バベルV




全地は同じ発音、同じ言葉であった。

時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。

彼らは互いに言った、

「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。

こうして彼らは石の代わりに、れんがを得、しっくいの代わりに、アスファルトを得た。

彼らはまた言った、

「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。

 そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。



時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔を見て、言われた、

「民は一つで、みな同じ言葉である。
 
 彼らはすでにこの事をしはじめた。

 彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。

 さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにしよう」。



こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。

これによってその町の名はバベルと呼ばれた。

主がそこで全地の言葉を乱されたからである。

主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。



<旧約聖書『創世記』第十一章>




もし明日僕が死んでも

地球は何も変わらない

ちっぽけな存在だったはずの人類

それなのに僕らは


神様

生きてることさえ罪ですか





封真が二人に与えたものは大まかに三つ。

一つ目は期限。
『必ず、一ヶ月以内に上がって来い。』
「何で一ヶ月なんだ。」
「さあ。詳しい理由まで聞いてる時間はなかったから。」

二つ目は情報。
『通気孔の中の構造を説明する。あの中には、フィルターがある。』
試練、と言い換えるべきかもしれない。通気孔を通るには、ハッキング技術が必要不可欠だと。
「向こうから開けて貰えねえのか。」
「連絡手段がないんだってー。オレ達がいつ行くかも向こうには分からないし、開けっ放しになんて出来ないしね。」
地上に電話は通っていない。電波も殆ど入らない。それでも何とかインターネットには接続しているらしいのだが、自分に繋がる情報は極力減らしたいのでメールは繋いでいないらしい。

三つ目は、超小型空気清浄機。
『フィルターより上の空気は直接は吸えない。これを口に咥えて、これを通して呼吸しろ。一本で二時間くらい持つ。これだけあれば、十分地上までは持つはずだ。』
「こんな小さなもんがなあ・・・。」
見た目はチョーク程の大きさなのだが、バベルの通気孔よりも少し高度な空気浄化処理を行うらしい。
「でもこんなのがないと呼吸も出来ないなんて・・・地上ってどうなってるんだろう・・・。」
「・・・行けば嫌でも分かるだろ。」
「・・・そうだね・・・。」


兄の死後、黒鋼はファイの家で暮らしている。幼稚園の施設建造物だった前の家からは早急に立ち退きを迫られ、バベル政府が指示した新しい住居はJブロックとかなり遠かった。どうせもうすぐバベルを出て行くのだ。その後、戻ってくる事があるとしても、今は近くにいたほうが良い。バベルは、誰と住むかに関しては寛大だ。部屋の余っているファイの家への移転申請を出すと、あっさりと受理された。
「それで、ハッキングできそう?」
「・・・・・・」
パソコンの前で難しい顔をしていた黒鋼は、ファイの質問に更に眉間の皺を増やした。

プログラムはそれが生まれた古来よりセキュリティ側とハッカー側が切磋琢磨しつつ進化してきたものだ。今までインターネットとレポート作成程度にしか使ったことのない初心者が、一ヶ月やそこらでバベルを守るプログラムに侵入するなど、限りなく不可能に近い話。一応二人で協力して、技術を学ぼうと努力はしているのだが。
「プロを雇ったほうが早いんじゃねえか・・・」
「そんな人どうやって見つけるのー。」

地上は、思った以上に遠かった。



「あーあ、もう夕方だー。買い物に行かなきゃ。」
時間がないのに、生きるための営みは止められない。人間とは面倒なものだ。
黒鋼もパソコンを切って立ち上がった。運転手と荷物持ちの無言の申し出だ。無愛想に見えて何かと気が利く。黒鋼の背後でファイは小さく笑みを零した。今までより多くの時間を一緒に過ごすようになって、見えたことがたくさんある。まだ夢には届かなくても、こんな時間も悪くない。


「夕飯、何が良い?」
「そうだな・・・昨日は野菜が多かったから、今日は肉か・・・」
そんな話をしながら食料品店の中を歩いていると、見覚えのある後姿を見つけた。
「あれ?藤隆さん?」
声を掛けると、彼は振り向いて、いつもの優しい笑みを浮かべた。
「ファイ君。ああ、黒鋼君も。こんにちは。」
「こんにちはー。随分遠くまで来てるんですねー。」
「今日は特別です。こっちの方がお菓子類が多くて。」
見ると、かごの中に小さなケーキの箱が入っている。
「何かのお祝いですか?」
「誕生日です。・・・息子の。」
「あ・・・」
ファイの顔が強張る。その様子を見て黒鋼が不思議そうな顔をする。藤隆は苦笑して、すぐに話題を変えた。
「二人は、また空を目指してるんですか?」
「あ、はい・・・。」
「おい、なに正直に・・・」
バベル脱走者管理局局長。藤隆の肩書きを考えれば黒鋼のように警戒するのが当たり前なのだが、藤隆のほうが非常識に黒鋼をなだめる。
「大丈夫、僕は止めませんよ。」
「あ・・・?」
「協力できる事もあるかもしれません。何かあったら、尋ねてきてくださいね。」
「藤隆さん・・・」
この人も、星史郎と同じだ。人が空を目指すことは、罪ではないと知っている。
「あ、すいません、そろそろ帰らないと。夜からはまた勤務なので。」
「あ、じゃあ・・・また・・・」
「ええ、さようなら。」
にこやかに笑って去って行く藤隆の背を見送りながら、黒鋼が小声でファイに尋ねる。
「あいつの息子って・・・」
「・・・もう、いないんだ・・・」
「・・・そうか。」
二人の反応からある程度予測できた答えに、黒鋼は静かに目を伏せた。




