「こんにちは、黒みゅー。」
「よお。」
ファイが、黒鋼の兄の経営する幼稚園に通い始めてから、もう3日になる。年が同じだったこともあり、二人はすぐに親しくなった。今ではもう、ファイが黒鋼をあだ名で呼ぶほどまでに。最初黒鋼は渋い顔をしたが、もう怒ることも諦めたようだ。

「今日も下塗りか?」
「うん、天井くらいは、今日中に塗り終わるかな。」
天井や壁をとりあえず青く塗ることを、ファイは下塗りと呼ぶ。
空といっても一色ではない。薄い青から初めて、濃い色を重ねることで濃淡をつけていく。
黒鋼の兄が選んだ色なら、天井と壁、合わせて一週間ほどかかるだろう。
それから雲を描いていく。完成は、2週間ほど先になるだろうか。
幼稚園の春期休暇が明ける2週間半以内に、という期限には間に合いそうだ。

「ああ、ファイさん。こんにちは。」
「こんにちはー。」
黒鋼の兄は、保育士らしい穏やかな人だ。若いのに落ち着いた雰囲気で、いつも笑顔で迎えてくれる。

仕事場である園庭に着くと、ファイは早速仕事の準備を始めた。天井の三分の一ほどが、すでに淡い青に染まっている。
「綺麗な色だな。」
天井を見上げて、黒鋼が呟く。
「この色、好き?」
「ああ。透明感があって、いい青だ・・・・・・」
「これは、スカイブルー。」
「スカイブルー・・・・・・」
Sky Blue。空の青。
失われた空は、こんな色だったのだろうか。
「バベルの空はもっと濃い青だな。」
「あれは、人が一番落ち着く色を使ってるんだー。日によって少しずつ変えてるけど。本当の空を見たことがある人なんて、殆ど居ないから。」

ファイはそう言いながら、天井をスカイブルーに染めていく。そして、ふと思い出したように付け加えた。
「オレ達が描いてるのは、最も本物に近い偽物の空なんだってさ。」
「偽物?」
「オレ達は、依頼人が選んだ色で空を描くでしょー?それは、その人にとっては空だけど、本物の空じゃない。本物の空は、こんな色じゃない。」
「・・・・・・お前は、本物の空を見たことがあるのか?」
ファイは、少し手を止めて口元に笑みを浮かべた。
「ラスト・スカイを見たんだ。あの真下で。」
「ラスト・スカイ・・・・・・見に行ったのか?」
「うん。」

ラスト・スカイ(Last Sky)、それは、人類が見た最後の空。
バベル移住の5日前、地上の最後の思い出にと、空を見る実験が行われた。人工衛星を打ち上げ、空を隠している雲に穴を開ける。電磁波がどうとか、色々説明された気がするが、当時5歳だったファイには良く分からなかった。
実験は成功。ほんの30秒ほどだったが、厚い雲の合間に覗いた真っ青な空は、それを見た人々の目にしっかりと焼きついた。
後に、人々はその空をラスト・スカイと呼ぶようになる。

「あの青を求めて、この仕事を始めたんだ・・・。だけど、あの青には届かない。」
「スカイブルーじゃなかったのか?」
「違う。もっと澄んでて、吸い込まれそうな青なんだ。ヴァーチャル・スカイ(バベルの空)なんて、比べ物にならないくらい・・・・・・。」
目を閉じれば、こんなにもはっきりと、ラスト・スカイが見えるのに、どんな青を混ぜ合わせても、あの灰色の雲の間に見えた、澄んだ青にはならない。だから今日も、偽者の空を描くのだ。

