Chapitre.−∞ 始まりの形(前)  










その頃、ファイはまだ城に仕える多くの魔術師の一人でしかなかった。魔力の強さで、新入りとしては一目置かれていたものの、たいした出世欲もなかったため、王など、間近で顔をあわせる事もなく、そんな彼に感じるのは、義務的な尊敬と忠誠心だけだった。

だから、その頃はまだ、予想もしていなかった。彼と、こんなにも遠く離れてしまうこと。そしてそれを悲しむ程度には、彼に近づいたこと。

後悔も哀咽も、懺悔も祈求も。

今となっては、全て、どうしようもないことだけれど。





同僚の魔術師たちと、城の廊下を歩いている時だった。前から王が来るというので、皆、脇によけて頭を下げた。臣下が王の顔を間近で見ることは許されない。つまり、王が通り過ぎるまで、この姿勢を保たねばならない。
初めのうちは辛く感じたものの、ファイも王とすれ違うのはこれで数度目で、そろそろこれにも慣れて来ていた。

ただその日は、衣擦れの音が自分の前で止まったから、つい顔を上げてしまっただけで。

本来なら、許しがなければ、王の顔を見ることなどかなわないのだが、好奇心が、ファイの顔を押し上げた。

目に映ったのは、自分を見下ろす黒髪の男。

(この人が・・・。)

初めて見る王。凛とした顔立ち。長身の体から発せられる威厳。けれど、どこか優しいぬくもりを宿した瞳。

(これが王・・・)




「名は?」

不意に彼が発した言葉が、自分への問いかけだと理解するまで数秒。

「ファイ・・・D・・・フローライトです・・・。」

答えた声は、少し上ずっている気がした。けれど、自分の声を聞いたことのない王には分からないだろうと思った。
それよりも頭を下げなければ。新入り魔術師の分際で、王の顔を見たまま発言するなど、失礼極まりない。

けれどどうしても、まるで捕らえられたように、目をそらすことができず、それ以上の言葉も出てこなかった。


権力を前に、緊張するようなタイプではなかったはずだ。



後になって思えば、きっとそれは、何かの予感だったのだろうけれど。



王が再び口を開く。非礼をとがめられるかと思った。しかし、紡がれたのはまったく別の、予想もしなかった言葉。

「夜伽の相手をせぬか?」








一緒にいた同僚たちは、王の姿が見えなくなると祝いの言葉を贈ってきた。

夜伽。王の私室に入ることを許され、王の話し相手になり、時には政の相談も受ける。
一見、一大出世にも見える誘い。事実、多少の出世は約束されたのかも知れないが。

けれど、本当に喜ぶべきことだろうか。


ただの新入り魔術師を、夜伽の相手に指名するということは。


求められているのは、決して頭脳ではないのに。



今夜部屋に、と、一方的な約束を押し付けて言った王。確か名前はアシュラだったはずだと、その程度の知識しかない相手。

(まあ、拒否する権利なんてないんだろうけどねー。)

深く考えるのをやめたとき、そういえば王の私室の場所など知らなかったことを思い出した。





自分が美しいなどと、そんなふざけたことを思ったことはない。ただ、この容姿が、少し人目を引くことは自覚していた。けれどそれを嬉しいと思うことはなく、むしろ煩わしくさえ感じている。

自分が好きかと訊かれれば“No”と答える。嫌いかと訊かれても同じ。自分に興味などない。

だから、嫌悪感はなかった。

ただ、王も物好きだなと、呆れにも似た感情を抱いただけで。





約束の時間はあっという間に訪れる。城の中の、通ったこともない廊下を、ファイは、おそらく王専属の、侍女二人に案内されて歩いていた。

揺れる髪から香る、甘い匂いが気に入らない。

自分でつけたものではない。先程、侍女集団に襲撃されて、強制的に湯浴みさせられた時につけられたものだ。

夜伽の相手を、と、あんな誘い方をした割には、目的が明らか過ぎて逆に笑える。


『まあ、お相手ったって、どうせ御奉仕程度だろ?手と口でさ。本当に抱かれることはねーと思うぜ。』

頼んでもいないのにそう教えてくれたのは、同期の魔術師の一人。悪いが名は覚えていない。覚える気がないというだけだけれど。

(御奉仕ねー。それもどうかと思うけど。)

小さくため息が漏れた。

嫌悪感はない。

はっきり言ってどうでもいい。

断る理由も権利もないのだから、さっさと終わらせて帰ろう。

その程度の気持ちで、ファイは王の部屋の前に立った。

案内の侍女二人は、役目が終わると、さっさと姿を消してしまった。廊下には、ファイのほかに人気はない。人払いがされているのか。いつもこうなのかは、ファイには分からないけれど。

(どうせ、すぐに城中にばれるでしょー。)

きっと、隠すほどのことでもないのだろうが。


控えめに扉をたたく。何と呼ぼうかと少し悩んで、『陛下』と口にした。

「陛下、ファイ・D・フローライトです。」

入れ、と言われるだろうと思って、しばらくそのまま待つ。しかし、室内から声が聞こえることはなく、かと言って、勝手に入るわけにもいかず、もう一度ノックしようとした時、扉は内側から開けられた。

開けたのは、アシュラ王本人。

「入れ。・・・どうかしたか?」

「・・・・・・・・いえ。」

驚いた。臣下に、しかも、たかだか新入り魔術師に、王自ら扉を開けるなど。
さすがに口には出さなかったが。



王に促されて室内に入る。
予想はしていたが、かなり広い。調度品も、魔術師に与えられているものとは比べものにならない。場違いな場所に来てしまった気がする。

少し薄暗い、オレンジ色の照明は、雰囲気を出すためのものなのだろうが、逆に白々しい感じがする。

(オレと雰囲気出してもしょうがないと思いますけど。)

おそらく、白けているのはファイ自身なのだろうが。



「酒は?」

不意に声をかけられて、視線を王に戻す。部屋の真ん中に置かれた小さなテーブルの上に、2つのワイングラスが置かれていた。そして王の手には緑色のボトル。
では、今の質問は、酒を飲むかと言う意味か。

(あなたと飲んでもおいしくないでしょー。)

これも、口には出さないが。

できるだけ失礼にならないよう、笑顔で断る。

「できれば、用事だけ済ませて帰りたいんですけどー。」

十分失礼だった気がする。

しかし、王は気にした様子もなく、ボトルを静かにテーブルに戻した。口元から笑みが消えることはない。

「寝台へ。」

ファイは、王が指した先、自分の部屋のものより2倍ほど大きなベッドに目を向けながら、この王は、いつも必要最低限のことしか喋らないのだなと、そんなことを考えていた。











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