「まさかこんなに早いなんて・・・!」 封真は身を翻して箱舟の出口に向かった。カプセルの部屋を抜けて、階段を駆け上がる。ファイ、黒鋼、小狼の三人も後に続いた。 「どこ行くの!?」 「研究室だ!このままじゃ、建物が溶ける!」 箱舟から出ると、外壁に雨が当たる音が聞こえた。バベルでは聞いた事もないくらい大きな音。一体どれほどの勢いで降っているのか。この音が聞こえる場所に居ることに、恐怖を感じるほどに。 「じゃあ、もうこのまま箱舟に・・・」 「この金属は酸には強いが、衝撃にはさほど強くない。地上に水が満ちて外壁が緩やかに溶ける状況になるまで、外壁が崩壊しないように雨から守らなきゃならない。それに・・・」 研究室に入った途端、封真の足が、突然がくりと折れた。 「っ・・・ぐ・・・」 「封真君!?」 ファイが駆け寄ると、口元を押さえた封真の手の指の間から、赤い液体が零れ落ちた。 「封・・・真君・・・」 血だ。反射的に体が強張る。封真は苦々しげに薄い笑みを浮かべた。 「悪いな・・・俺は行けないんだ・・・・」 封真は立ち上がることを諦めて、後ろを振り返った。 「小狼!左奥から二番目の機械を!」 「っ・・・はい!」 小狼は指示された機械に駆け寄った。 「お前、病気なのか・・・?」 黒鋼が封真の横に膝を付く。助け起こそうとする手を拒んで、封真は壁に背を預ける。 「病気とは・・・少し違う・・・これは・・・」 何かを語ろうとした封真は、言葉を切って耳を澄ました。雨の音がやまない。 「どうして・・・」 「封真さん!」 小狼が慌てた様子でこちらを振り返る。 「スイッチを入れても起動しません!線がどこかで切れています!」 「・・・・・・雨か・・・」 斥力発生装置やシールドと呼ばれる防雨装置の本体は外にあるが、屋内から起動できるようにスイッチは研究室内に設けてある。室内から繋がる線のどこか、恐らく、外壁から本体に繋がる辺りが、すでに雨で溶けたのだろう。 「人は・・・無力だな・・・」 封真も、酸の力がここまで強いとは予想していなかったらしく、唇をかんで立ち上がる。 「どうするんだ!?」 「お前達は箱舟に入れ。機械本体はあの金属で覆ってるから問題はないはずだ。手動で起動させる。」 「外に出るの!?」 「ああ。」 「無茶だ!」 こんな強い酸の雨、人も当たれば無事ではいられないだろう。しかしファイと黒鋼の制止を封真は振り切ろうとする。 「どうせ俺はもう死ぬから・・・」 「そんなっ・・・!」 しかし、封真の行く手に、小狼が立ちふさがった。 「外には、おれが行きます。」 「・・・・・・どけ。お前も・・・青空を見に行くんだろう。」 「貴方のその足取りでは、本体まで到達できません。おれは、多少傷ついても平気だから。」 そう言って小狼は廊下に飛び出した。 「小狼君!待って・・・!」 ファイが後を追って部屋を出る。しかし小狼は手も触れずに、機械式の扉を開けて、次の瞬間にはもう外に出ていた。扉によって四角く切り取られた風景は、滝のような雨で覆いつくされていた。 「小狼君っ・・!」 ファイが制止する間もなく、扉が閉まった。 「小狼君!小狼君!!」 すぐに扉に駆け寄ってそれを開こうとするが、小狼がロックしたのか、どうしてもそれは開かない。 「小狼君!!!」 ファイの叫びと扉を叩く音が、むなしく廊下に響いた。 天から降り注ぐ雨は、叩きつけるように体に当たった。 「皮膚が溶けてる・・・」 外に出て数秒、機械の本体に駆け寄ったときには、腕の皮膚が溶けて、機械がむき出しになっていた。 「急がないと。」 防雨装置を守る箱を開けて、起動スイッチを押す。しかし、機械は動かない。 「どうしてっ・・・あ・・・」 内部から起動させる線が切れたのだ。送電用の線も、切れていても不思議ではない。 「電気が来ないのか・・・」 人は、無力なのか。いくらサイボーグの自分でも、動力源がないものを動かす事はできない。 「動力源・・・電気・・・あ・・・」 小狼は思いついた策を脳内でシミュレートする。脳は、一秒もかからずそれが最良の行動であると判断した。 昨夜、封真が充電してくれたお陰で、内臓電池は満たされている。うちの大事な機械がダウンしそうでひやひやしたと、目が覚めてすぐに苦笑された。