「黒むーは、学生さんだったよねー?何か資格目指してるの?」
「ああ。保育士になる。」
「へえー!良いね、なんか意外に似合いそう。」
「意外にとはなんだ、意外にとは。」
「あ・・・えへへー。」
ついこぼれてしまった本音を曖昧な笑みでごまかして、ファイは再び手を動かし始めた。黒鋼は眉間にしわを寄せて見せたものの、何らかの自覚があるのか、それ以上は突っ込まない。
ファイは続ける。
「保育士は、やっぱりお兄さんに憧れて?」
「憧れてって言うか・・・。この建物は施設建造物だから、資格がある奴とその家族しか住めねえんだ。もし兄貴に何かあったら、強制的に引越しさせられるからな。居住地はバベル政府が決めるから、どこに飛ばされる分からねえし、子供が嫌いじゃねえなら、跡を継ぐのも悪くないだろうって言われて。」
「そっかー。こういうところに住むのって大変なんだー。」
バベル政府が行うのは、主に住民の『管理』だ。誰もがどこかに住めるように。誰もがどこかで働けるように。誰もが等しく生きていけるように。全ての住宅は同じ構造、同じ広さだから、不動産業などというものはここでは存在しない。誰がどこに住むか、政府が割り振って決めていく。
「でもお兄さん、まだ何かあったらなんて心配するほどの年じゃないでしょうー?」
彼がいた部屋は少し離れているが、聞こえないように少しだけ声を潜めると、黒鋼もあわせて声量を落した。
「いや、寿命はまだ先だろうが、年はああ見えて結構行ってるんだ。バベル移住前からこの仕事やってたから、少なくても30後半くらいは・・・」
「え、見えないー。っていうか、随分年の離れた兄弟だねー。」
「ああ。血の繋がりはねえんだ。地上に住んでたころ、家が隣同士で。」
「え、そうなのー?」
少し似ていないなとは思っていたが。それなら、彼の年齢をはっきりとは知らないらしいことにも説明が付くだろうか。
「じゃあ、どうして今は一緒に?」
「俺の両親は俺が小さい頃に死んで、俺は遠い親戚に引き取られたんだが、籍は移してなくてな。バベル移住計画は、親子関係があるものたちは同じバベルに移す事を保障してたが、運悪く育ての親とは別のバベルに移ることになって。孤児院に行くしかねえかって言ってたら、当時隣りに住んでた兄貴が、同じバベルに行くからって引き取ってくれたんだ。」
バベル移住に関して一度下された決定は、世界中でさまざまな理由で起こる苦情に対応していてはきりがないということで、最初から一切変更はないと言う事が明言されていた。しかし、誰と住むかに関しては寛大だった。

「兄貴には感謝してる。だから、あんまり心配させるのも心苦しいし、保育士も悪くねえかと思ってな。」
「その前には、別の夢があったの?」
「いや・・・何もなかった。ただ・・・バベル移住前は、パイロットになりたかった。」
「パイロット・・・」
「ああ。小さい頃、飛行機で雲の上まで登れば、一面の青空が見れると思ってた。」
「飛行機かー・・・。」
けれどそれは夢物語。バベルの空に飛行機は飛ばない。
そして地上でも、バベル移住の頃には、飛行機はすでに飛んでいなかった。人々が雲と呼んでいるのは、実際は地上を覆う有毒ガスの層。その中を飛ぶことの危険性が指摘され、廃止されたのはいつの頃だったか。
鳥が絶滅して、飛ぶものが居なくなった空間を、現在、我が物顔で独占しているのは、200メートルほどしか上昇できない、人間の車である。

夢は地上に忘れてきた。それでも人は、目標がなければ生きていけないから。
けれど、今は、少し想う。
「いつか、本物の空を見てえな。」
ファイが、あまりにも愛おしそうに、その色を語るから。
「オレも、ラスト・スカイみたいな空じゃなくて、もっと一面の青空を見てみたい。」
バベルで暮らす人類にとって、それは最も贅沢な夢。
地上へ出ることは禁止されている。しかし、夢を見ることは罪ではない。

