に口に入れた。






「見せたいものがあるんだ。」
翌朝、と呼ぶべきなのだろうか。昼も夜もないこの地上で皆が眠りから覚めてから、封真はそう切り出した。
「見せたいものー?」
「ああ。俺が、地上に留まった理由。この地上でしていたこと。」

封真は三人を、研究所の奥へと案内した。廊下の一番奥の部屋、扉のプレートに、『Ark』と記されている。
「箱舟・・・?」
「ああ。」
中に入ると、そこは何もない部屋だった。しかし、壁一面が、他の部屋とは違う不思議な光沢のある物質で覆われている。
「この壁・・・何で出来てるのー?」
触れれば金属である事はわかった。けれど、鉄などの、触れなれた金属の感触とは少し違う気がする。
「自然界には恐らく存在しない、人工的に作り出された金属元素だ。耐酸性は金の数百倍。バベル移住計画の前は、こいつで都市を作り直す計画があったらしいが、作り出すのが手間だから実現には至らなかったそうだ。まあ、とりあえず、酸性雨に恐ろしく強いってことだけ理解してくれ。」
「酸の海を渡る箱舟ってワケか・・・」
「そういうこと。」
封真は壁にあったスイッチを押した。すると、床の一部が持ち上がって、地下へと続く階段が現れた。
「聖書にしるされた箱舟は三階構造だったらしいが、こいつは一階のこの部屋と、地下一階のみだ。酸の海に浮かぶ事はしない。水の底でただじっと、水が引くのを耐える。さあ、行こう。」
一階分にしては、階段は随分長かった。壁は全て同じ金属で覆われ、途中には5枚も同じ材質の扉があった。
「耐酸性は十分証明されてるんだが、念には念を、な。」
決して一滴の雨も入れないように。
「そこまでして・・・。この先に何があるんだ?」
「ノアの箱舟の話を知らないか?」
「いや、知ってるが・・・。」
「なら、聞くまでもないだろう。箱舟に乗ってるのは・・・」
最後の扉が開く。そこには広大な地下室に並んだ、無数のカプセルがあった。
「雌雄一対の生物達だ。」
「凄い・・・」
人間以外の動物は、全て滅んだはずだ。けれどそこには、写真や映像で見たままの生き物達が、カプセルの中に浮かんでいた。今もクローン技術などにより存在はしている犬や猫、家畜の類は勿論、人に飼いならされる事はなかった動物達や、ファイたちが映像資料で見たことのないようなものまで。
「これだけあっても、まだ、かつて実在した生物達の100分の1にも満たないんだが・・・」
「これでも・・・!?」
改めて、人が地球から奪ってきたものの大きさを思い知らされる。
「これ・・・生きてるの・・・?」
「ああ。このカプセルは人工子宮。こいつらは皆、生まれる前の状態で眠ってる。だが、体は繁殖期くらいまで成長させてある。生まれてすぐに、繁殖が可能だ。大型動物はさすがに、スペースの問題で小さい状態でとめてあるけどな。カプセルから出ると同時に、成長が始まる。地上に放つのはまず草食動物から。草食動物が十分に増えたら肉食動物。そいつらが生きて、増えていけるかどうかは、地球次第だ。」
「こんなにたくさん・・・どうやって・・・?」
「作ったんだ。この地下空間とカプセルは、ここが研究所だったときに用意されてたから、地上で一人ですごす長い時間の中で、ずっとこいつらを作ってた。こいつらはみんな、クローンじゃない、一から作った動物達だ。遺伝子を分子レベルから組み上げて生き物を作り出す技術を使った。一世紀ほど前に実現はしたものの、クローン技術の生産性には遠く及ばずに、見向きもされなかった技術だ。面倒だが、こいつらは、次の地球の最初の生命になるから・・・クローンじゃない方が良い。」
ここは、箱舟なのだ。大洪水の後に、生命の復活を図るための。
「人もいる・・・」
「ああ。」
一対の男女。カプセルに、ノアと描かれていた。
「人間を作るかどうかは、正直迷った。でも、チャンスくらいは、与えられても良いんじゃないかと思ったんだ。」
現実問題として、たった一組の雌雄から、種が始まっていくのは難しい。誕生から繁殖期までの時間が長い動物ほど、それは困難になる。封真はそう言いながらも、期待をこめた眼差しで、カプセルを見つめる。
「聖書には、ノアは10世紀近く生きたと書かれていた。一つの個がそれくらい生きるなら、可能なんだろか・・・。」
「封真君・・・?」
何か、深い感情が込められた呟きにファイが封真の顔を窺うと、封真はぱっと笑顔を浮かべた。
「何でもない。ここはもう良いな。次はこっちへ。」

