地上において、国境なんてものはあってないようなものだったから、ヨーロッパに住んでいたはずのファイが、東洋人の藤隆と知り合いである事には何の不思議もない。それでも、どういう経緯で知り合ったのか、どんな時間を過ごしたのか、どうして空を見に行ったのか、色々と気になることはあったのだが、二人の話はバベルに移住してからの事ばかりで、当時の話題は何一つ出なかった。久し振りの再会では、それも仕方のないことだろうか。 二人の近況報告をしばらく隣で聞いていると、兄の到着を警官の一人が黒鋼に告げる。 「お兄さんがいらっしゃいましたよ。」 「あ、どうも・・・」 その報告を聞いて藤隆が立ち上がる。 「すっかり話し込んでしまいましたね。では、ファイ君も一緒に帰って下さい。」 「え、いいんですかー?」 「ええ。今日はもう遅いですから。また今度ゆっくり、お話しましょう。」 「はい!」 結局ファイには取調べらしきものはなかったのだが良いのだろうか。バベル脱走者取締局、思ったより適当だ。いや、この藤隆が、なのだろうか。 警官に導かれて部屋を出ると、廊下で兄・星史郎が待っていた。少し、難しい顔をしている。 藤隆が叱らなかったからすっかり油断していたが、兄には叱られるかもしれない。厳重注意すらされなかったとはいえ、一応犯罪を犯してしまったのだから。ここは早めに謝っておくのが得策だろうか。 「その・・・悪い・・・。」 「ほんとです。まったく、最近外泊ばかりで寂しいなと思っていたらこんな形で再会なんて。」 こつんと額を小突かれた。再会、などと大げさな単語を使わなくても、着替えや学校の準備に帰る時に時々顔は合わせていたはずだが。 「罰として今夜はうちで寝なさい。」 「あ、ああ・・・。」 そういえば今夜からは封真がいないのでファイの家に泊まる理由がない。罰を食らうまでもなく、今夜からは家に戻る事になるだろう。 それにしてもこれは、外泊を続けた事を叱られているのか、バベル脱走未遂を叱られているのか、どちらなのだろう。 「バベル脱走って実は大した罪じゃねえのか・・・?」 「え・・・でも実刑は結構重かったはずだよ・・・?」 星史郎の車の後部座席に乗り込みながら二人が小声で話していると、星史郎がファイに声を掛けた。 「ファイさん、」 「は、はいっ!」 「先に送っていきますね。おうちはCブロックでしたよね?」 「あ、はい。Cブロック4−3です。あの・・・」 それでもこのままでは駄目だろう。ファイはぺこりと頭を下げた。 「すいませんでした、ご迷惑おかけして。」 「いえいえ。迷惑だなんて思ってませんから、大丈夫ですよ。」 にこやかに笑って、星史郎がアクセルを踏む。車がふわりと浮き上がり、静かに空中を走り出す。 「黒鋼君は昔から手のかからない子でしたから、一度くらいこういう経験もさせてもらいたいなと思っていたので、嬉しいくらいなんです。」 「嬉しい・・・?」 「ええ。あ、僕に黙って地上に行こうとしたのは、少し寂しいですが。」 「そんな事、言ったら止めるだろ・・・。」 「止めませんよ。」 それは罪なのに。星史郎の言葉は、そのほうが正しいのだと言わんばかりの力強さを持っていて。何が正しいのか分からなくなる。バベル脱走、それは罪ではないのかもしれないと。 「ファイさん、」 「はい。」 「ここしばらく、黒鋼君は、暇さえあったらあの部屋に行って、貴方が描いた空を見てるんですよ。」 「え・・・」 「な、何言ってんだ、俺は別にっ・・・!」 「本当のことでしょう?」 ファイが黒鋼を見ると、チラリと目が合った次の瞬間にそっぽを向かれた。夜なのでよく分からないが、頬が、少し赤い気がする。 