箱舟





時に神の世は乱れて、暴虐が地に満ちた。

神が地を見られると、それは乱れていた。

すべての人が地の上で道を乱したからである。



そこで神はノアに言われた、

「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。

彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。

あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちとそとを塗りなさい。



その造り方は次の通りである。

すなわち箱舟の長さは三百キュビト、幅は五十キュビト、高さは三十キュビトとし、

箱舟に部屋を作り、上へ一キュビトにそれを仕上げ、

また箱舟の戸口をその横に設けて、一階と二階と三階のある箱舟を作りなさい。



わたしは地の上に洪水を送って、命の息のある肉なるものを、みな天の下から滅ぼし去る。

地にあるものは、みな死に絶えるであろう。

あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟にはいりなさい。



またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、

それぞれ二つずつを箱舟に入れて、あなたと共にその命を保たせなさい。

それらは雄と雌でなければならない。

すなわち、鳥はその種類にしたがい、獣はその種類にしたがい、また地のすべての這うものも、

その種類にしたがって、それぞれ二つずつ、あなたのところに入れて、命を保たせなさい。

また、すべての食物となるものをとって、あなたのところにたくわえ、あなたとこれらのものとの食物としなさい。」



ノアはすべて神の命じられたようにした。



<旧約聖書『創世記』第六章>




恐らく僕達は今

神がかつて行った殆どの事を

自らの力で行えるだろう

けれど空を削って得たその力は

空の美しさに勝るものだっただろうか



神様

僕はただ本当の空の色が知りたい










地上の光景は、記憶しているものとは全く違ってしまっていた。
アスファルトに覆われていたはずの地面はなく、乾いた砂が世界を覆っていた。
シャトル・ノアで地下都市へ移住したあの日、確か近くに都市が見えていた気がするのだが、辺りには見渡す限り、人の建造物らしきものはない。
「ここは・・・どこ・・・?」
「本当にこれが地球なのか?」
まるで、見知らぬ星にでも降り立ったかのような気分だ。ただ、分厚い雲に閉ざされた空だけが、あの頃と変わらぬまま。
乾いた風が吹く。目が痛い。
「これからどうしますか?」
小狼が聞く。
「えっと・・・とりあえず出てくる事しか考えてなかったから・・・このどこかに、封真君がいるはずなんだけど・・・」
「連絡は取れねえんだったな。闇雲に歩き回るしかねえのか?」
途方にくれていると、小狼が何かに反応して遠方を見つめる。
「エンジン音が近付いてきます。」
「エンジン音?」
地上にはもう、人はいないはず。ただ一人を除いては。
一台の車が三人の前に降り立った。中には懐かしい顔。
「よお、久し振り。」
「封真君!」



フィルターが開くと、信号が送られるようにしてあったらしい。それでファイ達が地上に出てくることが分かったのだと封真は車の中で説明した。
そんな説明と、封真と小狼の自己紹介をしながらもうしばらく走っているが、風景は全く変わらない。アスファルトで覆われた地面も、鉄やコンクリートで作られた建造物も、その痕跡すら見つけられない。
「封真君・・・地上はいつからこんな風になったの・・・?」
「バベル移住後すぐだ。何度か雨が降って、文明の痕跡はあっという間に全部溶けて消えた。人がいたときは、街は雨で被害を受けないように完璧に守られてたが、抵抗する力がなくなれば、人の造った物なんて脆いものだ。」
雨は強い酸性を示すことは、いまや人類の常識だ。昔の人々は雨を天からの恵みと呼んだと言うが、この時代においては、雨は建物も作物もそれに触れた人間も害する毒の水。
今地上に残っている建物は、恐らく自分が住んでいる建物だけだろうと封真は言った。一件くらいなら、何とか守る事ができたと。
「人の造ったものが地上から消えると、地上には雨が降らなくなった。まあ、地上に住んでる俺には、そのほうが助かるんだが。・・・空に留まった水の分だけ、雲が厚くなったように思う。」
「地上から人が消えても・・・空は元には戻らないんだね・・・」
不思議なものだ。バーチャルスカイより、この空のほうが閉塞感を感じさせる。
「人は地下に潜っただけで、その営みは変わらないからな。むしろ、罪の証たる空が見えなくなったことで、人はさらに遠慮なく、有害物質を地上に撒き散らした。地下では、環境保護運動なんてのは起こらなかったんじゃないか?」
そこには、偽りとは言え、決して失われる事のない青空があったから。人類は自らの行いを省みることはない。けれど人々は知っていたのかもしれない。自分達を救う神がもういないのと同様、自分達が守るべき環境など、もうどこにもなかったことを。
「空は人の行いを映す鏡だ。綺麗な映像で誤魔化したって、これが現実だ。」
「空は・・・鏡・・・」


『あの日からずっと考えていた。空とは何だったのだろう。』
声は問う。地球上のすべての者達へ。
『鏡』。
それも一つの答えなのかもしれない。


「見えた。あれだ。」
封真が前方を指す。その先にぽつんと立つのは、薄汚れた壁の無機質な建物。バベルの一般住居よりも広い。本来は、居住用の建物ではなかったのではないかと思われた。
その考えを肯定するように、封真が説明する。
「規模は小さいけど、昔は研究所だったんだ。動物や、空の研究をしていた。」
それは、科学が奪ったものばかりだ。

封真は車を研究所の前に止めて三人を降ろす。
建物の中に入る前に、入り口の脇にあった、室外機程度の大きさの箱に目が留まった。
「これは何?」
「斥力発生装置。って呼んでるだけで、実際はそんなに大げさなものじゃないけど。」
酸性雨が、建物に当たらないようにするための装置だと封真は説明した。地上ではどこの都市にもあったものを、この研究所を守れる程度のものに小型化しただけ。
「あ、それなら知ってるー。オレは、シールドって呼んでたよ。」
建物を覆うように高密度の空気の層を作って、雨が街の上に落ちてこないようにするのだ。下から見上げると、まるでガラスのドームの屋根の上を雨が流れていくような不思議な光景だった。
「街一つ守るほどのシールドを張るには膨大な力が必要だったが、ここだけなら、自家発電で賄える。地上で暮らしていくための命綱だ。」
これがなければ、数多の街のように、ここも雨に溶けて消えるだろう。
「今は雨が降らなくなって久しいが、いつか必ず雨は降る。今まで降らなかった分もまとめて。聖書にしるされた大洪水のように、地球上のすべてのものを洗い流すために。そのいつかを、雨はうかがってる。そんな気がするんだ。」
封真は空を見上げてそう言った。





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