Chapitre.−1 終幕への序曲








例えば世界中のありとあらゆるものを、『特別』と『普通』の二つのグループに分けたとする。
ファイの場合、『普通』の領域が人より広かったらしい。自分も他人も世界さえも、同レベルの『特別』でないもの。何に対しても、執着など持てなくて、自分の体でさえあっさりと差し出せる。

そんな彼だからこそ、たった一つの『特別』が、彼にとっての全てになった。
唯一の『普通』でないものが、彼の世界を変えた。



いつの間にか、王に会うのを心待ちにしている自分がいる。



ファイの前を通る時に、王が一瞬だけ足を止める。注意していなければ分からない程度に。
それが、今夜来いという合図。そんなことを決めなくても、すれ違うのは週に一度程度で、そのたび必ずと言っていいほど、王はファイを呼び出したけれど。



その合図が待ち遠しい自分がいる。



愛されているのだと思えば、王の腕は蕩けるような快感を与えてくれた。
少しの酒を飲んで、他愛ない話をして、優しいぬくもりに抱かれて眠る、ただそれだけがひどく幸せなものに思えた。



けれど全ては、ほんの些細なすれ違いから砕け散ることになる。





その日はいつもより肌寒く、昼前に降り出した雪は、夜になってもやむ気配を見せなかった。
なんとなく寝付けなくて、分厚い魔法書を見るともなしに見ていたファイは、少し寒気を感じてガウンを羽織った。そして、1時間ほど前に暖めたブランデーを、一口、口に含む。熱はとっくに失われていたが、アルコール分だけで十分体はぬくもるだろう。

(やまないなー。)

窓外に目を向けると、外は、風も出てきたらしく、雪が踊っている。

(明日もやまないだろうなあ。)

この国では、3日以上雪が降り続くこともよくある。だから、こんな夜は慣れているはずなのだけれど。

(会いたいなあ・・・なんて・・・)

誰かのぬくもりを恋しく思ったことなど、今までなかったのに。こんな夜は、あのぬくもりが欲しくなる。

隣室が何やら騒がしい。きっと、仲間内で集まって、酒盛りでもしているのだろう。人肌恋しいのは皆同じらしい。
騒々しいのはあまり好まないファイは、その中に混ざろうとは思わないけれど、もしかしたら誘いが来るかも知れない。隣室の主は、同期で入った魔術師の一人。彼は、何かとファイにかまいたがる。実は、ファイの方は未だ、名前も覚えていないのだが。
                 
ひとひら
断る理由を考えながら、雪が一片、舞い落ちていくのを目で追った。なんとなく、その一片だけが目に付いて。
理由は、落ちていく先を見て初めて気づく。その一片だけが、風に流されることなく、まるで何かに引き寄せられるかのように。

いや、きっと引き寄せられたのはファイ自身。

どうやら、人肌恋しいのは皆同じらしい。


「何してるんですかー?」

窓枠に積もった雪で服を濡らさないよう気をつけながら、窓から身を乗り出す。雪の中に立つその人は、そんなファイを見て笑みを浮かべた。

「入れてくれぬか?」




隣室はメンバーが増えたらしい。一段と騒々しさが増したようだ。

「臣下の部屋に窓から忍び込む王様なんて、聞いたことないですけどー。」

そう言って笑うファイの手には、湯気を立てるブランデーを入れた二つのグラス。少し加えたシナモンが、いい香りを放っている。

「会えたら呼ぼうと思ったのだが、今日は会わなかったからな。」

アシュラ王は、グラスを受け取ってさらりとそう言うが。

「侍女さんに伝言頼むとか、方法はいくらでもあるでしょう?」
「それは、お前が嫌うだろう?」
「オレは・・・・・・」

言いかけて口をつぐむ。侍女が呼びに来ると、必ず丹念な湯浴みと、香水がセットになっていて、嫌なのはその甘い香りだけなのだが。

「何だ?」
「いえ、なんでもー。」

たまには、こういうのもいいかもしれないから、これは秘密にしておこう。


ふと見ると、王のグラスはもう空になっていた。あまり高級な酒でもなかったので、どうかと思ったが、どうやらお気に召したらしい。

「おかわりはー?」
「いや、後でいい。」

そう言って、王はファイの手を引く。結局また半分ほどしか飲まなかったブランデーを、ファイがベッドの脇のサイドテーブルに置くと、もう片方の手が腰に回された。
ベッドが二人分の重みを受けてぎしりと啼く。音が隣に漏れるのではと危惧したが、深いキスを交わすと、そんな心配をする気は失せた。
きっと隣も騒がしいので、大丈夫だろう。