「これでも14年間、兄役を務めてきましたから、何を考えているかくらい、なんとなく分かります。いつか、行ってしまうんだろうと思っていました。空を見たい。それだけの理由で。」 「じゃあ・・・どうして止めなかった・・・。」 「止められませんよ。たとえ法で縛り付けたって、人は空に焦がれる。」 星史郎が上を見上げる。頭上に、映像の満月が輝いていた。 人は空に焦がれる。地下都市移住計画が発表されたとき、誰もが地下都市の天井に青空を望んだように。それはとても、当たり前の事だと。 「地上に青空はありません。あそこはもう、人が住む事も出来ない汚染された場所です。」 「・・・知ってる・・・。」 「でも解ってはいないでしょう。」 知識として知っていることと、実感として理解していることは違う。 「解っているなら、空への憧れより、地上への恐怖が勝るはずです。地上を目指すのは、本当の地上を知らない、あの時子供だった者たちだけです。僕たち大人は、君達に、空を見上げずにすむ夢を与えて、その憧れを忘れさせようとした・・・。」 「兄貴・・・」 もっともらしい理由で自分の跡を継げと言ったのは、全ては地上へ行かせないため。空を見上げる夢を、忘れさせるため。 けれどもう、止められない。 せめて何も言わずに送り出すことが、子供達にできる最大の懺悔だと。 「信じるものは救われる、という古い言葉を知っていますか?」 「聞いた事くらいはある・・・」 「じゃあ、誰が救ってくれるんだと思います?」 「・・・・・・」 後部座席の二人は顔を見合わせて、ファイがおずおずと答える。 「神様・・・ですか・・・?」 「信仰は、ここでは無意味ですよ。」 バベルに住む人間は、皆知っている。自分達の神が、自分達を救うことはもうないのだと。 「じゃあ・・・人か・・・。」 「ええ。」 人を救えるのは人しかいない。地球上には、もう人しかいないのだから。青空もバベルの動植物も、ここでの偽りの喜びは全て人が作り出したもの。神がこの世に与えたものなど、もう、残ってはいない。 「信じるものだけが、救いのために足掻く。けれど人は、信じることをやめて逃げてしまった。だから、この地下都市に、救いはないと思うんです。」 神の創造物を破壊しつくした咎人達は、バベルという檻の中で静かに裁きのときを待つだけ。 けれどまだ信じるというのならば。 「地上に行くことを、とめる権利なんて誰にもない・・・。」 法がなんと言おうと、それはきっと、罪ではない。 「ファイさん、おうちはこのあたりですか?」 「あ・・・はい、あそこです。」 いつの間にかCブロックまで戻ってきていた。ファイが指差した建物の前に、星史郎は車を着地させる。そしてエンジンを切ると、後部座席を振り向いた。 「少し、二人で話したいことがあるんですが、いいですか?」 「え・・・」 「なんだよ。話なら俺も」 「黒鋼君は、車で待っていてください。」 「・・・・・・」 彼には珍しい強めの口調に、黒鋼は口を噤む。星史郎はファイを促して車を降りた。 「あの・・・」 何を言われるのだろうか。やっぱり怒られるのだろうかとビクビクするファイに、星史郎は優しく微笑みかける。 「そんなに怯えないで下さい。次はいつ地上へ行くのか、もう決めてますか?」 「いえ・・・ただ・・・先に行った人が、一ヶ月以内に上がって来いって・・・。」 「一ヶ月、ですか。」 星史郎は何かを考え込むように少し目を伏せる。 「星史郎さん・・・?」 戸惑うファイを、星史郎は真剣な眼差しで見つめた。 「ファイさん、黒鋼君に知られたくないことなので、取り乱さずに聞いてください。」 「は・・・はい・・・」 「僕はもうすぐ死にます。」 「・・・・・・え・・・?」 「一ヶ月・・・いえ、恐らく二週間も、持たないでしょう。」 