今思えば、あれは地下の人工子宮のことを指していたのだろう。 (おれの意識をダウンさせて、全電力を機械にまわす・・・推定稼動期間は3週間ほど・・・封真さんのシミュレーションはクリアできる・・・) 自分を電池にして、機械を動かす。問題は、もう戻れなくなる事だけれど。 (ダメージが大きい・・・時間がない・・・) 再び腕を見る。機械が溶けて、滑らかだった表面は形が変わっていた。むき出しの機械の腕で顔に触れる。機械同士がぶつかる音がした。一体、今時分はどんな醜い姿をしているのか。頭の中にたくさんの警報音が響く。酸性雨に受けたダメージの修復が追いつかない。いや、 (自己修復機能が・・・停止した・・・) 回復は、もう不可能だ。 (こんな姿じゃ・・・戻れないか・・・) 小狼は小さく笑って、機械から線を一本引き出した。そしてそれを、自分の体につなぐ。 (送電開始。) 「小狼君・・・小狼君・・・!」 「おい、」 小狼の名を呼び続けていたファイの肩を黒鋼が叩く。 「雨の音が・・・」 「!」 口を閉ざすと、大きかった雨の音が、小さくなっている事に気がついた。 「装置が起動したんだ・・・」 「じゃあ・・・小狼君は・・・?」 どうして彼は、戻ってきてくれないのだ。 『ファイさん・・・黒鋼さん・・・聞こえますか・・・』 「・・・!」 扉の向こうから、声が聞こえた。 「小狼君・・・!」 『すいません・・・もう、動けなくなりました・・・そっちには・・・戻れません・・・』 「そんな!どうして!!」 『扉はもう開けないで下さい・・・。これから意識が緩やかになくなります。残された時間、貴方達の声を聞いていたかったんですけど・・・すいません、もう、音が聞こえない・・・。』 「っ・・・!」 きっと、ファイは自分の名前を呼んでいるだろう。彼がつけてくれた、この名前を。 「これはおれが望んだことだから・・・ファイさん、泣かないで下さいね。」 見なくても分かるのはどうしてだろう。彼があの綺麗な空色の瞳を、涙で濡らしていると。 小狼は研究所の壁に体を預け、空を見上げた。シールドに阻まれた雨が、その上を流れ落ちていく。不思議な光景だ。 (綺麗だ・・・) 全てを洗い流す酸の雨も、体に当たらなければ、綺麗だと思えた。 (きっと、青空はもっと、綺麗なんだろうな・・・) 見たかったような気はする。けれど、ファイと黒鋼が見てくれるなら、それで。 「ファイさん・・・黒鋼さん・・・空、見てくださいね・・・。」 体の機能が次々と停止していく。頭の中で鳴り響いていた警報も消えた。 「貴方達に出会えてよかった・・・。ファイさん・・・黒鋼さん・・・」 (あ・・・) 突然、視界が真っ青に染まった。 見たこともないような、深く澄んだ、一面の青。 (ああ・・・これが・・・) 「・・・青空が・・・見えました・・・」 そして、意識が途切れた。 「青・・・空・・・?」 そんなはずない。こんなに激しく雨が降っているのに。空が、晴れるはずないのに。 「おそらく・・・視神経をつかさどる回線が切れたんだろう・・・それで視界が・・・」 研究室から出てきた封真がそう分析する。しかし、ファイは否定した。 「違うっ!小狼君は・・・小狼君は青空を見たんだ・・・!」 「・・・ああ・・・そうだな・・・。」 封真が呟くようにそう答えたとき、急に床が振動した。 「っ・・・地震か!?」 「いや・・・違う・・・」 振動は、すぐにやんだ。しかしすぐに、新たな振動が起こる。今度はさっきより大きい。けれど、これもすぐにやむ。 「何が起こってる・・・?」 「『空』が・・・落ちたんだ・・・」 「は・・・?」 封真の言葉に、黒鋼は耳を疑った。 「何・・・言ってんだ・・・。落ちるわけないだろ・・・!あれは小説の中だけの・・・!」 「あれを読んでくれたのか・・・」 「あ・・・?」 意味を掴みかねて眉を顰めた黒鋼に変わり、ファイが封真に尋ねる。 「『次の地球の君達へ』・・・あれを書いたのは、封真君だったの・・?」 「いや・・・書いたのは、別の奴。お前達みたいに・・・空を愛した奴だった。俺はただ、打ち込んでネットに載せただけだ。でも・・・よかった・・・。あいつの言葉は・・・届いたんだな・・・。」 