聞いてみたいな。
オレの声が、君の名を呼ぶのを。


境界線


「ねえ、黒みゅー。オレの名前知ってる?」
「ああ?」

内容もタイミングも唐突なファイの質問に、黒鋼はこれでもかというほど怪訝な顔をする。

「んなもん、知ってるに決まってるだろ。」

一体いくつの世界を、共に旅したと思っているのか。今更、名前を知らないなど、あり得るはずがない。

「でも、一回も呼んでくれたことないよねー。」
「・・・・・・・・・そ・・・うか・・・?」
「そうだよー。てっきり、名前が覚えられない人かと思ってた。」

そんな奴だそれは、という突っ込みは飲み込んで、今までのたびを軽く振り返ってみる。そう言われてみると確かに、いつも『お前』や『テメエ』で代用させて、本名を呼んだことはなかった。しかし、

「別にお前に限ったことじゃないだろ。」
「そうなんだけどー。」

人を名で呼ばないのは、一種の癖のようなものだ。他の二人と一匹の仲間(?)も、誰も名で呼んだことはないはず。それなのに、どうしてこんな時にこんな話をするのか。

「ねえ、呼んでみてよ。」
「・・・・・・なんで今更。」
「今更だからー。名前で呼び合うのって、親しくなった証拠じゃない?」
「俺がいつお前と・・・っ」

続くはずの言葉は、唇を塞がれて口から出ることを禁じられた。
触れるだけの、けれど永いキス。

「まだ親しくないなんて言うの?」
「て
めっ・・・!」

悲しげな顔で見つめてくるファイ。悲しくなどないくせに。

「・・・・・・大体、なんで今そんな事・・・」
「えー、小狼君たちがいる所の方がいいのー?黒様ってば大胆ー。」
「そうは言ってねえ!!」
「大声出したら起きちゃうよ。」

また引き寄せられる。今度は本当に、かすめるだけのキス。
唇が離れると、間近にあるのはいつも通りのへらへらした笑顔。

「呼んで?」
「・・・・・・・・・。」

唐突過ぎる。
どうして今、こんなときに、たったこれだけのことにこだわるのか。
どうして、いつもどおりに抱き合って眠る、ただそれだけのことができない。

「後でいいだろ、そんな事。」
「今。呼んでくれないなら、部屋に帰っちゃうよー。」
「戻るなら戻れよ。俺は困らねえぞ。」
「ひどいなー。オレも困らないよー。」
「・・・・・・・・・認めんなよ。」

どこが親しくなったというのか。不必要なつながりを欲するだけの、虚しい関係を求めるくせに。

戻るなら戻れ。そう言って体を離すこともできた。組み敷いた体には、引き止める力も意思もない。執着なんて、微塵も持っていないはずなのに。

それでも、どうしてもそんな気にならなかったのは、くだらないプライドと、つまらない意地。

それなら呼んでやればいいのに。それができないのは、自分でも嘲笑ってしまうほど、自分に不似合いな感情のせい。

「く〜ろりん♪」

見上げてくる瞳は、黒鋼の反応を楽しんでいるだけで、決して彼の口が、自分の名を紡ぐことを求めているわけではない。
呼びたくないといえば、それでも許すのだろう。
ただ、拒否するだけの理由が、黒鋼の方にないというだけで。

(ああ、くそっ・・・・・・!)

それはあまりにも子供じみた反論。

「じゃあ、お前が先に呼べよ!」
「うわー、黒様、逆ギレだー。」
「うるせえっ!」

声を潜めた怒鳴り声は、別室の二人を起こすほどのものではないけれど。確かに理不尽な怒りであることは間違いなく。

それでも、名を呼んでもらったことがないのは、黒鋼も同じで。

「お前、俺の本名、知ってんのか?」
「知ってるよー。」

当たり前でしょ、とでも言いたげな表情で、それならどうして、名を呼ばない。

「呼べよ。」
「嫌。」
「・・・・・・・・。」

要求に対して返されたのは、瞬間信じられない程、はっきりとした拒否。
ここまできっぱり拒否されるとは思っていなくて、しばらく黒鋼は二の句が告げない。
あのふざけたあだ名に、それほどまでに意味があるとは、到底思えないのに。

「そんな顔しないでよー。本名も好きだよ?」
「・・・じゃあ、何で呼ばねえんだ。」
「んー・・・・・・」

少し悩むフリをする。
そしてすっと目を細めると、笑顔の形の無表情に、瞳の青が深みを増した。感情を読み取らせないまま、口だけが静かに言葉をつむぎ出す。



「境界線。」



「・・・・・・」

答になっていない。一単語では、理由を表すのには不十分。
そのはずなのに。
なぜか理解できた。その一単語は、十分すぎるほどに、名を呼ばない理由を示すこと。

「俺は・・・そんなんじゃ・・・・・・。」
「知ってるよ。」

まとまらない頭で、無理に喋ろうとする黒鋼に、ファイは静かに微笑む。
全てを許す微笑みは、けれど何も受け入れはしない。

「やっぱり今日は帰るねー。こんな気分じゃなくなっちゃったー。」

そっと肩を押される。力がこもっているわけでもないのに、体は簡単に動いた。

「おい・・・。」

口から漏れた言葉は、彼に向けたものなのか、自分に向けたものなのか。
ファイは、黒鋼の言葉など聞こえないかのように、何も言わずにベッドを降りる。

「おいっ!」

離れていく背中と、伸ばした手の間に、境界線が二本。
簡単に届く距離なのに、ひどく遠く感じた。

「ファイッ!!!」

一本が切れた。ほんの少しだけ、二人の距離が縮まる。
黒鋼の手は、残った境界線ごと、ファイの腕をつかんだ。
やっと振り向いた顔には、僅かな戸惑いの色。

「呼んだぞ。」
「・・・・・・そうだねー・・・」

本当に呼ぶとは思わなかった。だから呼べと言ったのに。

減ってしまった境界線。けれどもう一本は、切るわけには行かない。
腕をつかむ手は、力強くて優しくて、振り払うには勇気がいるのだ。

「オレは呼ばないよ?」
「構わねえ。」

即座に返ってきた反応は、きっと、全て理解しているのだろう。
いつか、この手を離さなければならない日が来ること。
全てをさらけ出した後に待っているのは、より辛い別れだけ。

だから、すがるものが必要だということ。
それなしに、この手を振り払えるほど、自分は強くないから。

「ごめんね・・・」
「・・・・・・・・・。」

謝罪のわけは訊かずに、黒鋼はファイを抱き寄せる。
境界線を挟んだままの抱擁は、とても温かくて心地よくて。
不覚にも、にじんだ涙の向こう。景色と共に、揺らぎそうになる境界線。

「黒みゅー。」
「何だよ。」
「もっかい呼んで?」
「・・・・・・・・。」

柄にもなく照れているのだろうか。黒鋼が、ファイの耳に直接吹き込むようにその名を呼ぶまで、しばらくの間があった。

赤くなっているのだろう。きっとお互いに。
確かめる勇気はない。

だから、今はおとなしく、ファイは黒鋼の方に顔をうずめる。

いつか振り払わなければならない、その手に身を委ねて。

一本だけ残った境界線。

けれどもう、いつか来るそのときに、この手を振り払える自信はなかった。





                        甘・・・・・・。
                        今更名前ネタなんて、とは思いましたが。
                        それでもやるから雪流さん。
                        本誌で黒が「ファイッ!」なんて叫んだ日には、
                        私は踊り死ぬ自信があります。
                        死に顔はにやけているはずです・・・。
                        では(逃)



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