途中、一度だけ、誰かが扉を叩いて、ファイの名を呼んだ。
きっと、隣室の騒ぎに誘いに来たのだろう。鍵をかけておいてよかった。

ノックの音に扉を振り返ったファイを引き戻すように、あるいは咎めるように、アシュラ王は噛み付くようなキスをした。
もしかして、結構独占欲が強いのかもしれないと、いつも冷静沈着な王の意外な一面に、小さく笑みがこぼれた。



ベッドのきしむ音と、隣室の騒ぎは、ほぼ同時にやんだ。



静寂に満たされた部屋の中では、グラスを置く音さえやけに大きく響く。
目を開けると、王の手が、空になったグラスから離れるところだった。

「何か淹れましょうか?」

サイドテーブルの上の二つのグラスは、両方とも空になっている。きっと、ファイの残りを飲んだのだろう。熱の残っていないホットブランデーは、情事の後の喉の渇きを潤すには、不適切だと思うが。

しかし王は、ファイの申し出を軽く首を振って断る。もう帰るつもりらしい。確かに、こんなところを人に見られたら問題になる。暗いうちに帰る方が賢明だ。

「また窓からー?」
「廊下で、人に会ったらまずいからな。」

まあこの時間、窓から外を眺めている人間はいないだろうし、いたとしてもこの雪の中、人の判別はできないだろう。
しかし、雪も風も魔力で防げるのだろうが、それでも雪を掻き分け部屋に戻る王の図というのは滑稽だ。

「何だ?」
「別に何もー。」

思い浮かべた光景にくすくす笑うと、不思議そうに首を傾げられた。どうやら彼には、この興趣は理解できないようだ。


そっと王の手がファイの頭に触れる。長い指が、細い髪を梳いていく。
どうやらこれがお気に入りらしい。最近では、この動作が癖になってしまっている。
大きな手は心地よくて、ファイも何も言わずにされるがままになっている。

「最近、よく笑うようになったな。」

不意に会話を振られ、自分のことだと気づくまでに時間がかかった。

「そうですかー?」
「ああ・・・はじめてあった頃は、どこかぎこちなかった。」

その『はじめてあった頃』は、夜伽の相手を、と誘われたあの頃でいいのだろうか。

「それは・・・緊張してたからでしょー?」
「そうか?」
「・・・・・・・・・。」

違うかもしれない。緊張などしていなかった。
ただ、全てに対して、冷めていたのではないだろうか。特別な何かなどない、世界が一色に見えているような感覚の中で生きていた頃だ。
世界が変わる前の話。

そう言うと、アシュラ王は少し怪訝そうな顔をした。

「自分を好いていないのか?」
「その感情が理解できないんですけどー」

自分で自分を愛するなんて。
そんな感情は、思い上がり以外のなにものでもないと思う。

けれどいまは、ほんの少し、分かる気はするのだ。

きっと、愛されることを知ったから。

誰かにとって特別である自分は、その人を中心に回る世界の中で、ほんの少し、他の何かより特別に思えた。要は、世界の中心を持っていなかっただけのこと。




けれど世界は、ほんの小さな亀裂から、粉々に砕け散る。




「自分で自分を愛さないなら、誰が愛してくれるのだ?」」
「・・・・・さあ。」

それは、いつもの他愛ない会話。いつもより真剣な話になった気がしたのは、きっとこんな天気のせいだろう。
王は、いつもどおり微笑んでいた。

王が出て行って、一人になった部屋の中、素肌に毛布を羽織っただけの姿で、ファイは窓辺に立つ。雪の中、王の姿はもう見えない。内と外の温度差で白く曇った窓に触れると、指の跡から水滴が流れた。

『誰が愛してくれるのだ?』

それはいつもの他愛ない会話。深い意味などまったくないのだから、早く忘れてしまえばいいのに。
けれど、言わなかった一言が、胸の中で渦を巻く。


『貴方じゃないんですか?』


「そういえば・・・愛してるなんて、一回も言われてなかったけー・・・」




世界は、たった一つの亀裂から、いとも簡単に砕け散る。




自分で自分を愛するなんて、ただの思い上がりだ。

自分が特別なんて、ただの思い込みだ。



ファイをあざ笑うかのように、外では風が、冷たい音楽を奏でていた。






     





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