また、振動が起きた。今度は微弱な。 「まさか・・・『空』って・・・」 「バベルの天井。人類が物質化した、『空』だ。」 「っ・・・!」 また立て続けに二回振動が起こる。世界中にバベルは五つ。最後のバベルが、今消えた。 「嘘・・・そんな・・・」 「バベルは、酸への対策が万全じゃなかったらしいな・・・。悪い・・・もう・・・バベルへ戻るっていう選択肢はなくなった・・・。」 封真は、まるで予想していたように言う。揺れ以外に影響がなかったということは、この建物の下にはバベルはないのだろう。まるで予知して避けたように。 「じゃあ、一ヶ月以内に出て来いって言ったのは・・・こうなるって分かってて・・・」 「それもある・・・。それと、俺に残された時間の問題・・・」 封真は壁に背を預けたまま、ずるずるとその場に座り込む。 「封真君!」 「・・・こっちも、予想以上に早かったんだけどな・・・。でももう、伝えるべき事は全部伝えたから・・・。」 「お前・・・どうして・・・」 「・・・病気じゃない・・・これは・・・宿命。」 「宿命・・・?」 「生きながら体が腐っていく・・・そういう、宿命なんだ・・・」 封真は、袖を捲くって、腕を二人に見せた。肌の一部分がどす黒く変色している。ファイには、見覚えのある現象だった。 「星史郎さんと同じ・・・」 「あの人を知ってるのか?」 「俺の兄貴だ・・・。血は繋がってねえが・・・」 「・・・そうか・・・。」 星史郎は、これは病気だといっていた。生きたまま体が腐っていく。最初は内臓などの弱い組織から。 「俺達は・・・ある研究の実験台だったんだ・・・。」 「実験台・・・?」 「不老不死実験。」 「・・・・・・」 それは、この時代になっても実現しなかった、人類の夢。いや、この時代になってしまってはもう、忘れられた夢だ。 「俺達は、施術を受けた順に、前期、中期、後期実験体に分けられる。本当は、前期の前に初期と呼ばれる期間があるが、成功例がない。星史郎さんは中期実験体。ああ・・・昴流さんは・・・後期実験体だ。」 「昴流って・・・・夕日の・・・?」 「ああ。あの人は、本物の太陽を見た、最後の世代だろう・・・。」 部屋に夕日を書いて欲しいと望んだ、盲目の少年。年は、自分達とそう変わらない様に見えたのに。 「一番上手く行ったのは、前期実験体。施術を受けた年齢のまま、一番長く生き続ける。更に良質の技術を求めた中期実験体は、効果が弱くて緩やかに老いていく。まあ、普通の人間の20倍くらいは遅いから、周りから見れば全く老いないように見えるだろうが。」 「じゃあ・・・兄貴も・・・」 「ああ。250年ほど前に、研究所に来た。」 「250年・・・」 結局、彼は最後まで、黒鋼にさえ年を教える事はなかった。 「悲惨だったのは後期実験体だ。薬の副作用が酷くて、その場で命を落とすものも多かった。症状が軽いものでも、失明や全身麻痺・・・」 昴流の視力も、そのときに失われた。 「実験体の生殖能力テストも行われた。昴流さんと一緒にいた北都という名の少女、遺伝子的には、彼の3代後の子孫に当たる。」 「姉弟じゃ・・・なかったんだ・・・」 「彼女は、研究所で、あの人から採取された精細胞と、他の実験体から採取された卵細胞を掛け合わせて、人工子宮で生まれた子供の孫だ。生まれたのは研究打ち切り後だから、向こうは俺の事は知らないだろう。俺達の長寿は一代限りのもので、子孫には遺伝しない。長寿の俺たちが自分の子供として育てても、辛い思いをするだけだ。生殖能力テストで作られた子供は、データを取った後に破棄されるのが通例だったが、あの人は、自分になんの責任もない子供なのに、研究所内で育てる事を望んだ。」 「そういえば・・・あの人も、内臓を・・・」 昴流は、呼吸器を病んでいると聞かされた。 実験体は皆、見た目はさほど変わらないのに、内臓から腐って死んでいく。 「これは、細胞の限界なんだ・・・。外見は不老に見えても、細胞レベルでは、少しずつではあるが、確実に老いている・・・。だが、研究が打ち切りになったのは、そのことが判明したからじゃない。こんな地球上で、何百年も行き続けたいと望み、研究へ出資する者がいなくなったからだ・・・。