「いつか、一緒に行かねえか。」
「・・・・・・地上へ出て?」
「他に、本物の空を見れる場所はないだろ?」
黒鋼の目は真剣。瞳に満ちるのは夢を叶える力。
叶わないことは分かっていても、信じてみたくなる力。
「そうだね・・・・・・いつか、一面に広がる本当のスカイブルーを・・・・・・」

二人の夢が重なった。








カチャカチャ・・・・・・カチャ
「よし、できた。」
青年は、コンピューターの電源を切ると、上着を着て立ち上がった。
そして部屋を出ようとして、ふと足を止める。
「そうか・・・・・・これが最後になるんだろうな・・・・・・。」

扉を少し開けると、吹き込んだ風が彼の短い髪を揺らした。
「今度こそ見つけないとな。『アダム』と『イヴ』を。」
青年の後ろで、扉が小さな音を立てて閉まった。









(目標確認、照準設定。誤差、0.00001ミリメートル。発射。)
少年が構えた銃から、レーザーが100メートルほど先を歩いていた男性の眉間を貫いた。
血は流れない。男性は、重たい音を立てて地面に倒れた。
周囲が騒然となるが、銃声はしなかったため、少年が撃ったのだと気付くものは居ない。
(任務完了。)
少年は、静かにその場を後にした。









「あれ、黒むー!」
「よお。偶然だな。」
その日は、ペンキを乾かすために一日休みを取っていた。だから、二人が出会ったのは偶然。
「買い物か?」
ファイの手荷物を見て黒鋼が尋ねた。ビニール袋の中から除いているのは、インスタント食品の袋。
「料理しねえのか。」
「うーん、苦手ではないんだけど、一人暮らしだとなんか面倒くさくてついつい・・・」
ファイは、バベル移住前に母親が亡くなったため、高校卒業までは孤児院で育ち、仕事に就いた今は一人暮らしだ。
「黒むーは、どこ行ってたのー?」
「図書館。データで読むほうが手軽だが、なんとなく紙の方が好きでな。」
答えながら黒鋼が開いた鞄の中には3冊の本。小説らしい本が2冊と、
「旧約聖書?」
「それは兄貴の分。久し振りに読みたいんだと。」
「オレも昔読んだなあ。途中で飽きたけど。」
現在でも、聖書は多くの人々に読まれている。経典としてよりは、物語として読む人のほうが多いが。

「そういえば、どうしてこの地下都市は、バベルって言うんだろうな。」
バベルの塔。人間達が造ろうとした、天にも届く塔。
それは神の怒りに触れ、神は人々の言葉を乱したという。
「新しい生活が始まる町って言う意味じゃないかなー。聖書の中では、あの町から人類が世界に散ったから。」
「始まりの町か・・・・・・。」
(始まり・・・・・・か・・・・・・?)

けれどこの町は、終わりに向かっているように見える。
バベル、それは、神の怒りに触れる名前ではないのだろうか。
ここは、地球を殺すという大罪を犯した人間達が、神の裁きを待つための町。

(なんてな・・・。)
暗い考えが浮かんだのは、今日のバベルの天井に、曇り空が映し出されているからだろうか。その考えを振り払おうと、黒鋼は本の残り2冊をファイに示した。

「こっちは知ってるか?」
取り出した本のタイトルは、『次の地球の君達へ(ToYou on the Next Earth)』。3巻と4巻ということは、最低でも4冊は出ているということだが、ファイがその本を目にするのは初めてだった。
「どんな話ー?」
「地球を殺した人間達が、空が落ちてきて死ぬ話。」
「空が?」
「ああ。死んだ人間は、次の地球の大気になって、次の地球の人間がまた空が落ちてきて滅びるまで、ずっと見てなきゃならねえんだ。空が落ちてくる前に、一人だけ、大気の声が聞こえる人間が出てきて、前の地球で起こったことと、これから起こることを教えられる。そいつが、次の地球の人間に、また空が落ちてくることを伝えるって言う話の繰り返しだ。」
「・・・・・・怖いな・・・。」