別れがどんなに悲しいものだったとしても、この日に生まれたという事実は変わらないから、せめて祝う振りだけはしてやりたいと思うのだ。けれど罪深い自分に、謝罪以外の言葉など許されるはずもない。愛しい者の写真の前にケーキを置いて、呟くのはいつもの懺悔。
「すいません・・・小狼君・・・」
こんな自分の下に生れ落ちてしまった日が、彼にとって喜ばしい日であるはずがないから。




「息子さん、空が大好きだったんだって。空の写真がいっぱい載った本を、いつも見てたらしいよ。オレ、母さんが死んだ後、しばらく藤隆さんのおうちでお世話になって、その時に何度もその本を見せてもらって・・・精神的に結構まいってたんだけど、その本を見てるときは、落ち着いた・・・」
きっと空への思いが強まりだしたのはその時期からだろう。バベル移住計画が発表される、少し前の話。
「・・・事故か何かだったのか?」
亡くなった理由を、聞くのは良くない事だろうか。ハンドルを握りながら、黒鋼はチラリとファイのほうを見る。
「そこまでは知らない・・・。藤隆さんは、その辺のことは話したがらないから。話をしてくれるときはいつも、生きてたときのことを教えてくれるんだ・・・。」
人の死なんて、話題にして楽しいものであるはずがない。話の流れの中で僅かに触れた自分の母の死にも、こんなに胸が締め付けられるのに。
心に空いた穴は、埋まらない。
「大丈夫か・・・?」
「え・・・?」
不意に尋ねられて、ファイはきょとんとした顔で黒鋼を見る。
「誰が・・・?」
「お前だ。なんか・・・辛そうな顔してた・・・」
「・・・・・・オレは・・・」
黒鋼の横顔から目をそらして、ファイは車の上から街を見下ろした。その視界の中、建物と建物の細い隙間に、人を、見た気がした。

「黒みゅー、止まって!」
「あ?何だ。」
「今、誰か倒れてた!あの建物の横!」
「・・・また行き倒れかよ、どうしてお前はそう・・・」
ぶつくさと文句を言いながらも、黒鋼は車をファイが指した建物の前に着陸させる。
二人で車を降りて、そっとその路地を覗く。そこには確かに人が倒れていた。しかし今回は明らかに、封真のときとは状況が違う事が一目で見て取れる。そこにいたのは自分達より少し幼い少年。衣服には、本来の色が分からなくなるほどの、真っ赤な液体。
「っ・・・!」
ファイが口元を押さえて数歩後ずさる。黒鋼は少年の傍らにまで近付いた。
「これ・・・血じゃねえか・・・。」
生きているのだろうか。確かめようと首筋に手を触れると、少年が短く呻いた。
「生きてる・・・おい、救急と警察に・・・!」
「ま・・・て・・・くださ・・・」
少年が、意識を取り戻して、黒鋼の服を掴む。
「通報は・・・しないで・・・くださ・・・・おれに・・・関わると・・・・」
途切れ途切れにそういうと、少年はまた意識を失った。
「おい?おい!」
少年を軽く揺すって、黒鋼は違和感に気付く。
(重い・・・?)
この体格でこの重量。どう考えても異常だ。
そして、気がついた。銃創のように見える腕の傷痕、皮膚が破けた場所から覗く、金属。
「お前・・・サイボーグなのか・・・」
驚くほどの事ではない。日常的に見かけるわけではないが、人体の機械化は、医療の分野などでよく使われている、かなり一般的な技術だ。良く見れば、機械が覗く傷口からは、血が流れていない。血に染まった服のせいで出血量は多く見えるが、全てが少年のものというわけではないのかもしれない。
「関わらねえ方が良さそうかもな・・・」
何か事件の臭いがするのだが、しかしこのまま放っておくわけにもいくまい。手当てくらいはしてやるべきだろう。見たところ彼は武器の類は所有していないようだし、通報が必要かどうかは、後で考えればいいことだ。
「おい、こいつ運ぶの手伝ってくれ。」
黒鋼がそう言いながら後ろを振り向くと、ファイが真っ青な顔をしていた。
「・・・?どうした?」
「ご、ごめん、オレ・・・血が・・・こ、怖くて・・・」
口元を押さえた指先が震えている。そういえば先ほどから、ファイは一歩もこちらに近付こうとしない。
黒鋼は知らない。その液体は、ファイの脳裏に焼きついた血溜りの記憶を呼び起こす。

『お母さん・・・!』

「・・・車のドア、開けてくれ。」
だが事情など知らなくても、ファイの怯え方は異常だと分かる。
黒鋼は自分の上着を脱いで、少年にかけた。血の色が隠れる。そして、見た目より重い少年の身体を何とか一人で担ぎ上げると、黒鋼は彼を車の後部座席に横たえた。







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