「・・・・・・・・」 言葉を失うファイの前で、星史郎は自分の袖を捲る。露わになった腕の皮膚の一部が、どす黒く変色していた。 「これ・・・」 「病気・・・のようなものです。生きながらにして、体の細胞が死んでいくんです。」 「細胞・・・が・・・?」 「最初は内臓のような弱い細胞から。大抵は皮膚にまで現れる前に死んでしまうんですが、僕いは随分、長持ちしてしまって。」 「・・・・・・」 迫り来る死を、目に見える形で示されて、ファイはなんと言葉を発すればいいのかわからない。ただ必死に、取り乱すなという星史郎の言葉に従って、足が震えるのを堪える。 「君達が地上へ向かう足枷にはなりたくありません。僕のことは気にせず、行ってください。でももし、僕の方が先に死んだら、そのときは、黒鋼君をお願いします。」 「星史・・・郎さ・・・」 上手く呼吸が出来ない。そんなファイの肩にそっと手を置いて、星史郎は穏やかに微笑む。 「彼は両親をなくしていますが、幼すぎて覚えていないんですよ。本当に一人になるのは、これが初めてだと思うので。」 話題にそぐわない笑顔。死への恐怖などない。そして、弟を託していける人を見つけたことを、喜んでさえいる表情。 「よろしく、お願いします。」 星史郎はそう言い残して、黒鋼が待つ車へ戻った。 ファイは、緩慢な動作で、扉を開けて、家に入った。扉を閉めるまでの一つ一つの動作が、ひどく危うげで、そして扉を閉めると同時に、糸が切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちる。 気分が悪い。胃が、締め付けられている気がする。 体中が震えて、抱きしめても、止まらない。 「や・・・」 遠い日の、誰かの声が聞こえる。 『お母さん・・・?』 「やだ、やめて・・・やめて・・・!」 耳を塞いで蹲っても、消えない声。 頭を振って強く目を閉じれば、瞼の裏に、真っ赤に染まった幻影が見えた。 『お母さん・・・お母さん・・・!』 「お願い・・・やめて・・・・・・」 掠れた声で、誰かが自分の名を呼ぶ。 『ファ、イ・・・』 「ああああああああああああ!!!」 「うわあああああああああああ!!!」 自分の咆哮がやんで、少年はゆっくりと目を開けた。そしてそのまま目を見開く。 自分を捕らえようとしていた男達が、身体から血を流して倒れていた。生体反応がない。 「あ・・・あ・・・・・・」 一歩、二歩と後ずさる。ふと自分の腕に目を落すと、返り血を浴びた腕から、銃が、生えていた。 誰か御訪問を告げるチャイムの音に、藤隆は玄関に向かった。扉を開けると、昨日再会したばかりのファイが立っていた。 「ファイ君、いらっしゃい。どうぞ。」 リビングに招き入れて、お茶とお菓子を出す。そこで、ファイに昨夜のような笑顔がないことに気がついた。目が赤い。昨夜は、眠れなかったのだろうか。 「何かあったんですか?」 「・・・・・・」 こくんと頷いて、ファイはゆっくりと話し始める。 「黒むーの・・・あ、昨日、一緒にいた男の子の・・・」 「黒鋼君ですね。彼の?」 「・・・お兄さんが・・・もうすぐ・・・死んじゃうって・・・」 「・・・・・・黒鋼君はそのことを?」 「ううん・・・そのときまで、言わないで欲しいって・・・」 ファイが手にしたカップの中で、紅茶が波立つ。手が、震えている。 「オレ・・・その時が来たら、黒むーをよろしくって言われたけど・・・どうしていいか分からなくて・・・」 「ファイ君も、お兄さんとは親しいんですか?」 「少し・・・しゃべった事があるくらい・・・。