こんな時代でなければ、恐怖など感じないのだろう。怖いと思うのは、今の地球の状態を思うから。
人類は地球を殺してしまった。空が落ちてくる条件はそろっている。
空が落ちてくるなんて、あり得ない事だと分かってはいるけれど。

「神様からの罰かあ・・・・・・」
「いや、地球の復讐なんだと。」
「地球の・・・・・・」
人類が殺した地球に、人類が殺される。
聖書の世界では人間を罰するのは神なのに、人類は地球の復讐によって死ぬのだという。
「それを書いた人は、神様を信じてないのかな。」
自分も信じるわけではないけれど。
しかし神がいないなら、誰に救いを求めればいいのか。

「これ書いてる奴、分からねえんだと。編集者しか名前がねえだろ?この小説のウェブサイトがあるんだが、どこの誰が書いてるのかは、どうしても分からねえらしい。」
「ウェブサイトがあるのに?」
「ああ。よく新作が載ってるから、どこかで生きてるのは確かなんだが。」

姿を見せない謎の作者。
「だから、流れた噂が、この話は神からの警告じゃねえかって。」
「警告かぁ・・・・・・」
存在さえも不確かなその人は、まるで本当に神のような。
それなら、
「空は本当に落ちるのかな。」
「落ちるのかもしれねえな。」
ありえないと分かっているけれど、神を信じるわけではないけれど。

「黒むー、空を見に行こうね・・・。」
「ああ。」

空が落ちる前に、どうか――――






数日後、空が完成した。
「ほお・・・・・・」
床のシートを剥がすまで、外で待たされた黒鋼は、ファイに呼ばれて園庭に入り、思わず言葉を失った。
室内には一面の青空。
芝生の緑と、どこまでも流れ行く白い雲。
壁に描かれた、はるか彼方の地平線。
まるで、草原にでも立っている様。

「すげえな・・・・・」
「へえ、たいしたものですね。天井が高く見える。」
後から入ってきた黒鋼の兄も、思わず溜息を漏らす。
透き通るような青空は、思わず手を伸ばしてみたくなる。その昔、人々がおそらくそうしたように。遥か彼方に見えるのに、そうすれば手が届きそうな気がして。

「あ・・・・・・」
天井に向けた手の指の間から、黒鋼はあるものを見つけた。
白い雲の向こう、少し隠れて、目立たないように描かれたそれは、
「飛行機・・・・・・」
「内緒ねー。」
すぐ側で聞こえた声に振り向くと、真横に並んだファイが、悪戯っぽく笑っていた。
そこにこめられたのは、黒鋼だけに分かるメッセージ。



いつか夢が本物の空に届く日まで、その成就をこの空に祈ろう。

いつか本物の空を見に行くんだ。
雲の向こうの青空に、憧れを抱いた君と二人で。






「よし、捜すか。『アダム』と『イヴ』を。」
青年は、一歩を踏み出した。

運命が動き出す。



カプセルに水が満ちる。少年は静かに目を閉じた。
(おれは・・・・・・)

祈りは届かない。



「ゴホッ、ゴホッ・・・・・・」
口に当てた手を見れば、僅かに血がついていた。

終末へのカウントダウンが始まった。



「すみません・・・小狼君・・・・・・・」

懺悔は虚しく虚空に消えて、



「いつかきっと、空を。」

ただ夢だけが宙を舞う――――







***********

第一章・・と言うかまだ序章的な部分ですが、こんな話はいかがでしょう。
まだこれ誰?っていう人がいっぱいいますが。途中何度かあわられた二人は勿論、最後の部分の怒涛の台詞集も、誰がどれ言ってるのかちゃんと判明するように進めていけたらいいな(弱気)
また遠慮のない長文になると思うので、気長にお付き合いいただけると幸いです。最後までよろしくお願いします。




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