俺達は・・・腐敗を遅らせるための僅かな薬と、各自一つだけ、望むものを与えられて解放された。」 「望むもの・・・?」 「多くの実験体は、戸籍を望んだ・・・。普通の人間として、生きていけるように・・・。」 そういえば、封真は、自分には戸籍がないと言っていた。何百年も行き続けていれば、本来の戸籍は消滅するだろう。 「封真君は、それを望まなかったの・・・?」 「俺が望んだのは・・・研究データ・・・。決して表には出さないって言う条件で・・・。」 「何でそんなもの・・・」 「何でだろうな・・・。戸籍があっても、普通には生きていけない気がしたんだ・・・。あの時はまだ・・・俺には死の兆候が現れてなかったから・・・戸籍を手にしても・・・生きてるうちに、またなくなるんじゃないかと思ってた・・・。長く生き過ぎると・・・俺だけは絶対に死なないような・・・そんな錯覚に陥る・・・。それに・・・俺はずっと実験台として生きてきたから・・・研究がなくなると俺の全てがなくなる・・・そんな気がして・・・」 けれど、そのデータも、役には立った。 「箱舟の動物達・・・寿命を延ばしてるんだ・・・。自然界では恐らく・・・体が腐りだすまでは生きられないだろう・・・でも・・・通常より多くの子孫は・・・残せるはずだ・・・。」 実験台として長く生きるうちに、研究員以上に実験内容に詳しくなってしまったのは仕方がないこと。他にも、様々な知識や技術を身につけた。役に立つかどうかは関係なかった。科せられた長い生の、時間つぶしになればそれでよかった。 封真の呼吸が苦しげになる。けれど、聞かずにはいられない。 「お前は・・・何年生きてるんだ・・・。」 「俺は前期実験体・・・最も成功に近かった失敗作・・・。生まれたのは、4世紀ほど前だ・・・。」 「4世紀・・・」 地上で一人過ごした14年、どれほど孤独で長い時間だったのだろうかと思った。けれど、そんなものはほんの誤差程度でしかないくらい、彼の時間は長く孤独だった。 「だが・・・本当に生きていたのは・・・研究所を出てからの、20年余りだけだったように思う・・・。だから・・・箱舟は・・・俺の人生の全てをかけた夢・・・地上で一人すごした時間・・・俺は確かに満たされていた・・・」 だから哀れみはいらないと封真は微笑む。ただ、最後の夢を叶えてくれと。 「お前は・・・神にでもなりたかったのか・・・?」 無に見える場所から命を作り出す。その行為は神の創世に似ている。 しかし、封真は否定した。 「まさか・・・。俺は・・・ただの・・・人間だ。」 「ただの人間・・・」 「ああ・・・少しだけ夢を見た・・・ただの人間・・・」 人は皆そうなのではないか。幸せを手にするという夢を見るあまり、その夢によって地球を殺し、自らを地下へ追い込み、本当の幸せがなんだったのかを忘れ、滅びた。 「次の地球には・・・お前達だけで行ってくれ・・・。俺は、空があった時代に生まれたから・・・青空に悔いはない・・・。」 「封真君・・・」 「箱舟を頼む・・・まだ何か起こるかもしれない・・・早く、行け・・・」 「やだ・・・もう少し・・・ここに・・・」 「頼む・・・行ってくれ・・・。最期の言葉は・・・生涯で一番大切だった奴に贈るから・・・。」 死を前にしているのに封真の目はとても穏やかで、黒鋼は静かにファイの肩を叩いた。 一人残された廊下を這って、封真は研究室の中に戻った。そして、壁に貼られた一枚の絵を見上げる。最後にバベルに降りたときに、ファイから譲り受けた青空の絵。 「見れば見るほど・・・お前の空に似てるよな・・・」 できれば彼に、見せてやりたかった。そう思って、封真は小さく頭を振る。 これからいくらでも、話してやれば良い。地下都市にもちゃんと、青空を愛した人たちがいたこと。自分達の夢は、彼らが継いでくれた事。 「約束は果たした・・・今行くよ・・・」 封真は静かに目を閉じる。 彼の場所からは、青い空が見えるだろうか。 降りづく雨は地上を覆いつくし 人の痕跡は全て洗い流された。 唯一つ残された空間で、人類の最後の夢が静かに息づく。 「空へ。」 ******************* あんまり余計な事語ると雰囲気が壊れそうですね・・・。 次、最終話です。 BACK Genesis |