でも・・・黒むーは本当にお兄さんの事が大好きで・・・あの人がいなくなったら、黒むーはどんなに悲しいんだろうって思うと・・・凄く、苦しくて・・・」 ファイは口をつけぬままカップを戻して、両手で顔を覆った。 「オレ・・・どうすれば良いんですか・・・?」 「・・・・・・」 藤隆は席を立って、そっとファイを抱きしめる。 「君は同じ傷を持ってるから、こういうのは辛いですね・・・」 「同じじゃないっ・・・!」 ファイはばっと顔を上げる。 「オレと黒むーは同じじゃない!星史郎さんは・・・お母さんとは・・・違う・・・。」 ファイの目に、じわりと涙が滲む。 「オレは・・・悲しむ権利なんてないし・・・お母さんもきっと・・・望んでない・・・・・・」 「ファイ君・・・」 「オレと黒むーは違う・・・。黒むーの方がきっと・・・何倍も悲しい・・・」 「・・・そんな事ありませんよ・・・。」 もう一度、藤隆はファイを抱き寄せる。 「人が死ぬという事は、そこに穴が空くということです。その人がいた空間。そして誰かの心。穴が空いた心は痛くて悲しい。それは、誰だって同じです。権利なんて関係ありません。その痛みは、変えようのない事実です。」 藤隆が、子供をあやすように背を撫でてくれる。 懐かしい感触だ。14年前、母を亡くした日も、こうして背中を撫でてもらった。 昨夜から、繰り返し繰り返し、頭の中で繰り返されていた映像が止まる。やっと、息が出来た。 本当は、こうして欲しくて来たのかもしれない。自分は卑怯だ。でも、落ち着いたら、純粋に黒鋼を想えた。 「・・・・・・オレ・・・どうすればいいの・・・?」 「開いた穴は埋まりません。でも、痛みはいつか治まります。側に居てあげてください。少しでも、痛みが軽くなるように。君なら、出来るはずですよ。」 きっと藤隆は、分かっていて、抱きしめてくれたのだろう。隠さなくても、伝えなくても、受け止めてくれる。解ってくれる。 彼もまた、同じ傷を持つ者。 「・・・・・・・・・藤隆さんは・・・」 「はい?」 「藤隆さんの傷は・・・もう痛まないんですか・・・?」 「・・・・・・・・・」 藤隆は、無言のまま、ぎゅっとファイを抱きしめた。 ファイが帰った後、藤隆は一人、棚に飾ってあった写真を手に取る。そこには、彼と、妻と、幼い息子の姿が写っていた。 「悲しみ続ける事で、許されるなんて思っては居ません・・・。でもせめて、この声が君に届けばいいのにと思うんです・・・。」 一週間後、黒鋼がファイの家を訪れた。扉を開けて、目にしたその瞳から、ファイは恐れていたときが来たのだと知る。 「・・・兄貴が・・・」 途切れた言葉の先は求めず、ファイは黒鋼の背に腕を回した。強く強く抱きしめて、黒鋼の肩に顔を埋める。彼の胸の痛みが、少しでも軽くなるように。 けれど本当は、黒鋼の痛みに共鳴する、自分の痛みに耐えていただけだったのかもしれない。 腕を回した広い背中が静かに震えるのを感じながら、遠くに、子供の泣き声を聴いていた。 血溜まりの中で上げた声に応える者はなく 「誰か答えてくれ・・・おれはっ・・・!」 祈りは夜の闇にこだまして消えるだけ。 「すいません・・・」 懺悔は届かない。 「ごほっ・・・ああ・・・俺の番か・・・」 カウントダウンは止まらない。 それでもただ 「いつかきっと、空を・・・」 夢だけは、宙を舞う―― **************** 藤隆さんをアシュラ王にするかどうか物凄い悩んだんですが。原作アシュラ王ここまで人のよさそうな男でもない感じなので藤隆さんで。 伏線みたいなのばっかりでごめんなさい。次章からは回収にかかります。主人公sとまったく接触せずに独自にストーリーを展開しちゃってる少年君の物語も次回でやっと交わります。 back Babel V |