カプセルの間を縫って、箱舟を奥へと進むと、もう一枚の扉の向こうに、更に部屋があった。そこは、特に変わった様子のない、極普通の居住スペースに見えた。壁もむき出しの金属ではなく、柔らかい色の壁紙が貼られている。部屋にはいくつかの扉があって、あけると寝室やバスルームに繋がっていた。
「家・・・だよね・・・?」
「ああ。あんなカプセルの間で暮らすのは、気が狂うだろ?」
今は見て回らないが、この先もまだいくつかの部屋に分かれていて、ある程度の広間や、食糧貯蔵庫、発電機や空気製造機がある機械室もあるという。
「食料は、人間二人で2年ほど暮らせる分を貯えてある。地上が酸の水で覆われても、ここには電気と空気と綺麗な水が供給される。機械類のメンテナンスは怠ってないから多分大丈夫だと思うが、万が一のときは修理道具とマニュアルも置いてる。そこまで数はないが、本や、気晴らしになるような道具もそれなりに。密閉空間での生活は、とにかく精神面への影響が心配だからな。それと、天井のランプが見えるか?」
封真は上を指差した。赤いランプと青いランプがともっている。
「今赤い方が空気の質、青い方が水の有無を示している。雨が降れば青い方も赤く変わる。もう一度青に戻れば水が引いた証拠。赤いほうも青くなれば、外に、人間が呼吸できるだけの清浄な空気があるということだ。」

「ちょっと待て。さっきから、何の話をしてるんだ・・・?」
黒鋼が封真の話を遮った。
「箱舟だの洪水だの・・・雨が降ることだって、確定したわけじゃ」
「未来はいつも不確定だ。だが、データは限りなく100%に近い可能性を示している。」
封真は力強い口調で言った。
「雨は降る。一気にだ。酸の雨は、地上を覆うだろう。食料は二年分だといったが、水が引くまでの期間は一ヶ月、長くて二ヶ月だと見込んでいる。雨は空を洗うだろう。空の汚れが洗われた後は、綺麗な雨が降って地上の酸は薄まるはずだ。そして光さえ差せば、植物の復活は早いと思う。空気は浄化され、生き物が呼吸できるようになるまで、約半年。あくまでもシミュレーションだから、数ヶ月の誤差は生じる可能性はあるが、半年後、二つのランプが青くなって、外に出たお前達はきっと、一面の青空を目にするだろう。」
「・・・!!」
確かに約束した。一面の青空を見せてやると。そして確かに自分達は、青空を見るためにここまで来たのだ。
「だけど・・・こんな・・・滅亡のシナリオは想定してなかった・・・」
「滅亡じゃない。創世だ。全てのものを洗い流し、地球は息を吹き返す。お前達は最初の人間、アダムとイブになるんだ。」
「アダムと・・・イブ・・・」
「勿論強制はしない。バベルに戻るなら送っていく。だが、ここが一番青空に近いのは確かだ。」
遠い昔に忘れ去られた宗教の話をしているのではない。これは現実に起こるだろう未来の話。
「箱舟なんてなくても、生物は微生物からまた進化を遂げるだろう。大洪水の後、箱舟を開けるかどうかは、お前達に任せるよ。」
「ちょっと待って・・・。お前達はって・・・」
今度はファイが、封真の話を遮った。さっきから、封真は、二人の話しかしないのだ。最初の人間はアダムとイブの二人。食料も二人分。小狼は封真にとって想定外だった上に、食料は必要としないのでカウント外だったとしても。
「封真君は・・・?」
「・・・俺は・・・・・・」

その時突然、箱舟の中に警報音が鳴り響く。
「なんだ・・・?」
「っ・・・!まさか、こんなに早く・・・!?」
封真の顔色が変わった。
「何が起きたんだ!?」
黒鋼の問いに封真が答えるより早く、機械の動作を感知して小狼は天井を見上げる。
「雨・・・」
その不吉な言葉を肯定するかのように、地上の水の有無を示すランプの色が、赤く変わっていた。







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